炭砿技術員養成所の1年(2) ~北海道編7-2~

10. 炭砿技術員養成所時代
スポンサーリンク

学業始まる

やがて11日となり我々は改めて養成所の生徒となった。
生徒数は100名で年令は20才位から30才位までであった。
この中で28才と30才になる人は既に結婚をしている人であった。
これは前述のように旧制中学を出ても満足な耺につくことが出来ず、この人は新幌内炭砿で坑内係員助手をしていた人で中学当時柔道3段の免許を持っていた程で、今回この養成所へ入所して正式な技術員としての資格を得るためのものだということであった。

生徒100名は各50名の二教室に分かれた。
教師は北大工学部より、波止という工学博士号をもった教授の外に助教授2名、講師2名、札幌工業学校より5名、札幌通産局より技官1名、養成所專任講師2名、助手1名計14名であった。

学課は、数学、英語の外に後は専問学科で、測量、採鉱、地質、機械、電気、鉱物、試錐、法規、気象その他併せて13科目であった。
この外に武道、軍事教練で武道は剣道、柔道、何れかの選択、で私は柔道、稲村氏は剣道を選んだ。

又アパートは下が5部屋、上が5部屋で、6帖、と8帖間で、既入居者は5人で、市内銀行員と一流企業に務める独身男性ばかりであったが中に1組だけの新婚夫婦で入居している人も居た。

私と稲村氏は階下の一番奥まった6帖で、この家の主人が座り机2ヶを貸してくれたのには有難かった。

こうして愈々私の学校生活が始まったのであるが、私は学校から帰へると、まづ予習、復習を始めるのであったが稲村氏は学校が終るといの1番に下校するとみえて私が部屋に帰ってみるとノート類を机の上に放り出し姿か見えなかった。
それは街へ出るのであったが、毎日映画を觀るか、デパート巡りをしているようであった。
その資金は弥生炭砿当時寮生活をしていたので、その時の貯畜金があるらしかったが、こうして出歩いた帰りには必ず私に菓子類の一つでも買って来てくれたものである。

又稲村氏は話題の豊富な人で、私達2人は夕食後、床に入るまでの間いろいろと世間話や学校の先生や学友の事等が話題になのであるが、稲村氏は実にこれらに関して、いろいろなことを知っており、私は何時も聞き役であった。

稲村氏の話の中で、稲村氏の家庭の内情を或る程度知ることが出来たが、家族は60才近い両親と弟1人妹1人の5人家族で、父親は小樽高島で、磯船1隻を持って單独で細々と漁を続けているようであった。
弟、妹は小学校を出ると共に地元の商店や工場に務めていると云うことであった。

 

これは後日談であるが、私がまだ稲村氏とアパートに入居していた項に、珍らしく2人揃って部屋にいた日旺日の或る日、札幌へ用件があって小樽から出て来たという稲村氏の妹が訊ねて来たことがあった。
妹という人は20才位の長身の美人であった。
その後、稲村氏が羽幌炭砿に就耺していた項、高島に居住していた両親が漁師を廃業し長男である稲村氏の宅へ同居し、後に父親は同居先の稲村宅で病死した。
その葬儀に弟と妹が来山したことがある外、その次は稲村氏が昭和60年に交通事故死をした際に葬儀に列席した弟と妹の2人と会ったことがある。

 

さて話は又学校の事に戻して、私は永年待望の学生々活を1年間楽しんだのであるが、札幌も雪が消えて春の季節を迎え、私としては張り切って勉強に勵んたつもりである。
特に学科の内で最も楽しかったのは、測量の実習であった。
最初は測量学の基礎学習から始まり桜の咲き出す5月初旬から実習に入った。
最初は平面測量で場所は中島公園で、公園内にトランジットを据えて5人1組で行うのであるが、丁度公園の桜の木の下に機械が据えつけられ、それを覗く私達の頭上に桜の花がハラハラと散ってくるのであった。

丁度この時北海タイムス社のカメラ班が来ていて、私共のこの状況を改めてポーズをとらされて撮影して行ったが、この寫真が2、3日後「変った学校」という題字で、学校の内容と共に掲載されたものである。

次は高低測量で、これは藻岩山で、レベルを使って行う測量で、この藻岩山には陸軍の陸地測量部の設置した起点があり、これを利用して藻岩山の標高を測定するのであった。
こうして5月から10月まで各所を実測し、11月以降は、この実測した処の製図に入るのであった。

