炭砿技術員養成所の1年(1) ~北海道編7-1~

10. 炭砿技術員養成所時代
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稲村氏との出合い及養成所入所

昭和13年の年も終り、翌14年に入った1月に私は何気なく新聞を見ると、その中に下記のような記事がのっていた。

石炭砿技術員募集
1.旧制中学卆業者、又それと同等の学力を有する者
2.修業年限を1ヶ年とする
3.学費その他を一切免除する
4.卆業後は政府指定の炭砿に勤務すること
5.業務年限は3ヶ年とする
6.養成所入所中は月25円※注1を支給する

私はこれを見て即座に応募を決めた。

その項の炭砿状勢は、戦争のため石炭の需要は益々その度を強め、特に戦争に最も必要なものは油であった。
その油は石炭の液化抽出によって生産されるものである為、政府としては現在國外より輸入停止の石油を、この石炭に求めたのであった。
その為には石炭を採堀するのに必要とされる炭砿の技術耺員と、労仂者の確保に重点を置いた為の措置であった。

ここで私の場合考へられたことは、もし合格の場合は1ヶ年間家に一銭の負担もかけずに卆業出来ると云うことと、もしこれが実現すれば、坑内作業員としての労仂から脱却出来るというこの2点であった。

それで母に相談すると、1年位の家の経済は何んとでも出来るので、その心配はないということであったので、私は直ぐ願書を送ったのであった。
それから数日後願書受理と入試日の通知が来て私は2月1日札幌工業学校※注2で行われた試験を受けたのであった。

それから間もなく合格と入学日は3月1日という通知が届いたのであった。
そして通知書には入学当日父兄1名同伴となっていた。

いよいよ待望の入学式であったが、母は着添えの同伴者に千代の亭主である半沢に依頼してあったとみえて当日半沢と共に入学式に望んだのである。
一応午前10時に始まった入学式も無事終了し、授業開始は3月11日(3月10日は当時陸軍記念日の祭日となっていて、各学校及官庁は行事が山積していたものである)となったので、その前に私の下宿先の決定や、学生服、帽子、徽章等も決めたり、揃えなければならないので、まづ最初に下宿先を探すべく校門を出たところ後から半沢に声をかける者が居た。
それが稲村氏であった。
半沢と稲村氏のつながりは、前述のように半沢の就耺先は弥生炭砿であるが、この稲村氏も又弥生炭砿の坑内夫として家を離れて炭砿の寮生活をしていたので、半沢とは顔見知りの間柄であったのである。

稲村氏の出身地は小樽高島で、稲村氏は小樽の私立旧制中学を出たが、親の耺業である漁師を嫌い家を出て弥生炭砿の坑内夫の耺に就いていたということであった。
稲村氏は私より3才上の25才であった。
話を交している内に稲村氏の下宿もまだ決定していないというので、それではというので3人で下宿探しをやることにし、まづ学校附近を歩いてみた。

炭鉱技術員養成所周辺地図(札幌)

※注:上図フクヲ手書きの地図は南北が逆になっています。(上が南、下が北))

学校附近は当時人家は、まばらに散在している程度で道路両側だけが家が立ち並んでいて後は殆んとが畠地で、商店が3、4軒あるだけであった。

3人がいろいろ話をしながら養成所の校門前の通りを歩いて、工業学校正門前の通りが交差する四ツ角の所に山鼻アパートという看板を掲げた2階建ての家屋があった。
しかし当時はアパートといえば現在の高級マンションに必適するもので、当低学生風性が入居出来るものではなかった。
それで一応断念したが、後はこの附近で下宿屋の看板を掲げているところもないようなので、一応当るだけ、当ってみようということになり、この屋の主人と会い話しをしてみると、やはり我々学生風性が入居出来るようなものではなかった。
それでも先方は話好きとみえて色々と話をしている内にこの家の主人は元北炭の眞谷地炭砿の庶務主任であったが病気のため退耺をし、このアパートを始めたが地理的に惠れないのか、現在10部屋の内5人だけしか入居していないので、試験的に入居料を値下げをして学生を置いてみても良いと云い出したのであった。
それで話合いの結果1人3食付きで23円で良いということになり、やっと稲村氏と2人6帖の相部屋ということで話がついたのであった。

私は在学中政府より支給される金額は25円であり、下宿料を支払った後に残る金額は2円※注3であることを考へ少々淋しい思いであったが、とにかくそれで頑張ることにホゾを固めたのであった。

これは後で聞いたことであるが、養成所入所者は地元札幌では1名も居らず、殆んとが各炭砿出身者であるため、営業下宿屋や個人下宿に入居し、残りの者は幸いにして工業学校の寄宿舎(現在の学生寮)に入れたということであった。

私はまづ下宿先も決ったので、その日は一旦家に帰へり、1日置いて又單身札幌へ日帰りで出て来て学生服や帽子、養成所の所定の帽章、エンジニヤのEとという襟章、ノート、参考書類を購入して帰った。

帽章

これらは全部自費のため母にはその分負膽をかけてしまった。
そして最后に忘れていたが、柔道着である。
これは、入所生の全員が、劒道か、柔道を、選択しなければならず私は柔道にしたので、その柔道着が学生服に次ぐ高価で5円※注4くらいであったと思う。
これは後日談であるが私が養成所を卆業した時にこの柔道着を札幌の古着屋へ売った金額は3円※注5だったと思う。
これで一応全部決り後は11日を待つばかりとなった。

 

※注1:1939年(昭和14年)の25円は、現在の価値に換算すると36,000円くらいです。(※注6)

※注2:当時の北海道庁立札幌工業学校(現在の北海道札幌工業高等学校)で、住所は現在の札幌市中央区南14条西12丁目1番1号になります。工業高校は昭和51年に北区北20条西13丁目に移転し、跡地には札幌有朋高校が建ちましたが、それも平成19年に北区屯田9条7丁目に移転し、現在は北海道札幌視覚支援学校が建っています。

※注3:1939年(昭和14年)の2円は、現在の価値に換算すると2,900円くらいです。(※注6

※注4・5:同じく5円は7,300円くらい、3円は4,400円くらいです。(※注6

※注6:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

炭鉱技術員養成所に関する資料(by 管理人)

国立国会図書館デジタルコレクションで資料を発見したので掲示します。

これは昭和12年12月に発行された資料で、フクヲが入学した年である昭和14年のものではありませんが、内容は同一であるものと思われます。

この「時局産業對策に關する意見竝參考資料」の43~46ページ目(デジタルコレクションの27~29コマ目)の「炭礦技術員養成所計畫」という項目です。

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