炭砿技術員養成所の1年(3) ~北海道編7-3~

10. 炭砿技術員養成所時代
第7師団司令部
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冬期休暇並びに稲村氏の応召

その年も暮れて私共は第二学期が終ったので12月末に夫々家へ帰り、正月を迎えた。
冬期休暇は1月15日までで、この休暇中1週間だけ又養老坑の実習を行った。
今度はレポートなしであったので自分の考へたことに重点を置いて実習で行い後の残り1週間は何処へも出ることなしに万字山でスキーを楽しんだ位のもので、冬期休暇も終りアパートへ帰った。

私は14日の夕方アパートに戻ってみると、私の机の上に1通の封書が乘っていたので不審に思い、それを取上げて見ると差出人は稲村氏で内容は1月5日付けで今回召集令状が届き1月10日付けで旭川第7師団に入隊したということであった。

昭和14年、その項は戦争も満洲事変より、日支事変に拡大し、召集も活発となり、既に養成所から3名、工業学校から1名の応召者があり、私共は、その都度この人達の見送りに学校から札幌駅へ行ったものである。
しかし今回の稲村氏の見送りは冬期休暇中であり学校としては我々生徒の見送りも出来ず、稲村氏は高島の実家より淋しい出発をしたものと思われた。

 

これは稲村氏に関する後日談である。
召集を受けた稲村氏は旭川の連隊で1ヶ月間の訓練を受けた後、中國戦線に送られ、その地で中國軍と戦闘中、左肩に銃弾を受け内地後送となり、陸軍病院より登別温泉へ移送され、そこで約3ヶ月の治療をした結果傷も愈えて除隊となり、その後養成所で残りの第三学期分の学習を受けた後、指定の三笠弥生炭砿に就耺したが3年程務めている内に弥生炭砿に嫌気を感じ退耺したという。
稲村氏は弥生炭砿に就耺すると同時に登別別温泉で療養中知り合った現在の奥さんと結婚し、長女1人がいた。
弥生炭砿を退耺したが適当な就耺先がなく、奥さんと長女を高島へ置き單身美唄炭砿の請負組であったその組の坑内係員を務めていたのであった。
その項私は羽幌炭砿に就耺し羽幌本坑の開発事業の係長をしていた項の昭和24年項、私の耳に稲村氏の消息が入り、早速手紙を出したところ、折返し長文の返書があり、その末尾に現在務めている組係員では将来性もなく、何処か大手炭砿に就耺口がないだろうかということであった。

それで私は他に心当りもなく、もし良ければ羽幌へ来てみないかと云う返事を出したところ即座によろしく頼むと云うことで、結局稲村氏は昭和25年より停年の55才まで務め退耺後は虎杖浜に家を新築した僅か半年後の昭和60年6月、自宅近くの國道で交通事故死をしてしまったのである。※注1

私の稲村氏に対する記憶として残るのは、稲村氏は酒、煙草を一切やらず記帳面な性格で、アパート時代は外出をしない限りはキチンとした和服姿で、学生服等も時々アイロンを当てる位であった。
又趣味は囲碁と釣りであった。

 

※注1:フクヲ長女の話によると、稲村氏は釣りに出かける途中、道路(横断歩道?)を横切っている時に車にはねられたそうです。

※注:写真出典「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」旭川第七師団司令部

 

第三学期に入る

行啓通

稲村氏の居らなくなったアパートの部屋は私1人となり、部屋は何んとなく淋しくなった。
学校の授業も総締めくくりで毎日各科目毎にテストが行われ、テストは大体午前中に終るので、私はアパートへ帰って来ると部屋のストーブの燃料である石炭は自前であり、それを節約する為にアパートから最も近い所にあったミトキ舘※注2という映画舘へ行くようになった。
この映画舘は札幌でも3流の部類に属し、当時、松竹座が1流で入場料80銭※注3の項、ミトキ舘は30銭※注3であった。
舘内の暖房は大型の石炭ストーブが2ヶ觀覧席の左右にあって、畳敷きであった。
それで私は夕方までこの映画舘に粘ばって、燃料節約をしたものである。

もうその項は学校から帰って来ても予習、復習をもせず、とにかく暖房設備のある3、40銭級の映画舘か㋼※注4デパートへ(その項は三越はなくデパートといえば㋼と五番館のみであった)買い物もせずささっていたものである。
映画舘も狸小路に3舘あり、その中に三友舘※注5という洋画専問の映画舘があり、この館の入場料は50銭で、椅子席のスチーム暖房であったので、私はアパートから、この狸小路まで電車賃を節約し、テクテク歩いて通ったもので、お蔭でその項のアメリカ人俳優の名前を学科以上に覚え込んでいたものである。

卒業

これであこがれていた学校生活も、札幌での生活も終り、14年2月24日※注6卆業式を迎え私は札幌を去ることになった。

尚卆業当日成績順位の発表があったが、私はクラス50人中13番で卆業することが出来た。

私は幌内へ帰へる前日、荷物の制理をしながら、何れはこの札幌へ来て永住するぞと心に誓ったものであるが、それが実現した現在ではあるが、当時45万の人口が170万に膨張し、馬車と路面電車が車に変り、喧騒を極める、この札幌を見るにつけ、当時の夢は消え果て落胆この上もなしである。

 

※注2:ミトキ館の位置はここだったようです↓(画像出典:ポメだす!(pomedas)/since2004

※注3:1940年(昭和15年)80銭は、現在の価値に換算すると900円くらい、同じく30銭は340円くらいです。(※注7

※注4:フォントがないのでこの文字を当てましたが、正確には〇の中に漢字の「井」(丸井)です。

※注5:三友館は札幌市中央区南2条西5丁目にあった札幌東宝プラザ(2011年8月閉館)の設立時の名称です。

※注6:こちらの記事に「昭和14年1月に新聞で石炭鉱技術員養成所の記事を見た」とあるので、養成所入学は1939年(昭和14年)、卒業は1940年(昭和15年)であると思われます。
また、ヤフオクに「石炭鉱技術員養成所・第二期卒業記念(1939年)」という卒業アルバムが出品されており、卒業生の氏名も載っているのですが、その中に稲村氏と野中福男の名前がないことからも、昭和15年卒業で間違いないと思います。

※注7:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

※注:写真出典「北海道歴史探訪」札幌・行啓通

 

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