北炭幌内砿業所(2) ~北海道編8-2~

11. 北炭幌内砿業社員時代
三井砂川炭鉱
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同僚の事故死

私が運搬係を務めて早やくも半年が過ぎた11月の或る日、同僚である橋本という係員の事故死に遭遇した。
その日、私達係員は昼食を坑内に設けてある係員詰所で給仕が運んで来てくれた各自の辨当を食べ終り同僚の橋本係員と食事中話合った第三斜坑の水平坑道の軌条の不良箇所を点検するために第三斜坑の馬の背へ来たのであった。

ここで同僚である橋本係員について触れると、橋本氏は年令40才位の長身、痩せ型の眼鏡をかけた温和な人で、旧制中学出で年功が古いため助手から耺員に登格した人であった。

炭鉱内部

さて2人で馬の背へ来てみると、昼食休憩時間が過ぎているにも拘らず、斜坑は運転停止のままになっているので、馬の背に居る棹取夫に尋ねると斜坑下部の船底で炭車が脱線しその復旧作業をやっているのだと云うことであった。

私達2人がこの馬の背へ来た目的は、炭車に乘って斜坑を下がるためであった。
この斜坑というのは巨離300m傾斜18度である。
斜坑には10mの間隔をおいて車道と人道の2本がある。
車道とは炭車の捲き降し専問で、人道と云うのは人だけの通行用のものである。
そして人道にも捲揚機が設置されて人の乘る人車設備もあるのであるが、この第三斜坑の人道は設備が遅れてまだ設置されていなかった。
18度の斜坑で昇り降りするのは非常に難儀なもので、降りる場合、馬の背から船底へ着いた途端膝頭がカクカクして思わず地べたへ座り込み度くなる位である。

又逆に船底より馬の背まで上って来るのには、その辺の坑木の切れ端を拾って杖代りにして上って来るか、又は坑道の壁側に張りつけてある電線ケーブルに提(ツカマ)って昇って来るのであった。
それで係員、砿員に限らず皆車道を捲卸する炭車に乘りたがるのであるが、これは危険が伴うので絶対禁止になっているのである。
ところが運搬係員のみは仕事の性質上黙認をされているので、橋本係員は最初から炭車に乘って斜坑を下る積りであったらしい。
しかし船底の脱線炭車の修復が手間取っているとみえて仲々、運行開始の信号が来ないので、私は遂いに待ち切れず歩いて下ることにして橋本係員にその旨を伝えて1人テクテク歩いて船底へ着いた途端に脱線炭車が修復したものとみえ運行を開始したのであった。
それで私は車道船底より斜坑上部を見ると下って来る炭車の上部の端に、かすかにキャップランプの光が見えるので、間違いなく橋本係員が下って来たのを確認して尚その先を見続けていると、実車と空車が斜坑中間ですれ違ったと思へた瞬間、突然ドシンという衝撃音が聞えた。
その音を聞いた私は突差に炭車の逸走であることを直感し、尚も良く眸(ヒトミ)をこらして見ると斜坑天井に照明用に吊してある電灯の光りが、炭塵のため赤く見えたので、これは間違いなく炭車の逸走であることを確信し、急ぎ斜坑を馳け昇り、現場へ到着してみると、空車先頭の側に橋本係員が脚をくの字に曲げて仰向けに倒れていて完全に即死であることが判った。
私はこれを見て、若し私も橋本係員に同調して共に炭車に乘っていたら橋本係員同様、この世の人ではなかっただろうと慄然としたのであった。

その日の夜、私は小林担当に伴われて橋本係員宅へお悔やみに行ったが、橋本婦人と1人娘の5才位の子供の2人は私の顔を見た突端声を放って泣かれたのには、私も思わず貰い泣きをしてしまった。

坑内事故

炭車の斜坑における逸走事故というのは、時々発生するのであった。
それは炭車と炭車を連結するのには下図のように

トロッコ連結

太い鉄製のチエンを使用し、それをピンを差込んで連結してあるが、このピンが、軌条不良の場合とか、レール上に何んらかの障害物があった場合、そこを通過する炭車は、ショックを受けて炭車が浮き上り、その際に連結用のピンが浮いて抜けることがある。

特に斜坑の場合は、それが、いちじるしいのである。
私はこの事故で第一発見者ということで岩見沢の検事局へ呼ばれ聴書をとられた。

 

※注:写真出典「バーチャル列車で行こう」上砂川町 三井砂川炭鉱

 

