吉林人造石油(5) ~満州編2-5~

吉林鉄路局局舎 13. 吉林人造石油準社員時代
吉林鉄路局局舎
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渡満後初めての帰省

それから1週間後の或る日、私に対して篠原所長より10日間の帰郷許可が出た。
私は喜んで早速準備に取りかかり9月25日吉林出発、罹津経由で帰國の途についた。
大口前では満洲土産にするような物は何一つなく仕方なしに私は新潟で、梨(ナシ)1籠を買ってそれを土産にした。

幌内へ着いてみると家は市街に借家を借りて住んでおり、兄は木村歯科醫と共に地方出張に出て留守であり、妹ハナは佐野千代隆氏と結婚が決り、その準備で家に帰って来ており、キミは相変らず岩見沢の無儘会社に務めていた。
義父と母の2人は私の居らない家計を推持する為土木作業の日雇いとして仂いていた。
私は久し張りの我が家で伸々と手足を延ばし、1日赤平の與作さん宅を訪ね、幌内には4日間帶在して又大口前へ帰った。
幌内へ久し振りで帰った私であるが、何分会社の手前、余り堂々として外出もならず、只々家の者達の顔を見に帰ったようなものであったが、それで私は満足した気持ちであった。
今回の帰郷は私に対する慰労体暇のようなもので旅費は自分の負膽であったが、所長はどういう意味からか、私にだけ10日間の休暇をくれたのであった。
(この時前述のように私は富美子を連れて帰満したのである)

 

※注:写真出典「“満州”の巨人 満鉄」吉林鉄路局局舎

※参考画像:本文とは関係ありませんが、見出し写真の建物は現存します。
(写真出典:4travel.jp 吉林市(旧満州国吉林市の今昔)中華人民共和国吉林省吉林市

 

大口前鉱業所廃止、名遙鉱業所転勤となる。

私が幌内から帰って来て間もなく10月に入り、北満地方はそろそろ寒さを感ずるようになった項、私達が炭調を続けていた大口前鉱業所に最后の断が下された。
それは炭調の結果、炭質、埋蔵量共に見込みなしということで、大口前鉱業廃止と決定されたのであった。

(大口前砿業所廃止となる)

大口前砿業所廃止に伴い、吉林に建造中の液化工場は、ドイツの戦局が悪化し、そのドイツから輸入していた機材が停止してしまった。
それで吉林人石では大口前砿業所の石炭採堀計画も水泡に帰したので、後は液化計画を断念し、残る名遙鉱業所のみを柱に全面計画変更の余儀なきに至った。

それで大口前鉱業所の人員を、事務系統の者は、吉林本社へ、技術系統の者は名遙鉱業所へ配置転換をすることになり、私達技術系の者、約20名が名遙鉱業所に移った。
この時眞谷地炭砿から来ていた者、又幌内から来た前述の江尻氏外5、6名の人達は他の炭砿へ転耺退耺し、名遙鉱業所へ移ったのは所長、副所外18名の幌内出身者ばかりであった。
名遙鉱業所は操業開始以来既に6年を経ていたので出炭も順調で又地理的にも吉林、牡丹江線※注1の中間※注3、吉林寄りの四家房(シカボー)という駅※注2を控えた恵れた場所で、地名は吉林市舒蘭(ジョラン)県四家房となっている所であった。

※管理人より:注1~3についてはこの章の最後の方でまとめて解説します。)

それで大口前鉱業所が廃止になり名遙鉱業所一鉱となった為、社名も吉林人造石油(株)舒蘭炭砿名遙鉱業所と変更になった。

四家房

四家房

この四家房は大口前と異なり、一応街の形態で、南と北は小高い丘陵が連なり、農家は少なく、ここに居住している満人の殆んとが炭砿関係者で、満人街には日本人用衣類の外は総ての物資が豊富にあ電気製品を販売する店や寫真館日本人経営の料亭、支那料理食堂、まであり、私は此処へ来てその当時のラジオの最高級品、四球スーパー※注4や電蓄を買った。

(名遙砿業所転勤となる)

