朝鮮人造石油(1) ~朝鮮編1-1~

朝鮮石炭工業灰岩 14. 転勤:朝鮮人造石油
朝鮮石炭工業灰岩
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朝鮮人造石油へ転勤となる

南方の島に上陸する日本軍

私はこの名遙鉱業所には昭和16年10月から18年5月まで勤務していたことになるが、その項、第2次大戦に突入した日本は緒戦ではジャワ、スマトラの南方を戦略し、まづ喉から手の出る程、慾っしていた油田を確保したのであった。
それでその油田を管理する必要上、時の通産大臣であった岸信介は又篠原所長に対して、その人員とスマトラへ転出させるよう指令してきたのであった。
それで篠原所長は早速人選の結果20名中10名を選出し、私もその中の1人であった。
私もそろそろ例の飽性が出て来ていたので南方行は願ってもないチャンスと喜んで幌内の母へ通知をしたところ、今まで私の言いなりであった母が猛裂な反対意見の手紙が来た。
しかし私はこの機会を逸すれば、二度と行くことの出来ない処だけに又折返し私は母へ手紙を出したが、再び同じく中止をするように云って来たので、これだけ母が再度に亘って云って来るのであれば致し方がないと断念し所長には、その旨を申し出て遂いに私の南方行は中止となってしまった。
それで結局南方行きは9名となり、残り11名は安本副長の引卆で朝鮮人造石油行と決定したのであった。

その項名遙砿業所は、例の吉林市に建造中の石炭を原料とした液化工場は、ドイツからの機材の輸入が戦況悪化のため停止となり、名遙砿業所の原料炭は増産の必要性がなくなり、一般燃料用として採堀するだけで、それより、目下、朝鮮の人造石油の原料炭の増産を必要であるということから、残り11名が朝鮮人石へ転勤となった訳であった。

それで、5月1日を期して、南方行9名が篠原所長引卆の許スマトラへ出発し、残り11名中、此処で退耺して他の炭砿へ転出して行った者が3名居り、結局朝鮮行は8名となり、これは安本副所長と共に朝鮮へ出発したのであった。

私共残留組8名の行く先は、朝鮮感鏡北道※注1、阿吾地邑灰岩(※注2という地名の所であった。

旧咸鏡北道庁舍

旧咸鏡北道庁舍

此処は吉林と、罹津の中間、罹津寄りの阿吾地という所から社線で約6km程北へ入った灰岩という処であった。
この地は北朝鮮であるため平地の少ない、岩石の多い山、又山の中にあり、北側のソ連領との境には張鼓峰事件で名の知られた張鼓峰という山が連なっておりその山の領線を境にソ連領、朝鮮とに分岐してこの領線を越境しないように、ソ連軍と日本軍が監視しているため、この灰岩に日本軍が駐屯していた。

阿吾地

阿吾地

この灰岩という処は、文字通り、岩と岩粉の中にあるようなもので、山は背丈けの低い木が僅かにあり、道路は地盤が岩石であるだけに雨が降っても、ぬかるみにはならないが乾燥してくるとボツボツと岩粉だけになる山と山とに圍まれた細長い平地で、その眞中を10m位の川幅に僅かな水の川が流れてをり、駅前通りは商店街になっていて、日本人住宅や映画舘、学校、郵便局、役場、病院等の施設があり、その向いの山裾には朝鮮人部落が密集し、東側は液化工場が昼夜を分かたず、もうもうと黒煙を吐き、石炭採堀の坑口は東、西、北に3ヶ所あると云ったような、総ての施設建物が、この山峡に固まっているという至って殺風景この上もない処であった。

又物資も日本内地同様統制となって駅前の商店は開店休業同様で四家房とは当低比較にならない程の処であった。
從って此処へ来てからは、主食から野菜、果物、衣類等は日本内地と同様に全く窮屈この上もなく、前任地の四家房の生活を思い出す毎日であった。

まず主食は配給制で米と高粱米が半々でその他の副食物は海が近いにも拘らず海魚も又肉類も僅かな配給で、満洲の豊富な食糧に慣れた私達にとっては思いがけない食生活であった。

私はその項まだアルコール類は必要としなかったので、その点では、気楽であったが、酒類も又僅かな配給制であった為、呑む人にとっては暗のマッカリ(朝鮮酒)をさがさなければならず、苦労をしているようであった。

次は住宅であるが、これは一応煉瓦建築ではあるが、間取りは狭い流場の外に6帖2間だけで、床は畳ではなくリノリユーム※注3というを敷いてあるだけで、部屋の窓も寒気を防くため小さな窓で、暖房だけはスチームであった。

このように食、住、環境共に全く意に反したもので、落膽そのものであった。

私の耺務は、朝鮮人造石油(株)※注2阿吾地砿業所第一坑主任という肩書きで、昼夜二交対制12時間勤務であった。
名遙鉱業所より転勤になった8名の社員、準社員、雇員の人々は第一坑2名、第2坑3名、第3坑3分と分かれた。
安本副所長は阿吾地鉱業所詰めで、私は部下の日鮮系混じえた係員16名の長であったが、此処へ来て古田氏が私の部下となったのであった。
古田氏については大口前砿業所及名遙砿業所共勤務先が異っていた為、顔を合せ言葉も交したこともなかった。

古田氏は名遙砿業所当時に幌内から家族を呼び寄せて同居していたのであったが、住宅地区が離れていた関係上古田氏の家族と顔を合せたこともなかったのであったが、この阿吾地へ来て、初めて古田氏が私の部下となった為、時々家族の人達とも挨拶を交わすようになった。※注4
その項家族は一番上の弘ちゃんが小学校6年生位で、それに続く俊光※注5、雅広※注6、伸明の6人家族であった。

