北炭幌内砿業所(1) ~北海道編8-1~

幌内炭山市街(昭和15年頃) 11. 北炭幌内砿業社員時代
幌内炭山市街(昭和15年頃)
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北炭幌内砿業社員となる

いよいよ3月1日付けを以って北海道炭砿(株)入社である。
まづもって幌内砿業所、幌内砿々長の所へ挨拶に行った。
入社人員は前以って6名に決定されていた。
砿長は私達の挨拶を受けた後、明日夕張へ行き当時夕張に北炭の本社があった。
それで社長は夕張に居たので社長に挨拶に行くように申し渡され、私共6名は、翌日夕張鹿の谷にある夕張本社に出頭し、ここで初めて社長に会ったが、当時北炭社長といえば飛ぶ鳥を落す程の済界切っての有名人で、この社長と会えるのは北炭でも砿長級以上でなければならい程で、何故私共のような新入社員が社長に会わなければならないのか不思議に思へた位である。
当時の社長は現在で経済界に名の残る萩原吉太郎氏であった。
私達6名は初めての夕張市の人口※注1と、本社事務所の威容に驚いたものである。

萩原社長より一応の型通りの言葉を戴いた後、本社総務課で辞令を頂戴した。

北炭マーク

辞令には北海道炭砿汽船株式会社雇員、幌内砿業所詰を命じ、月俸38円※注2を給す。とあった。
それとこの辞令書の外に襟章としてつける北炭マークを手渡された。
その後総務課長に在学中の支給金は今後北炭に移ったので、その金額に対する義務年限は3年間で、これは政府より就耺先の会社に移譲されたものであるという説明があった。

 

※注1:夕張市の昭和15年当時の人口は国勢調査ベースで64,998人でした。令和2年5月31日現在の人口は7,682人です。

※注2:1940年(昭和15年)の38円は、現在の価値に換算すると43,000円くらいです。(※注3

※注3:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

※注:写真出典「三笠鉄道村 幌内歴史写真館」幌内炭山市街(昭和15年頃)

 

幌内砿業所養老坑勤務となる

私達6名は本社総務課で説明を受けた後、社員食堂でカレーライスの馳走を受け、その日の夕刻幌内帰着し、翌日又砿業所事務へ行き総務へこの事を報告し、ここで更に各人に勤務先の辞令書を手渡された。
6人中養老坑勤務は2名、布引坑2名、砿業所測量1名、坑外輪送係1名と決定した。

ようやく3日間に渡る手続きその他を終えて私はやっと勤務に就くことになった。

その前に一寸当時の炭砿生活について触れると、幌内だけの人口の2/3は炭砿從業員家族で、後の1/3は商業か又は炭砿事業の関連作業者である。
そして炭砿從業員の中に僅か一握りの耺員が居る訳けで、当時の風習は軍國主議同様、総て上部にある者に対して畏敬(イケイ)の念を払うという感が強かったものである。
從ってそれを示すかのように北炭耺員の服装は黒の詰襟の服に北炭マークの襟章をつけさせたものであった。
又耺員住宅も一般從業員とは別地区に耺員だけの住宅地を設けていたもので、私の家族は早速入社と共に、市街地のボロ借家から耺員住宅に引越しをされたもので、その住宅の間取りは8帖、6帖、4、5帖と台処で、妹千代、ハナの居らない5人家族には充分な広さであった。
入浴は耺員だけの専用公共浴場であるが、耺員家族だけであるので広々とした浴室は伸び伸びとして入浴出来た。

又、耺員住宅には毎日会社配給所より御用聞きが来て、米、味噌、正油の外、重量物は全部配達をしてくれる外、私の昼食用辨当は10時項、家へ取り来て耺場まで届けてくれる外、秋の大掃除には会社より2、3名の人夫が来て家の内外の掃除までやってくれるのであった。

私は出勤の際は空手で例の黒の詰襟りの服装で出勤し、耺場の鉱務所建物の一室で作業服に着替え入坑し、帰りは、そこで入浴し通勤服に着替えて帰へるのであった。
又作業服類は月2回、その建物の監理夫が洗濯してくれるので、家には洗濯の為に持ち帰へらなくともよく、総て至り儘くせの待遇であった。