私はここえ来て渡満以来初めて坑内勤務となった。
この砿業所には一坑、二坑、三坑の3ヶ所の坑口があり大口前から転勤になった18名の技術耺員は、この3ヶ所に分散し、私は一坑勤務で私を含めて3名配属になった。
1人は夕張鉱業卆で布引坑の坑内耺員であった高井孝一という人が坑長で、その下に私と小林準社員(漢陽鎭で乱闘事件に加った1人)という人が昼夜2交対の主任となり、主任の下には日、鮮人雇員係員が20名程の構成であった。

勤務は坑内技術耺員のみが12時間交対であるが、坑内は300mの斜坑1本で坑内深度が浅いため私は坑内に入坑するのは1時間~2時間位で後は殆んと坑口近くにある事務所で坑内や坑外々部からの連絡及打合せをしたり、又機械、電気、坑外運搬係員の詰所が事務所と別箇になっているので、そこの見廻り等で時間が終ってしまう現状で、同じ坑内勤務でも幌内の養老坑当時とは雲泥の差があった。

私がこの名遙砿業所へ転勤になったのは10月で、それからら間もなく12月8日例の第2次大戦の序幕である日本軍のハワイ眞珠湾攻撃を知ったのは、この地であった。

真珠湾攻撃

真珠湾攻撃

しかしこの地では戦争は他國のこと位にしか感じなかった。
一応戦況はラジオで知ることが出来たが、此処では物資が豊富で日本内地のように統制もなければ、この項は在留日本人に対して召集も来ず、至ってのんびりとした生活を楽しんでいたものである。

この名遙砿業所の会社機構で変っているのは、林務課と、警務課というのがあり、林務課というのは、将来この会社の坑内で使用する坑木類を自社生産するため、満人労務者を使用と、この地の丘陵地帶に植林をしているのであった。

又警務課というのは、満洲警察力では頼りにならないという見地から、それに代る制度を会社自体で設けているということであった。
この課は満洲各地で満期除隊になった日本人現役兵を募集し、それを隊員として約20名位の人員で、構成は、元陸軍の上等兵、1等兵に隊長は、これも退役になった曹長級の者で組識しており、服装は日本軍と全く同じであるが、只上着の襟を詰襟りを折り襟に代えて、襟章は、社章をつけ、階級なしといったところが違うだけで、外に銃を携行し、日本馬数等を飼育して会社の警備を行っていた。

私はふとした機会から、この警務課の隊長と知り合いになり、日曜毎に日本馬を借りて附近の丘陵を馳け巡ったものである。

次は、この四家房の会社住宅より約5、600m程行った丘陵地帶に川幅約5m位の、満洲地方の平野にしては珍らしく水の奇麗な川があった。
その川には日本内地のウグイに似た魚がいて、私はその魚取りに初めて爆薬を使用する方法を思いついた。
それは坑内で使用する堀採用のダイナマイトに導火線で、これを四合瓶に入れて砂を詰めて、点火し水深のある処へ投げ込みのである。
そうすると水がゴホッと盛り上った後に大小無数の魚が水面が眞白になる程浮き上ったそれを長い柄のついた手綱で抄うのである。
この項は10月末で水中には素足で入れなくなった時期である。

さてその次は、この四家房は牡丹江行の本線途中にあるので、私は満洲へ来て初めて新京(長春)やハルピンへ一泊で出かけて行き買物傍々これらの街を見物して歩いた。

それとも一つは幌内へ帰った折りに家に置いて来たカメラを持って来たので、行く先々の風景等も随分撮しまくったものである。
しかしこのカメラも私が渡満の橋渡しをしてくれた中鉢氏に是非にも懇願されて、遂いにここで手放しをしてしまった。

私はこの名遙砿業所へ来てからは仕事の関係上、満人に接触する機会が多くなり、自然的に満語(中国語)を覚え、満人とは余り日本語を混じえずに会話が出来るようになり、先方は私を呼ぶ時には、「イエゾン、フナン、シエンセイ」※注5と云うのであったが、これは私の名前の野中福男を満語で云うと、こうした発音になるのであるが、それにしても最后に(シエンセイ、先生)と云われるのには辟易したものである。

又この名遙で思い出として残るのは先図のように所長、坑長主任までは耺員住宅として、他の住宅とは別箇に離れており、外壁は煉瓦積みのスチーム暖房で、所長及坑長は1戸建てで、社員、準社員は二戸続きであったが、間取りは、台所の外に8帖1間、6帖2間の広過ぎる程であった。

