扎賚諾爾炭砿(1) ~満州編3-1~

ジャライノール 15. 転職:扎賚諾爾炭砿
ジャライノール
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札來諾爾(ジヤライノール)炭砿に転耺をする

※注:ジャライノールは正しくは「扎賚諾爾」です。)

古田氏が就耺を依頼した伊藤明治氏という人は年令30才位で夕張工業機械科出て布引坑で機電係の係員をしており、家族は60才を過ぎた老夫婦の親と妹の4人暮しで、家は幌内市街の駅近くに自分の土地と家を持っていたので伊藤氏は社員住宅に入居せず一家は自分の持家に住んでいた。
その項私達一家も、その伊藤氏家族の住居近くに一時住んだこともあったので、この伊藤氏家族とは顔馴染みの間柄であった。
伊藤氏の両親は2人共小柄な人で温厚な佛の伊藤と云われていたことを思い出す。
伊藤氏はその頃までに独身であったが、私は顔を知っているという程度で言葉を交わしたこともなかった。
古田氏はこの伊藤家と遠縁の間柄で、あるという。
その伊藤一家は土地、家屋を手放しをして、息子明治氏と共に、渡満し、ジヤライノール炭砿に居住し、明治氏はその炭砿の機電係主任として勤務しているとのことであった。
それで私は早速伊藤氏に私の就耺依頼の手紙を出したところ折り返しOKの返書をもらったのでそれで私と古田氏は早速朝鮮人石を退耺手続きをとりジヤライノール行の準備に取りかかった。
まづ古田氏は灰岩に残り家財類を幌内宛に発送方をし、私は古田氏家族5人を罹津まで送り、乘船手続きや旅券購入をすることを分担をし、それらを総て終えた後夕方の列車で吉林まで出て、その日は吉林へ一泊した。

尚私はこの朝鮮人石を退耺する為に会社宛退耺届を提出した。
その翌日、私はこの砿業所の所長に呼ばれ、初めて見る砿業所長宅に出頭すると、所長は私が退耺する理由を訊ねるので、私は嘘(ウソ)を云って、実は両親が、老年なので私に家へ帰って来るように来信があったと云うと、所長は、それでは両親の旅費、又住宅等も考へると云うのであった。
しかし一旦、退耺を決めてしまった私は如何に所長の言葉であっても、それに從う訳けにはゆかず、いろいろと理由をつけて断ると最后には所長もあきれ返ったと云うような顔付きをして、私の見ている前で、仕方がないと云ってボンと大きな響をする音をたてて私の退耺届に所長印を捺したのであった。

尚この朝鮮人石は半官半民で、耺員の服装は軍隊式の國民服に戦闘帽で、主任以上は帽子に2本の白線入りで、所長が3本入り、又事業所という事業所は全部鉄条綱に圍まれて入口には問衛が立ち、身分証明書がなければ立入禁止であったが、帽子に白線が入った者だけは出入り自由であり、又從業員はこの白線の入った帽子着用者には軍隊式の警礼をすることになってをり、私は何処へ行くにも出入り自由の警礼を受ける身で若輩の私はこれだけが、この朝鮮人石では気に入ったところであった。

これで私は昭和16年5月吉林人石に就耺し大口前砿業所、舒蘭炭砿名遙砿業所、朝鮮人造石油阿吾地砿業所と3ヶ所を廻り、最后はこの阿吾地には僅か6ヶ月在任しただけで、私は結局幌内を出てから人石には2年6ヶ月世話になって人石とは縁が切れたのであった。
さて吉林市一泊後の翌日ハルピン市に出てジヤライノール行きの列車時間を調べると、丁度翌日満洲里行の國際列車が午前10時ハルピン駅発があった。
この國際列車というのは週1回木曜日にハルピンを出る列車で、これは終点満洲里まで、チチハル、ハイラルの2駅だけの停車で最も便利であることが判った。

この國際列車と名付けられている理由は、この列車が終着駅満洲里に到着すると、ホーム反対側にソ連モスコワより出た列車が入っているということであった。
これが週1回よりなく、そのため日本よりソ連及びその他の歐州各國へ旅行する者は、この列車を利用するので、そのためこれを國際列車というのだそうである。

それで私と古田氏はこの列車を利用したのであるが、乘車した後、連結してある一等車を覗いてみると、車内の椅子はソファーで電灯はシヤンデリヤの豪華なものであった。
私と古田氏は3等車である。
尚この列車には警乘と書いた腕章をつけ武装した日本兵が各箱毎に2名づゝ乘車し、私が図們、吉林間の列車で見た警乘兵よりまだ物々しい格好をしていた。

扎賚諾爾地図

興安嶺山脈

ハルピンより満洲里までの間には日本軍の大部隊の駐屯する処はチチハル、ハイラル、満洲里であった。
その外にチチハルとハイラルの間には地名的にも名の知られた大興安嶺山脈が在る。
話に依れば、この山脈には日本軍が要塞を築ぎ日本軍が駐屯しているため、ジヤラントン、ハイラルの列車通過時間は総て夜間運行となっているとのことであった。
それで私達も、この興安嶺の姿を見ることは出来なかった。
それでも警乘兵は興安嶺通過の際は客車の窓全部のシエードを降すよう命令をするのであったが、そうされれば尚覗きたくなるのが人情で、私はシエードの片端しをそっとめくって外を見たが暗闇の中には何も見えなかった。

やがて列車は翌日午前10時項ジヤライノール駅に到着し、ここで降車したのは私達2人の外、満人乘客3名だけであった。

駅へ降り立って見ると小さな駅の外に、列車の荷物を取り扱う運送会社が一戸と満人家屋が5戸程あるだけの至って物淋しい処で、その外に何もない草原だけの処であった。

扎賚諾爾地図2

ジャライノール地図

それで私は駅員に会社の所在地を聞いてみると駅員は遙か彼方を指差したので、その方向を見ると、駅より約2km程離れた南方に建物の一郡が見え、そこまでは週囲に何もない一本道路であった。

 

※注:写真出典「MAT’S WORKS」ジャライノールへ~まずは東側と北側から

 

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