こうして今までとは、がらり変った待遇生活に最も喜んだのは母で、その項は義父も積取船の仕事から完全に離れて毎日家から土木作業の請負作業に通うようになり、兄はすっから木村歯科の専從技工師として歯科院に通うようになり、妹キミは小学校を出て岩見沢の無儘会社に汽車通をして、母はようやく日雇い労仂から解放され冬期間を除いた外は自家用の畠の野菜造りをしてこれで我が家は、やっと落着いた生活が、出来るようになった。

 

私の耺場と耺務

さて今度は私の耺場と耺務であるが、耺場は家から徒歩で約20分位の人家のない全くの山峽の行き止りにある養老坑という名稱の付いた処であった。

この養老坑のすぐ近くに音羽坑(オトハコウ)という古い坑口が残っているが、そこは大正当時、市来知に集治監という犯罪者を収容する施設(月形監獄と同様)がありその犯罪者を使用して石炭を採堀させたという郷土史に残る坑口があった。

幌内炭鉱地図

養老坑砿務所には土井という夕張工業第1回生の主任が最高責任者で、その下に小林、沢田という2人の担当と稱して二交対の人が居り、後は役耺のつかない坑内外耺員が約50名が居り、その下に砿員約400名がで、これが養老坑の総人員であった。

北炭という会社は、その当時役職名というものを余り用いない所で、この大きな組識の幌内砿業所でも、頂点は砿長、次に副砿長、主任といった3階級の名稱だけで、後は年功序列によって責任者が決るだけのものであった。

養老坑の業務種別は、採炭、堀進、支柱、運搬、保安、機械、電気の7種別であった。
私はこの内の運搬係担当として責任者1名の下に私達係員4名で2名づゝの2交対となった。
運搬係というのは堅坑が150m、斜坑300m×3ヶ所、水平坑道が約500m計1、500mの巨離を採堀した石炭外、諸材料の搬入、搬出をする仕事であった。
その為に作業に從事する砿員は約60名程居り、その他石炭採堀現場の直接搬出用として馬6頭を使用していた。

この外運搬用機械類は堅坑捲揚機500HP×1、斜坑捲揚機300HP×3、有線、6ton電車×2、蓄電車6ton×2を使用していた。

私達係員の勤務は12時間で、朝6時~夕6時まで夜勤の場合は夕6時~朝6時までとなっていた。

それで昼勤の冬の場合は1週間太陽の光を見ることがなかった。
又夜勤の場合でも殆んと寝ていることが多く、日旺でも午前中半日は潰れてしまうことが多かった。
それは家へ帰って来るのが7時をとうに廻っており朝食を済せて床に入ると大体午前中は眠りから醒めないからである。

又この運搬係というのは守備範囲が広く堅坑から第三斜坑までの巨離は1、500mもあり、その長巨離の何処かの箇所で、必ず炭車の脱線とか、軌道の破損、甚だしいのは斜坑で炭車の連結が外れて18度の傾斜を炭車が逸走する等の事故が発生し、その都度、坑内電話で私の元へ連絡
が入ると、私はその場所へ馳けつけ、復旧対策を構じなければならないのである。

入社したばかりの新参である私は生眞自目に、この広い坑内を飛び廻ったものである。
では他の同僚3人はどうかと思へば彼等は既に要領を心得えて自分の所在を明らかにしておらないので、こうした事故の場合、事故現場から連絡の方法がなく、故障事故は総て、その現場の砿員委せにしているのであった。
又こうした運搬事故の場合は採炭作業場や、堀進作業場へ炭車が廻らず、それらの作業は休止状態となるため、その現場担当の係員から苦情が出るのであった。
その為私は他から苦情が出ないようにするため一刻も早く事故の復旧を計るべく、絶えず私の所在を明らかにしておき、連絡があれば直ちに、その現場へ馳けつけることに務めたので、その苦労を責任者である担当者が認めてくれ、私が疲労で休んだり、又風邪で休んだ場合でも出勤薄に出勤扱いの代印を捺してくれたものである。

 

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