 

※注:写真出典「反日勢力無力化ブログ 人造石油と従軍慰安婦」朝鮮石炭工業灰岩工場

※注:写真出典「3 南方後略の日本軍」南方の島に上陸する日本軍

※注1:感鏡北道は正しくは咸鏡北道(かんきょうほくどう、ハムギョンプクド)です。

※注2:下記リンクを見てみると、フクヲの言う朝鮮人造石油は、正式名が「朝鮮石炭工業株式會社」なのかもしれません。

※注:写真出典「Wikipedia 咸鏡北道 (日本統治時代) 」旧咸鏡北道庁舍

※注3:リノリユームとはリノリウムのことだと思います。

※注4:古田氏一家とフクヲ一家は家族ぐるみの付き合いがあったそうで、後に生まれるフクヲの子供たちは古田氏のことを「ジジ」と呼んで親しくしていたとのことです。

※注5・6:フクヲ長女によると、古田俊光氏が長男、雅広氏が二男とのことです。

※注6:古田雅広氏はその後日体大に進学し、東海大学の教授になったそうです。

 

鮭漁見物に行く

豆満江

豆満江

私はこの阿吾地砿業所へ来て早いもので9月中旬になった或る日のことであった。
私はその週は夜勤で夕方6時から朝6時の勤務で、その日私の部下である夜勤の係員は、全部入坑してしまい私1人だけが、広い砿務所の中で、机の上に脚を乘せてボンヤリと、とりとめもない事を考へていると、砿務所の中にある機電係員だけの別室から24、5才位の鮮人の機電係員が出て来て私の前へ立ち「主任これから私の家へ行ってみないか」というので私は驚いてその訳を聞いてみると、その係員は、「私の家は、この灰岩から3駅程罹津に寄った処の漁師であるが、今豆満江で秋鮭が獲れているので、それを見に行こう」と云うことであった。

私はこれを聞いて思わずその係員の顔と時計を見ると午后8時で坑内では今を盛りと仕事に熱が入っている時間なのである。
この時間に勤務を放棄して行くとすれば帰りは明朝になってしまうのである。
それを知っていながら、この係員は私を誘ったのである。
私は、それでこの係員の眞意を探ぐろうとして考へてみた。

大体私は、この砿業所へ着任してから、不思議に思ったことがある。
それは、私が着任しても私の交替者である主任にも、他の係員達にも、又私の直接の上司である係長にも紹介もせず、從って私は係長も、主任の顔も知らず、知っているのは、この坑の最高責任者である坑長だけであった。
それだけではなく、この坑長からも坑の採堀計画の説明もなく、部下の係員から私に対する日誌外作業報告書の提出もない、又私自身の坑長に対する日誌の提出をすることも求められず、只々私は出勤して机に座るか坑内を見て歩くこと以外にすることがないのであった。
これでよく事業が成立つものだと、つくづく感じたものである。
從って係員も規律のない何処で何をしていようと上部の者は知らないというような、この坑に対して不審を私は持ったものである。

それで私は、この機電係員の云うことに納得出来たので承知した旨を答えて、灰岩駅発の終列車で、その係員宅に向った。
駅名は忘れたが、そこで下車をしたが駅前には10軒足らずの家があるだけで、薄暗い照明灯に照らされて、駅から豆満江の崖渕に沿って1町程、細い道路を行くと、そこに3軒程、固っている家の一軒が、この係員の家であった。

時間は既に夜の10時項であったが、この駅に降車したのは私達2人だけで、駅前は一寸した広場があるだけで、左側は10数米もある切立った岩石だけの岩肌で右側に豆満江の流れがあり、その右岸が広々とした平野が続き、その豆満江の川の中心を境いに左が朝鮮、右が満洲になっており、折りから中秋の冴えた三ヶ月に照らされた川の水が反射して全く照明のない只月の光りの中にある日本画の世界にあるような風景の処であった。

豆満江

豆満江

係員の家は朝鮮式家屋で6帖程の部屋に60才を超えたと思われる老夫婦の親と20才位の男の子の3人が居たが、初めて会う私に対して心より歓待をしてくれ、朝鮮漬けや鮭の焼物、マッカリ(朝鮮酒)等で、日本語で夜の更けるまでもてなしてくれた。
そして私のために狭い家の一間を空けてくれ私はオンドルの暖さと酒の酔いでウトウトとしていると数頭の狼の遠ぼえの声がするので、私は夢うつつの中で切立った断涯の上に立って月に向って、ほえている狼の姿を想像しながら、ぐっすりと寝込んでしまった。

狼

翌朝朝食を済せてから、この家の父親と息子2人が船を出し豆満江の流れの中で流し綱を使って鮭を獲る風景を見せてもらい、昼近く獲った鮭の最も大きなのを1匹土産に貰って帰ったのである。

 

※注:写真出展「悲しみの豆満江

リンク

コメント

  1. 緒方 洋志 より:

    はじめまして。
    熊本の緒方といいます。

    {阿吾地」で検索していて拝見しました。
    私の80歳になる母も阿吾地に居たことがあります。
    小学校の4年5年の頃と敗戦直前にもおりました。
    ソ連の参戦により避難民になり朝鮮半島を1年近くかけて縦断し何とか引き上げてきました。

    3年ほど前に「灰岩小学校」の同窓会があることを知り、阿吾地の体験をまとめた冊子を作る話があり、母の引き上げの体験を文章にしました。

    私は定年が近いサラリーマンですが、母や海軍の徴用兵だった父の体験をホームページにアップしようと考えています
    実はホームページの作り方を今勉強しているところです。

    そんな折に、マメコさんのブログを拝見してメセージを書いてみました。

    母のためにも阿吾地の情報があれば教えてください。

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