やがて3月から7月までの第1学期は終り夏休みに入った。
私は1学期間を振り返ってみて、思うことは、街へは1歩も足を踏み入れたことがなく、アパートから学校へ通う以外は何処へも出たことがなく、学校から帰へると夕食まで、又は寝に就くまで予習に復習に眞険に勉強に勵んたつもりである。
この間に一度母がアパートを訪ねて来たことがあった。
丁度その日は午后から工業学校の校庭の相撲場で、養成所と工業学校の生徒の中で選抜で20名の選手を出し対抗を行っているのを私は土俵の廻りに立って見て居乍ら、何気なしにヒョイと正門を見ると、母が風呂敷包を背負って立っている姿を見い出したのである。

午后から幸い授業が無かったので母をアパートの自室へ案内したが、母はこのアパートの主人や私に野菜、果物を持って来てくれたのであった。
母は1時間程休憩をし当時手稲砿山に住んでいる姉を尋ねるべく出て行ったが、母は案内の知らない、札幌南端に在るこの学校をよく深し当てて来たものだと感激したものである。

 

夏季休暇となる

やがて学校も夏休みに入り、私は5ヶ月振りで家へ帰った。
兄は木村歯科医と共に地方出張に出て留守であった。
8月1杯続く休み期間中、半月は坑内実習で、私は入学前の養老坑に入坑し実習を続け、後の半月は、学校に出すレポートを書いたり、又前述の東京杦並区に居る市太郎叔父一行が、赤平炭砿のベルト設置工事に来たので、その叔父達を訪ねたり、また與作さん宅を訪ねたりをして1ヶ月間の休暇を終えアパートに戻ったのである。

 

第二学期が始まる

1ヶ月の夏休みも終り2学期が始まった。
しかし今度は私は別段学習意慾を失った訳ではないが、1学期程学習をする気もなく、この一生に一度の学校生活を楽しんでおきたい気持ちに変化するようになって来た。
それでまづ夏期休暇で帰宅した際、家に置いてあったカメラを持ち帰っていたので、それを持ってまづ軽川の姉の家を訪ねた。
中富良野で農業を営んでいた村上家は不慣れな農業に見限りをつけて、春からこの軽川の手稲鉱山に移住し、今度は姉婿の正さんを主にして父親並びに弟の三郎さんの3人が、この鉱山の砿員として務めるようになっていた。

この手稲鉱山は軽川駅(現在の手稲駅)より約4K程山に入った処にあり、当時金を産出する鉱山であった。
村上家一同はこの鉱山の住宅に住んでいたので私は雪の来る10月末まで、土曜日毎に泊りがけで遊びに行ったものである。

若き日のフクヲと姉

※注:写真には昭和13年10月撮影とありますが、石炭鉱技術員養成所時代に撮った写真だとすると昭和14年が正しい年となります。)

それと私の居るアパートから南は平岸、眞駒内、石切山で、その当時はまだリンゴの生産が盛りで一面リンゴ畠で、その生産農家が、まばらに転在している位のものであった。
又石切山等は週囲に一軒の家もなく、水成岩の岩石の小山があり、岩石を切り出すタガネを打つ槌(ツチ)音が、切り取った跡の週囲の壁にカン-カン-と響いて、何んとなく御伽(オトギ)の世界に迷い込んだ感じがしたものである。

当時の札幌は人口45万といわれ、東は苗穂、西は琴似、南は眞駒内、北は北20条までで、その他は人家もまばらに転在している位のものであった。
尚北は北24条に北海タイムスの飛行場があったものである。
又交通は現在の路面電車と馬車、位のもので、札幌駅前より、薄野まで続くアカシヤ並木の補装道路をパカパカと目隠しをした馬車が走っており、現在のような自動車等は全くなかったものである。
そして、駅前からススキノまで続くアカシヤ並木は6月になると、眞白な花が並木全体を覆い、甘ずっぱい臭いが並木通り一面に漂よったものである。

それともう1つの当時の思い出として私の心に残るのは札幌祭りである。
永かった北海道の雪に覆われた冬も終り桜の花が咲き初めた5月の初旬札幌祭りが3日間始まるのであった。
狸小路1丁目から北へ約3丁間位の巨離で創成川のへりにサーカスや曲藝、その他の見世物が続くのであった。
この日に小樽方面や空知地方までの小学校が休日となり、近い地方は勿論、遠くは根室、釧路方面からまで見物客が、札幌に集り市は年に一度の大賑いを呈したものである。

私はこうして二学期は余り学習もせず専ら札幌の秋を楽しみ家から持って来たカメラで秋の札幌や、学友達、アパートの人々等を寫したが、この寫真が私共の卆業記念アルバムにも数枚のったものである。

 

リンク

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました