門脇家について

02. フクヲの家系
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門脇家について

門脇というのは母の生家である。
門脇家は秋田県能代郡字八森滝ノ間※注という日本海に面した漁村の綱元であったということである。
この八森という所は昔からハタハタ漁で栄えたところで今でも秋田民謡に「秋田名物、八森ハタハタ尾賀でオカブリコ」という唄が残っている。
しかしこれ程永年ハタハタ漁で栄えた八森も、北海道の鰊同様昭和の初期項より不漁続きとなり、現在では、この八森もすっかり衰退し、他の魚で細々と生活しているようである。

さてこの門脇家であるが、全盛の明治大正年間当時は漁師及手伝人に支払う賃金をカマス(むしろで縫い合せた袋)に入れて家から浜まで肩にかついで運んだものだという。
又家も漁師の寝泊り用に、北海道の番屋のように相当大きな家屋で、居間の大黒柱は子供2人が両手を廻して抱える程の太さで、それが又顔が柱に寫る程磨き抜かれたものであったという。

私は野中家同様にこの門脇家の祖父母の顔は全く知らない。
只祖父の名前は金藏ということだけは知っている。
又この金藏爺さんは金にあかせて妾(メカケ)をもち、私から見れば叔母になるのであるが、スヨ、ナカヨという2人の子供をもうける位の発展家であったそうである。
子供は両方併せて男4人女5人計9人の子福者であったということである。

1.長女 ノヨ 浅岸工藤家 森林地主
2.長男 金七 八森    漁師
3.次女 サヨ 幌内納谷家 炭砿々員
4.次男 佐吉 利尻    漁師
5.三女 マツヨ 幌内野中家 炭砿々員
6.三男 藏吉 大荒沢   國鉄耺員
7.四男 精司 釧路    炭砿々員
8.四女 スヨ 利尻佐々木家 漁師
9.五女 ナカヨ 砂川今井家 炭砿々員

 

※注:後で出てくるこちらの記事では「秋田県鹿角郡湯田村字滝ノ間八森」になっていますが、いずれも間違いで、正しくは「秋田県山本郡八森村滝ノ間」です。八森村は1954年(昭和29年)に岩舘村と合併して八森町となり、さらに2006年(平成18年)に峰浜村と合併して八峰町になりました。

 

長女ノヨについて

昔の明治、大正時代は生活に恵れない家庭が多かった為か、就学、進学については殆んとの者が無関心であったようである。
その為文盲50%といった時代である。
それが特に女性に多かった。
それだけ女性に学問は必要がないと考へている人が多い時代でもあった。
その項このノヨという叔母は女性乍ら学問に関心を持ち親を説得して当時の盛岡高等女学校を出た程の人であったそうである。
今でも幌内には、この叔母の娘時代と結婚後の寫真が残されているが、それを見た限りでも長身、美貌(ビボー)の才気走った顔をしている人である。

この叔母が適令期に盛岡より太平洋岸に抜ける山田線の途中に浅岸という処の山林地主で盛岡工専出の工藤という人に見染められ結婚し、2男1女をもうけたが、娘は16才で病死し、長男は勝巳と云い東北帝國大学を出て河北新報という東北隨一の新聞社に入社し結婚したが間もなく病死をし、残る次男は旧制中学を出て仙台鉄道局に務めており、叔母一人が広い屋敷に一人取残されたよう生活をしていた。
又叔母の主人である人も又40才台で病死した誠に死神に魅入られた一家とも云えよう。
私はこの叔母と二度程会っているが、1人残った次男の名前は章二と云ったが、私はこの人と会ったこともなく、叔母の死後、あの広い屋敷はどうなったか、現在音信不通である。

 

長男金七について

私はこの叔父に一度も会ったことがなく、又幌内には1枚の寫真もないのでどのような人か想像もつかない。
只私が小学校6年生位の時に、叔父の長男で直司という当時25、6才で約1ヶ月程幌内の納谷家へ逗留していたことがあったが、どのような目的で幌内へ来ていたかは知らないが、現在はこの本家とも音信不通である。
私の想像では長男直司の息子が綱元の跡を継いで漁師を続けているのではなかろうかと思っている。

 

次女サヨについて

父が万字炭砿で殉耺死をした翌年の昭和元年に母の姉であるサヨ叔母が幌内に居住していることが判明した。
それで母は少しでも肉親の近くで暮したいという考へから我が家は今井一家と共に万字炭砿より幌内へ転居したのであった。
この叔母は小柄な人で歯を昔風に黒く染め、きちんとした身成らのキビキビとした態度の親しみ易い感じのする人であった。
何時項北海道へ渡ったかは知らないが、相手の亭主とは死別し後には25才の長男を頭に男の子3人女3人の7人暮しであった。
男の子3人は既に小学校を卆えて幌内炭砿の坑内員として仂いており、娘3人の内、上2人は札幌の製麻工場の女工員として製麻会社の寮に入っており残りの末っ子娘1人だけは千代と同年でまだ小学校に通っていた。
それでこの叔母の家庭は我か家と比較すれは有福な方で、私はその項小学校5年生になっており、冬はこの叔母の屋根の雪降し等をしてやり、この幌内に来てから私は初めて叔母から小使銭を貰って好きな少年倶楽部とかタンカイ等という雑誌を買うことが出来るようになったのであった。
又この叔母の2番目息子は絵が趣味で私はこの平八という息子に可愛がられて、戸外の寫生等には必ず着いて歩いたものである。
これら6人の叔母の子供達は夫々成人して家庭を持つようになってからは、私共兄妹はすっかり疎遠となり何時しか音信も途絶えて今では消息不明である。
現在幌内のお寺の墓地の我が家の墓のすぐ隣りはこの納谷という叔母の墓石があるが、お盆には誰れかが墓参りに来るものとみえて線香の煙りが漂っていることもあった。
しかし誰れが来て行くものだろうかと不思議に思うことがある。

 

次男佐吉について

この叔父は親が漁師であるにも拘らず、若い項から家を離れて北海道に渡り、利尻で漁業に從事している内に、この島の綱元に見込まれ、その綱元の一人娘と結婚し、佐一という男の子をもうけたが、 この佐一という1人息子は小学校卆業後徴兵検査まで家業を手伝っていたが、徴兵検査で旭川の騎兵連隊に入隊し除隊後漁師を嫌って家には帰へらず、そのまま國鉄に務めてしまった。
そのため家業の綱元はこの佐吉一代で終ってしまったという。
佐一さんは現在丘珠に住み私とは交際を続けている。
又子供は男2人女1人で佐一さんはハイヤー会社に務める次男夫婦と同居しているが婦人は3年程前病没した。
尚長男は東京日銀本社に務めているということである。

 

三男藏吉について

叔父藏吉

この叔父は小学校を出ると同時に國鉄に入り最初から最后まで大荒沢駅の保線の仕事を担当し保線区長で停年を迎えたが停年後國鉄としては異例の北上駅と大荒駅との中間にある踏切を門脇踏切りと命名し、その労をねぎらったと云う程の人である。
それだけに非常に眞面目で酒、煙草もやらず仕事1本槍りの人だったらしい。
子供は男3人女3人であったが、長男も親の跡を継いで國鉄に務め最后は北上駅の駅長で停年になったということである。
私はこの6人兄妹中の次女である貴美ちゃんという人が黒沢尻の女学校を卆業した年に本人の希望で私の務めていた吉林人造石油本社の事務員に世話をしたことがある関係で現在でも年賀状の交換を続けている。

 

四男精司について

この叔父も次男佐吉同様、若い項から家を飛出して北海道の漁場を渡り歩いたようである。
徴兵検査では甲種合格となり、入隊中日支事変に出征し、兵卆としては数少ない最高の名譽とされる金鵄勲章の栄に輝いたという人である。
退役後釧路の漁場に仂いていた項、その漁場の綱元の女学校出の娘に惚れられたが、娘の親はその結婚を許さず、遂に二人は手を取り合って家出をし、学歴のない叔父は北海道各地の炭砿の坑内夫として渡り歩いたという。
それだけにこの精司という人は長身美男で、口数は少ない人であったが、眞面目なタイプの人であった。
私は羽幌炭砿在耺中、釧路の大平洋炭砿へ出張で行ったその帰り、その当時まだ釧路市内の借家に住んでいた精司叔父夫婦の処へ立寄ったことがある。
この叔父は各炭砿を渡り歩いて最后は茶志内炭砿で停年となり夫婦2人で茶志内で年金生活をしている項、兄健治と2人この叔父宅を訊ねたことがある。
子供は男1人(成人後病死)女2人で、娘2人は岩見沢と札幌に嫁いでおり、精司叔父は数年前病死し、精司夫人は茶志内でまだ1人暮しを続けている。

 

四女スヨについて

この叔母は祖父金藏の妾腹の子で私は成人してから始めて幌内で会ったので、以前のことは殆んと知らない。
若い項、利尻の佐一さん宅に暫く帶在したこともあるらしく佐一さんとは兄妹仲のよう親しくしているようである。
長身で顔も性格も明るい人で現在音信不通であるが、子供がおらないので消息はつかめておらない。

 

五女ナカヨについて

この叔母も妾腹の子であるが、私共にとっては最も親しい人で、我々兄妹が子供の項から「オバチャン、オバチャン」で通って来た人である。
私共兄妹と最初の出合いは我が家が岩谷(イワヤ)という所に住んでいた項、我が家の母の手助けに八森より呼び寄せてから、この叔母が死去するまでの交際が続いた人である。
我が家に初めて来た当時は年令19才位の時だったと思う。
身長は余り大きくなかったが、小太りした色の白い肉付きの良い顔に大きな目をしており、どちらかといえば愛嬌のある明るい性格の人であった。
母はこの叔母を今井竜藏という人と結婚させて以来我が家とは深いつながりを持って来て終った人である。
主人の今井竜藏氏も又軍隊出のがっしりとした体格で気性も良い人で停年後茶志内で交通事故により死去したが、子供は男3人女1人であったが、長男は沖縄戦で戦死し残る3人は健在で年賀状の交換をしている。
尚この叔母は80才で病没したが明るい気性で多弁な人で私は今でもこの叔母を思い出すことがあるが、野中、門脇家のことは殆んと、この叔母から聞き知ったようなものである。

 

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