雇員である岡部、小林、柏倉、その他の日本人雇員の人達は又別箇の地域の6帖2間の住宅であった。

二戸続きの私の隣りが、満洲建國大学工学部(新京)出身の除(ジョ)さんという私と同年令のまだ新婚ホヤホヤの夫婦2人が住んでおり、その除さんの耺場は私と別箇の二坑という坑の主任をしており、日本語は片言乍ら結構話せる人であったが、若婦人は、満洲の富豪の家の娘だったとみえて、美人であったが、日本語は全然駄目で、除さんが、隣同志で、日本人ばかりの中に只1人入っているという淋しさからか、よく私を呼びに来るので、その都度お邪魔しては若婦人手造りの支那料理を馳走になり、若婦人と私との会話は全て除さんの通訳であったが、婦人は支那服を纏って細身の絵に出てくるような代表的な支那美人であった。

西施

西施

これは後日談ではあるが、私が朝鮮へ転勤後、一度、この名遙鉱業所へ私用で訪れたことがあるが、その時この除さん宅へ一泊させてもらったものである。

 

※注4:四球スーパーとは、真空管4本を使った(4球)スーパーヘテロダイン回路方式(スーパー)のラジオのことですが、戦時下の最高級ラジオは6球スーパー、普及機は5球スーパーで、4球スーパーというのは一般的ではなかったようです。
(参考文献:日本ラジオ博物館 戦時下の高級受信機

※注5:yezhong funan xiansheng(野中福男先生)は中国語(北京語)であり、本来の満州語ではありません。
先生(xiansheng)はここでは日本語の先生(英語のteacher, doctor etc.)の意味ではなく、大人の男性に対する呼称(~さん)の意味だと思います。

 

南満洲鉄道路線図について(by 管理人)

※注1:当時の南満洲鉄道には牡丹江線という路線はなく、吉林から牡丹江には鉄道直通では行けませんでした。何度か乗り換えが必要です。

(1)哈爾濱経由
1-1.吉林→(京図線)→新京→(京濱線)→哈爾濱→(濱綏線)→牡丹江
1-2.吉林→(京図線)→拉法→(拉濱線)→舒蘭※注2)→哈爾濱→牡丹江
1-3.吉林→(京図線)→江北→(金珠線)→煤窰→(煤窰線)→舒蘭→哈爾濱→牡丹江

(2)図們経由
2-1.吉林→(京図線)→図們→(図佳線)→牡丹江

※注2:四家房駅は昭和16年3月1日に舒蘭駅に駅名が変更(※注6)となっています。

※注3:吉林、舒蘭、哈爾濱、新京、図們、牡丹江の位置関係を下の地図(※注7)に示しますが、舒蘭は吉林と牡丹江の中間ではありません(^^;

※注6:出典「南満洲鉄道株式会社全路線 拉浜線

※注7:出典「百年の鉄道旅行 満州鉄道路線図」から一部改変

 

リンク

 

コメント

  1. nabesan より:

    はじめまして。

    最近このブログを発見して、面白くて一気に読みました。これからどうのように物語が展開してゆくのか楽しみです。

    印象に残っているのは、「岩谷の春」の中の、少年フクヲさんが早暁に峠へ登って行った記事の情景描写の見事さ、それに写真で見た、フクヲさんのお姉様の美しさです。

    そして、北海道から満州へ、若きフクヲさんが働き学び望みを抱き生きている姿の背後に、当時の日本や日本人が巻き込まれていった時代の波濤が感じられます。

    マメコさんも、どうぞ御身を大事にされた上で、今後もこの貴重で面白い物語を続けてくださいますように。

  2. マメコ より:

    ☆なべさんへ
    このブログを始めて半年弱ですが、初めてのコメントです。
    感激しました
    ありがとうございます。
    毎日の訪問者が一桁でそのほとんどが家族か関係者だと思っていましたので、一般の方に見ていただいていたとは・・・。
    細々ながら続けていた甲斐がありました。
    おかげさまでB5ノート全4冊にわたる長編回顧録も2冊目が終わりに近づきました。
    あと半年ちょっとで完結する予定です。
    これからもご愛読お願いいたします。

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