朝鮮人造石油(2) ~朝鮮編1-2~

梨 14. 転勤:朝鮮人造石油
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二度目の帰郷

鮭漁見物から帰って来てから暫くして9月末に私は、すっかりこの砿業所の実態にあきれ返ると共に又例の飽き性頭をもたげ、仕事に対する意慾も失せ、気候も秋で幌内の事が思い出されて仕方がなく、私は1週間の休暇届けを出して幌内へ出発した。
今度は吉林とは違い巨離的にも大分近いので、帰り易かった。

家への土産は、この朝鮮では何もなく、又前回同様新潟で梨を1籠買って行った。
家では別段変ったこともなく、兄は又地方出張で不在の為会えず、今回は日数も少ないので何処へも出ることなしで家で3日間を過して帰って来た。
これでやっと私の気が済んだというものであった。

それから約2週間程過ぎた項、突然野中登代という名前で私宛に手紙が来たので驚いて開封をしてみると、今度縁あって野中家へ嫁いだので、よろしくという内容であった。
私が幌内へ帰った時には少しも兄の縁談について話しがなかっただけに、どうしたのだろうかと不審に思ったか、これは後日談であるが、私が帰郷した時には、まだその話が出なかったのであるが、私が朝鮮へ帰った後に母の知人から、話が出て、母も元看護婦の耺に就いていた人であり、病弱の兄にとって好都合な人で年令も30才を出ているで、この人ならばということで、ばたばたと話しが決り僅か1週間後に擧式をしたということである。

兄嫁となった義姉は姓を佐々木と云い、弥生炭砿病院に永く務め看護婦長になったが年令も30才を過ぎたので病院を退耺し家事の手伝いをしていたということであった。
義姉の下には弟が2人居り何れも弥生炭砿が閉山になるまで同砿の坑外夫として仂いていたが、閉山後2人共札幌へ転居し、平成2年項に2人共病死をしてしまった。

 

兄健治召集となる

召集令状

召集令状(赤紙)

兄は結婚僅か2ヶ月後の10月初旬召集され旭川の部隊に入隊したが、母初め姉、妹達は、病弱な兄なのですぐ召集解除で帰へされるものだろうと考へていた。
それが一同の意に反して帰されるどころが直ちに外地へ向けて出征してしまったという義姉からの手紙で、私は余りにも意外な事に只々驚くばかりであった。

ところが、義姉からその手紙を受取って間もなく今度は兄から私宛の軍事郵便が届いたのである。
その内容は軍事郵便であるため祥細には書かれておらないが、現在図們の部隊に居るので面会に来て慾しいという簡單な内容であった。

それで私は早速灰岩市街の料亭に闇で特製の辨当をつくってもらい、それを持って翌日図們の部隊を訪ねたのである。
部隊は図們駅より約2k程離れた週囲には人家のない広場に大きな建物の兵舎があり、そこで面会を申し込むと30分間という制限時間で許可された。

私は兵舎正門の面会室で待っていると、間もなく軍服姿の兄が現れた。
見ると日焼けをした顔ではあるが、以外にも元気な姿であった。
兄の話では旭川へ入隊の1週間後に、この部隊に転出となり、毎日基礎訓練でヘトヘトになるまで油をしぼられ加えて食事の量が少なく、その辺の草をむしって喰べたくなる程の空腹に耐えかねているということであった。
それで私は持参の特製辨当を差し出すと、兄は物も云わず、それにかぶり付くようにして食べ初めた。

それを見て私は軍隊という処は喰べることが唯一の楽しみであるに拘らず、この様子では、これから先どのような結果になるのであろうかと思わず暗澹とした気持ちで辨当に喰らいつく兄を見つめている外なかった。

許可された30分の面会時間は忽ち過ぎ他に話しを聞く暇もなく、私は兄に向い又面会に来るからと慰めの言葉を残して衛門を出た。
私の居住している阿吾地と、図們間は片道汽車で3時間足らずの巨離なので日帰り可能であり、今日の兄の様子を見るにつけ、今度は特大特製の辨当を持っていってやるぞと考へ乍ら阿吾地へ帰って来た私であったが、その後、以外な出来事が出来した為、遂いに二度目の面会には行けずに終ってしまったのである。

 

※注:写真出典「思いつき日記 赤紙(召集令状)

 

古田氏の坑内事故について

図們の兄に面会をしに行って帰って来て数日後に古田氏は坑内事故を惹起してしまった。
その日は私は夜勤で例によって係員は皆入坑した後、別段することもないので又机の上に足を乘せ面会に行って来た兄の事等をぼんやり考へていると、私の机の上の電話が鳴り出したので受話機をとると、坑内詰所の当番者から8片坑道で何か事故が起きたようだという事であった。
それで私は早速入坑仕度をして斜坑を走るように降り、8片坑道へ行って見ると、その坑道堀進作業は古田氏の受持ち現場で、集まった砿員が騒いでいて、その中に古田氏がボンヤリと突っ立っていた。
それでどうしたのかと古田氏に問うと切羽でガス爆発が起きたというのであった。
それで私は古田氏を連れて煙の中をくぐり切羽へ到達してみると、爆発ではなく燃焼事故であることが直ぐ判明した。
切羽元では砿員3名が堀進作業中、切羽元に停帶した可燃性ガスに、何等かの火源が着火し、それが幸いにガス濃度が多かった為、爆発には至らず燃焼したことが判った。
その為、作業員3名は燃焼したガスで顔面や手の露出部を火傷しただけで終ったのであった。

それで私はこの3名に他の切羽から別の3名を呼んで、この者に付き添わせて病院に行くように命じ、私は坑内詰所から係長及坑長へ事の次第を報告し、後は古田氏に命じて他の者は作業を続行するよう言い付けて出坑し私は砿務所へ戻り、病院へ電話をすると幸い3名の者は火傷だけで済み、手当てをして帰宅させたという返答に私はホッとした。

翌日、坑長及係長が出勤して来たが、昨夜の事故については別段古田氏に報告書を出させることもせず、又私に対しても同様何事もなかったような態度に私は只々呆れかへって、この会社は一体どういう機構なのかと考へざるを得なかった。
只数日後、古田氏は減俸1/100 3ヶ月ということだけを私は古田氏から聞いて知っただけである。

この事故以来古田氏は私に接近して来るようになり、毎日ように私の机の側に立って、もうこの会社には嫌気がして来たので退耺して外の炭砿に行きたいが、何処か良い処はないだろうかと、それのみを繰返すようになった。
而し私も古田氏と同様な心境であるのだが、他に心当りもなければ、それを相談する知人も居らない。

そうして数日が過ぎ去った或る日、古田氏は又私の処へ来て、実は心当りの処があったので、そこへ連絡してみると、就耺OKの返事を貰ったのでどうだろうと云うことであった。
それで私は、その件に関して祥細を古田氏に訪ねてみると、次のような次第であった。

 

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コメント

  1. nami より:

    人造石油、灰岩という懐かしい言葉に惹かれて訪問いたしました。私の父も阿吾地工場に勤めておりました。私たちも引き揚げ者なのです。炭坑から、灰岩小学校へ通ってきていた少年がいました。井上という名前でした。
    父も生きていたら100歳ぐらいではないでしょうか。
    お孫さんが書いておられるのですね。
    また、ゆっくり読ませていただきます。

  2. マメコ より:

    ☆namiさんへ
    コメントありがとうございました。
    先日祖父に会った際に、namiさんのお父様(井上さん)のことを聞いてみました。
    かなり記憶が薄れているようでしたが、祖父(祖父は現在91歳)より10歳くらい年上で、井上さんと言う方がいたとのことでした。
    祖父の部下だったそうです。
    話をして、しばらくしてから「あ~あ~、思い出して来た。」と懐かしそうでした。
    祖父の知っている井上さんが、実際にnamiさんのお父様かどうかはっきりしたことは分かりませんが、もしそうでしたらブログを通して祖父の過去の知り合いの方のご子息の方からコメントを頂けてとても嬉しいです。
    貴重なコメント、本当にありがとうございました。

  3. nami より:

    井上さんというのは、私の同級生(終戦時3年生)です。父は阿吾地工場の総務におりました。井上さんが何か病気で入院されたことがありまして、その時初めて私は先生に連れられて炭坑がったところへ(場所名を覚えていないのですが)へ伺ったのです。私は女性です。友達代表で私を先生が連れて行ってくださったのは、私と仲良しだったからです。彼は汽車通学をしていまして、帰りの汽車の時間まで、私の家(阿吾地の社宅)で遊んでいました。
    私の父は明治37年生まれでした。引き揚げ時のことや当時のことなど、聞いておけば良かったと思います。
    阿吾地会がありましたが、みなさんお年を取られ、われわれ二世が受け継いだもののわれわれもいい年になりました。今では、毎年秋に東京で開かれている清津会の一隅に席を設けてもらい往事を追憶いたしております。

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