担当業務の変更

私は運搬係を約半年やって、この事故に巻込まれたが、担当責任者は、私の日項の眞自目な執務ぶりと今回の事故の慰労の意味からか今度は保安係という耺務に変更してくれた。
保安係は夜勤なしの昼勤のみで、私の上に保安専務という耺名で、夕張工業3回目の卆業生の小林という人と私の2人だけであった。
この外に砿員2名がいて私の耺務は坑内全般の作業ヶ処を巡回し通気不良ヶ処は、この2名の砿員を使って通気改善作業をやっておればよいので、今度は180度転換したような耺務であった。
これでやっと私の自由な時間が生じて心身共に気楽な毎日を過せるようになった。

しかし考へてみると私は運搬係担当々時は時間的にも肉体的にも予裕のない事ばかりでもなかったようにも思えるのであった。

坑内の様子

それは、坑内で馬を使用していたが、この馬は採炭作業を行っている現場のいわゆる石炭積出し坑道は、上部で採炭作業を行うため、この坑道にかかる地圧が強く仂き、坑道の支保枠が折れ曲ったりして、坑道が狹少となるため、炭車より大きな電車を使用出来なくなることがあるので炭車の牽引(ケンイン)に馬を使用しているのであった。

そしてこの馬は毎日入出坑させるには時間がかかるので普段は坑内に馬小屋を設けておき、土旺日の作業終了後坑外の馬小屋に移し、月旺の朝又入坑させるのであるが、この馬は6頭居るため馬の取扱いに坑外の厩(ウマヤ)に1人馬夫と稱する若い男を使用していた。
その人は勿論馬の取扱い、乘馬も巧みであり、私はその人に頼んで乘馬法を教えてもらい、その人に着き添ってもらい、市来知、幾春辺りまで遠乘り出来るようになり、天候の良い日の日旺日は時々遠乘りを楽しんだものである。

次は酒である。
炭砿夫と漁師には酒は付きものであった。
それだけ炭砿と海の作業は苛酷な労仂と危険性が伴う耺業であるためであろう。

この坑内で馬を使う馬丁と稱する砿員は主に東北地方の農家の人が多く、冬期間だけ炭砿へ出稼ぎに来る人、又は農業を廃業して炭砿に住みついた人々でこれらの人々は毎日旺毎に4、5人集まっては昼から酒宴で、その時は決って私を呼びに来るのであった。

その外に我々坑内係員同志の酒宴回数も又多く、まづ決ってやるのは毎月1日である。
これは堅坑々口に接近して建てられた鉱務所の側に坑口神社と稱する小さな祠(ホコラ)が設けられてあり、その神社で毎月1日に安全祈願のため、砿務所耺員だけ、幌内神社より神主を呼んで祈祷(キトウ)を行うのであるが、その祈祷が終った後は、昼勤の者は勤務の終った夕方、又夜勤の者は、昼勤出勤者の来る前の朝4時項から、お供えしたお神酒(オミキ)に追加し、予め(アラカジメ)酒と肴を前以って給仕に買わせて準備しておくのであった。
肴は、必ずナンコと稱する馬の内臓である。
これは市街でも価格が安く手に入るので専らこれが主であった。
この馬の内臓を奇麗に水洗いをし、味噌味で煮るのであるが、これは油があり、又歯ごたえが非常に美味なものであった。

この外に坑内では大型機械の取付けや主要坑道の貫通、又諸設備の完成等、次から次へとこうした事が続くのであるが、そうすると完成祝い、貫通祝と名目をつけて、その都度酒宴であった。

こうした中に私のような若僧が入ると早速古参の親父連中の酒の肴にされて、しやにむに呑まされてしまう結果になるのであった。
しかし私はこうして酒宴続きの連中の中に入っても、酒の手が上がらず、又呑みたいという意慾はわかなかったものである。

耺、砿員の勤務と稼仂時間は、我々耺員は12時間勤務であるが、砿員は3交対制で、1番方、2番方、3番方と稱して、1、2番方の場合は採炭作業を行うので入坑人員数も多いが、3番方の場合は坑内の整備、保守だけの作業となるため、入坑人員数も少ないので、我々は夜勤の場合、砿員達の目をかすめて、砿務所の中で酒宴を開くことが出来るのである。

鉱務所見取図

 

養成所後輩来る

幌内炭鉱

私の勤務も早やくも1年が経過し、3月となり、養成所第2回目の卆業生が出て、幌内砿業所へ5名配属となった。その中で中西という私より1才下で温和な性格の後輩が、今度新に幌内砿業所事務所に設けられた保安課の勤務となり、養老坑、布引坑の巡回担当となり、養老坑へは1日置きに巡回に来るようになった。私は養老坑専任の保安係であったので同年令で先輩後輩の間柄ということもあり、意気投合するようになり、お互い家庭的にも行来をするようなった。

この中西君の家庭は70才近い母親と2人だけの家庭であった。
中西君も私と同様あまり酒には強くない方であったが、気心知れた同年輩ということもあって一寸市街の呑み屋へ行ってみようと、行ったのがきっかけとなり、その後2人で時々このカフエーと稱する呑屋に行くようになった。
しかし呑むといっても、その項私も中西君も余り呑める方ではなく2人で2、3時間ねばってビール4、5本が関の山であった。
このカフエーと稱する呑屋は幌内に4、5軒あり、店内は14、5坪の広さにボックスが4ヶ所ある程度の広さでサービスガールの20才前後の女の子が4、5人居る位のものであった。

そしてこの4、5軒あるカフエーの中に私が選炭工場当時世話になった岩崎さんという人が選炭工場の係員を退耺し、仇吉(アダキチ)と云う店名で女の子3人置いてカフエーを営業していた。

この岩崎さんと云う人は年令30才を過ぎていたが、何故か独身で痩(ヤ)せ型の眼鏡をかけた長身の芝居の女形(オヤマ)のような顔の人であった。
兄弟は5人で姉は中鉢という人に嫁ぎ東京渋谷に居住してをり、弟1人は小樽高商(現在の小樽商大)に在学中でもう1人の弟は私と小学校同級で札幌師範学校を出て由仁の小学校教員をしており、残る妹の愛子と云う人は岩見沢高等女学校5年の18才で幌内の家から通学しており、結局幌内の家には60才を過ぎた父親と岩崎さん、愛ちゃんの3人の外、住み込みの女給さん3人の6人であった。

ところがこの岩崎さんと云う人は私の何処を気に入ったのか、妹の愛ちゃんを将来私の嫁にということで自分1人で決め込み、愛ちゃんがまだ在学中から、しきりに私に接近するように取計うのであった。

岩崎氏自身はまづ私の母には店が昼間は割合暇なので時々手土産持参で家に来るようになり、その内に店が夜立て込んで来ると愛ちゃんの勉強に支障があると云っては愛ちゃんに学習道具を持たせ私の家に勉強と稱して寄こすようになった。
その外私に小使銭をくれて愛ちゃんと2人だけで市街にある映画舘に映画を觀み行くように差向けたり、その外、月1回の店の休みには私を小樽のオタモイや旭川に誘ったりして連れ出し、その際は必ず愛ちゃんも同伴したものであった。
結局こうして私達2人を暗黙の内に接近させるようにしたものであるが実にこの岩崎さんと云う人は変った人であった。

又愛ちゃんと云う妹は身長は普通なみで、色白な可愛い顔をした判っきりとした眼の性格は落ち着いた学業成績も優秀な人であった。

こうしている内に昭和16年3月ともなり愛ちゃんは学校を卆業したが、家は接客商売だけに卆業後も家に置いておく訳けにもゆかず、結局東京澁谷に居住の姉の元に引取られ、海軍庁のタイピストとして就耺したのであった。

さてその項、私は中西君と共に相変らずカフエー通いをしていたが、私には毎日変化のない生活にいや気が来たのであった。
それは毎日朝6時出勤、夕方6時退勤の12時間中、太陽の光りを浴びることもなく暗黒の坑内で、さしても変化のない同じことの繰返しで、結局時間を持て余し、カフエー通いを覚えてしまったのである。
これは時間に余裕のない生活のため仂くことだけで終る毎日で結局自分の趣味や、その他に当てる心のゆとりがない為だと思うようになって来ると同時に、この坑内生活につくづく飽きが来てしまった。

又東京に就耺した愛ちゃんからは姉の手前もあってか、時々東京の様子を知らせる程度の来信ががあるのと、私もどうゆうものか余り熱心に手紙を書くこともせず結局知り合い程度の文通だけで過していた。

そうしている内に私のカフエー通いをどうして知ったのか、それに対して、どう感じたのか、4月末の或る日愛ちゃんより来た手紙に『私は人形でありません』という一文句だけを書いたものが届いたのである。
それを見た私は、これは愛ちゃんの兄である岩崎さんと私だけで私(愛ちゃん)を人形のようにあやつっていたのだと云う意味のことだろう解釈したのである。
それで結局私と愛ちゃんの仲は、これで終止譜を打ったのである。
しかし岩崎さんは、これを知らず、お互の仲は続いているものだとばかり信じていたようである。

 

管理人注:写真出典「バーチャル列車で行こう」北炭幌内炭鉱

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