満州へ渡る ~満州編1~

12. 満州へ渡る
スポンサーリンク

幌内砿業所退耺し渡満する

さてその項の世相は、満洲國が誕生し、日支事変は益々拡大し、遂いには第2次大戦にまで突入しようとする処まで来るようになっていた。
それと同時に不況による國内生活は窮屈となり自由を求めて新天地の満洲に対する渡満熱が盛んとなって、この幌内からも満洲各地の炭砿へ就耺したという話が私の耳にも入るようになって来たのであった。

それを聞いた私は、矢も楯(タテ)もなく、どうしても渡満したい意慾にかられたが、いざそれではとなると、他に知人も方法もなく只々気があせるのみであった。

ところが或る日、私と愛ちゃんとの交際が絶えたことを知らない岩崎さんに私はづうづうしくも、渡満したいが、どうだろうと話掛けて見ると、似外にも、その橋渡しを引受けてくれたのであった。
それで私は岩崎さんの話を聞いてみると、それは、私(岩崎氏)の姉の結婚相手が東京に在住しているが、その人の弟で中鉢という人が満洲吉林人造石油に務めており、家族引纏めのため現在東京に来ているので、その人に会ってみてはどうかと云うことであった。
この中鉢という人は幌内出身の夕張工業出で渡満前は幌内砿業所布引坑の坑内係員であったとのことである。
しかし私は同じ幌内でも勤務先が異っていたので、名前も顔も知らない人であった。
そして岩崎氏は早速東京の中鉢氏に手紙を出したところ、面会承知の返信があり、早速私は面会日と時間を決めて岩崎氏に通知を依頼した。

そこで私は母に満洲行希望やそのため東京へ行って来たいと今までのことを話しをしたところ思いがけなくも承知してくれたので、私は早速1週間の休暇をとり初めて東京へ向って幌内を出発した。
時は昭和16年4月のことであった。

忠犬ハチ公像

私は途中無事、翌々日の午后、忠犬ハチ公の銅像のある東京渋谷駅に当着した。
駅には私が幾度か会ったことのある岩崎氏の姉が出迎えに出ていてくれ、その晩、中鉢氏の兄宅に危介になり、中鉢氏とも話合いの結果、私の吉林人造石油就耺の件は決定した。

そして翌日折り返し東京を離れて帰道の途につき、途中、岩手県北上駅に到着した時にふと思い出したのは、この北上駅大荒沢に居住する母の弟藏吉叔父のことであった。
それで北上駅で横黒線に乘り替えて、大荒沢の叔父をたずねると家は鉄道官舎で駅の直ぐ側にあった。

この横黒線というのは黒沢尻(現在の北上駅)と横手を結ぶ山の中を抜ける支線鉄道で、その間は山間に僅かな農地と温泉場があるだけのもので、大荒沢というのは北上駅より12km横手に向った所で人口僅か1、000人足らずの半農と山林伐材を主とした寒村で、その狹い土地の山裕を流れる渓流を利用小規模な発電所を設けている地であった。

そして叔父藏吉はこの小さな大荒沢の鉄道工手長を務めており、家はこの駅のすぐ横に3軒建ての鉄道官舎3棟の内の中の一戸に入居していた。

室内は6帖2間と4帖1間外台所と、トイレがあり、入浴は官舎だけの共同浴場であった。

私の突然の訪問に叔父一家は驚いていたが、叔父家族は男の子2人、女の子3人の7人暮しであったが、上の男の子は小学校を出てから仙台の鉄道教習場に入っており、結局6人家族がこの狹い家で生活をしているのであった。

そして長女富美子は黒沢尻女学校を卆業して家事手伝いをしており、次女は黒沢尻女学校に、後の子供達は小学校へ通学していた。

そして私はその日叔父宅へ一泊し、翌日幌内へ向うとしていると、叔父は幌内の人達に長女富美子を会わせたいので同行してくれと云われて私は富美子を同行して幌内へ帰ったのであった。

幌内の母は非常に喜び、早速弥生市街地の飲食店で仂いている千代とハナを呼び引合わせた。
母は姪のこの富美子をすっかり気に入り1週間の帶在中、ハナを案内につけ、銭函の姉や小樽、札幌の見物をさせて大荒沢へ帰へしたのであった。

そして母は富美子が帰へる前の晩、私に向い、お前の嫁にどうかと云うので、私は別段異存はない旨を返事するをすると、母は早速大荒沢へその旨の手紙を書いて持たせるようにと云うので私は母の云いつけ通り手紙を書いて大荒沢へ帰へる富美子に持たせたのであった。
それから間もなく叔父より了承した旨の返事があり、これで私の結婚相手が決定したのであった。

その後私の渡満が決定し、5月1日私は一旦秋田駅で下車をし叔父と富美子に会い、その後の打合せをして秋田で2人に別れを告げて渡満したのであった。

私が渡満をして第1回目に帰郷したのは、その年の秋で、急に帰郷することになった為と又私が会社に無断退耺で渡満した為、結婚式も出来ず、そのまま大荒沢と打合せをし、富美子を連れて渡満したのであった。

それから吉林、朝鮮、更に又ジヤライノールと歩き廻り、ジヤライノールで日ソ開戦となり、ハルピンに避難をし難民収容所で難民生活を続けている内に収容所で発診チブスの流行により、ここで富美子と3才と1才の男の子の3人を失ってしまったのである。※注1

思えば、これも人生の1駒であろうが僅か結婚生活3年で3人を失ってしまったのは、確しかに私の責任※注2であると考へざるを得ないのである。

 

さて話は元に戻り、私の渡満について母と相談をし、旅費は妹キミの務める無儘会社より150円※注3借用し、その返済は私が就耺した後に毎月20円の分割拂いとすることにした。

それと私は退耺届けを会社に提出したところで受付けてはくれないことが判っていたので届けは渡満途中の新潟より郵送することにし、又養成所で受けていた学費については残額1年分については会社より督促のあった時点で考へることにし、私の去った後は直ちに会社住宅より、市街地の借家へ移転することにした。
その項私は最初に入居した社宅より、三笠寄りになった処に会社が新に建てた二階建ての新築へ入居していたが、これも仕方のないことであった。
只私の心残りは折角落ち着いた生活を私の我がままから又元の不自由な生活に落すことについてであった。
兄は最近続くようになった地方への出張で不在であったので何一つ相談することも出来なかったが、多分了承してくれるものだろうと自分だけで決めていた。

 

※注1:この話は終戦間際の出来事であり、満州に渡ってすぐに起こったことではありません。

※注2:フクヲ孫マメコがフクヲに聞いた話によると、妻子が発疹チフスを発症した時、数十キロ離れた場所(病院?薬局?)に薬を貰いに出かけたそうです。妻(富美子)は「行かないで」と言ったそうですが、それを振り切って出かけ、数日後に帰宅した時には妻子は既に亡くなっていたそうです。フクヲが「私の責任」と言っているのは、このことだと思われます。またこの時、発疹チフスの大流行により大量の死者が出たため、火葬が間に合わず、また土葬にしても墓地には埋める場所がないため、フクヲは妻子の遺体を自分の手で学校のグラウンド(地盤が非常に硬かったそうです)に埋葬したということです。(※注

※注:上記の内容については、後に登場するこちらの記事にその一部が記載されています。

炭鉱マン 大陸に雄飛す
1970.01.01
炭鉱マン 大陸に雄飛す
https://nonakafukuo.com/archives/50616968.html#grave
旧題「卒寿フクヲの人生回顧録」…元炭鉱マンのフクヲ(享年93)が炭鉱や満州で過ごした若き日を振り返る

※注3:1941年(昭和16年)の150円は、現在の価値に換算すると145,000円くらいです。(※注4

※注4:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

※注:画像出典「世界史の窓 満州国

※注:写真出典「「生きているハチ公を見た」97歳の元特攻隊員が語る東京の原風景

 

北炭幌内砿退耺渡満する

5月3日を期して私は遂いに永年住み馴れた幌内を後にし異國満洲へ向って出発した。
途中秋田駅を通過するので1時休憩をかねて秋田駅に下車をし秋田公園に立寄ってみた。
時は丁度桜の満開時期で私は記念にと思い折りから来ていた街頭寫真屋に満開の桜をバックにして寫真を撮り、幌内へ送ってもらうように依頼し再び車中の人となりその日の夕方新潟に到着し駅前旅舘に一泊した。

渡満前秋田公園にて

翌日朝新潟港で乘船手続きを済せ、白山丸という3、000tonクラスの船に乘船し、最后の日本に暫しの別れを告げて出航した。

白山丸

天候は穏やかで船酔いもせず翌日午后船は罹津港※注5へ入港し、その日は罹津駅の近くの旅舘に宿泊した。

羅津末広町1丁目

翌日朝食を済せて駅へ向ったが列車の発車時間まで時間があったので、駅附近を見て歩いたが、この罹津という所は一方が海で、その反対側は山といった、これぞと別段何も見るものもない至って殺風景な所であった。
山にしても赤茶気た岩石で処々背丈けの底い松のような木があるばかりで、それに道路は、この赤茶色の岩石の粉で、風が吹くとそれが舞上るのであった。

私は、それで見物を断念し駅へ引返して駅待合室に入ると5、6人居た列車待ちの人の中に何処かで見たことのある顔の人2人が居た。
先方でも私に気付いたのか、お互いに接近して見ると、それは幌内で見た顔であった。
私は幌内でもお互い話しかけたことがなかったが、1人は40才位で渡辺といい、布引坑の安全灯係員で、もう1人は江尻という私より3才程年長で、父親は幌内で土木作業の請負業をしている人の長男であった。

お互いにこの外地で出合ったことに驚いて話合ってみると、2人共、これから私が行く吉林人造石油に就耺が決り赴任途中である事が判り、この寄遇に喜び合った。

図們

列車は間もなく発車し、昼近くに朝鮮と満洲の國境図們に到着し、ここで税関検査のため1時間近く停車した。
罹津から、この図們までの間は、罹津同様、赤茶色の肌をした山、山の連続で何一つ見るべき物がなかった。
やがて税関検査が終り、列車は吉林へ向け発車したが、驚いたことには、この図們から警乘という腕章を付け、銃を携帯した日本兵が各箱毎に2名づつ乘込んで来たことである。
こうした事は日本内地では絶対見られないことである。
その理由は、これから列車は満洲領内に入る訳であるが、途中列車を襲う匪賊に対処するためだということであり、私達は、この話を聞いて初めて外地である満洲へ来たのであるという実感が湧いて、何んとなく緊張したものである。

 

※注5:罹津は正しくは羅津です。(以後の文中も同じ)

※注:写真出典「Wikipedia 白山丸

※注:写真出典「JapaneseClass.jp 羅津駅」羅津末広町1丁目

※注:写真出典「百年の鉄道旅行 京図線図們

 

リンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました