父母及兄妹について

02. フクヲの家系
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父三太郎について

父は義務教育が終った後、盛岡市内の菓子製造業者宅へ住み込みで入り、菓子の製造法を習うかたわら、夜は早稲田の講議録で勉強を続け旧制中学卆の学力を得たということである。
その当時は総て筆記は筆書きで独立して菓子屋を始めた項は仕入、貸借、売上等は総て筆書きで、この書類が父か死亡し幌内に移住した項まで我が家に残っていたものである。
この外に算盤である。
当時の算盤は大きな物で、珠が大人の親指大もあった程で、その外に残っていた物では、これらの筆記道具や硯(スズリ)等を入れておく手箱等があったものである。

父は小柄の方で徴兵検査は不合格で、顔は私にそっくりであったとナカヨ叔母の談である。

徴兵検査後は盛岡へは戻らず、どのような関係からか、母の生家である門脇家の帳場となり、ここで母と結婚をし兄健治、姉ツナ、そして私と3人の子供が生れるまで帳場を続けた後、大荒砿山で菓子製造業を始めたということである。

当時の大荒鉱山※注1と云えは日本屈指の銅の産出鉱山で、それだけに鉱山としては相当の人口数であったらしい。

そこで始めた菓子製造業は幸いにして当りをとり、職人7、8人、女中さん1、使い走りや家の管理人1人の10人程の使用人を置く程であったという。
製造する菓子の程類も10数種類で、大荒沢鉱山地区は勿論、盛岡、秋田まで販売先があったという。
この外に当時は全國の小学校で三大節と云われる天長節、紀元節、明治節には学童全員に紅白の饅頭(マンジュウ)かラクガンという菓子を支給したものである。
それで我が家では、これらの菓子をも製造して地元小学校及附近小学校に納入していたということである。

父は主として各所のお得意先の外交を務め、母は家事を女中さん委せにして、菓子製造の経験はないが、その方の管理をやっていたということである。
父は酒が好きで家では毎日晩酌を切らしたことがないという程で、從って各地のお得意さん方もそれを承知しているので、夕方近くであれば必ず酒を出すので、 父はそれを馳走になり、その当時は自転車さえも余り無かったので家では自転車代わりに馬1頭を飼育しており、それを父が交通手段として使用しており、その馬の鼻先に我が家の定紋の入った提灯(チョウチン)をぶら下げて、鼻唄を唄い乍ら帰って来るその声を聞きつけて耺人や女中さん達が、「そら、おどさんが帰って来たぞ」と云って玄関先まで出迎えに出る様子が、私は今でも、かすかに記憶の底に残っている。

大荒沢での生活は私が5才になるまでの5年間より続かなかった。
それは大荒沢鉱山の鉱脈が突然切れて閉山になったからである。

鉱物は石炭と違い突然に鉱脈が切れることが間々あるが当時は調査も不充分であったせいか、全く予期せぬ出来事であったらしい。
そのために鉱山從業員は勿論、それに関連した事業、商店等は一方的な閉山宣云に金銭関係や事後の対策、整理がつけられず、事業及商店経営者には到産する人が続出したということである。
我が家も同様で、私が父の死後幌内に移住後、残された貸借関係書類を見ると、貸金未回収の金額は現在の金額にすれば数100万円であったことを子供心に記憶している。

そのため父は総てを投打って大荒沢を立退き次に生活の據点としたところは山形県の日本海に面した五十川と云う所であった。
此処は鶴岡に近い漁村であった。

父の仕事は今度180度転換した肉体労仂の國鉄のトンネル工事の堀サク作業員に変身したのであった。
何分経験のない作業であった為、賃金も安く、そのため母はこの地で土木作業の日雇いに仂き出したのであった。
この五十川へ来たのは私が5才の春5月項で、それからその年の10月にこのトンネ工事の作業が終了し、次に移動したのは、今度は秋田県羽後岩谷(イワヤ) と云う処で、父はここでも國鉄トンネル工事の作業に從事し、ここでは約1年半の居住で私が小学校2年生の5月、今度は北海道の万字炭山に移住し、父はここでも不慣れな坑内作業員として仂き移住1年半後の大正14年11月坑内作業中、落磐事故により42才の生涯をとじたのが大正14年11月のことである。

父はこの万字炭山へ移住してから僅かな年月であったが、その間、仂く人達の人望を得て、現在の労仂組合の委員長的な立場に立たされた。
その当時は組合組識といったものはなく、仂く人達が自主的に、そうしたものをつくっただけのもので、その項の炭砿は現在のように保安設備も整っておらず、漁師と炭砿夫の災害率は大きなものであったようである。
その当時の言葉として「怪我と辨当は自分持ち」と云われた位である。
父は委員長的な立場に立たされたが、勿論それは会社とは一切関係がなく、仂く人達が独自で設けたもので、その名稱も「友子(トモコ)の会」と云い父はこの会より一銭の報酬(ホーシュウ)を得る訳けでもなく、あくまで名譽世話人的な存在であった。
そして6軒続きのハーモニカ長屋の玄関入口に子供の背丈けだけもある「大当番」と書かれた札が下がっていたものである。

その項の炭砿は労仂者の出入りが多く、出て行く者、入る者等が必ず我が家へ挨拶に来るので僅か畳半帖位の狹い玄関先は、この人達で混雑したものであった。

それだけに父の葬儀は、この万字炭砿始って以来と云われた程で、葬儀が終った後も暫くの間、父の死を聞き知って、各地に散っていた人達が弔門におとづれたものである。

父の死後間もなく我が家は万字を離れ幌内へ移住したが、会社からお盆の8月15日万字炭砿として行われる殉耺者慰霊祭には会社より旅費及び日当が送られて来て母と私が3年間続けて出席したものである。
私は父との接触は小学校4年までであり、兄妹が多かったせいか、私だけが特別父に目をかけられたことも又叱かられたということもなかった。ものである。
それだけ私は父の目から見れば、存在感の薄い人間だったのかも知れない。

 

※注1:ここでいう「大荒鉱山」は現在の岩手県和賀郡西和賀町にあった卯根倉鉱山(銅山)の一部である「大荒沢坑」を指すものと思われます。

 

母マツヨについて

母の実家は前述のように綱元という一般遮民より多少恵れた家に育ち乍ら、小学校の義務教育をも受けなかったようで、読書きは全然出来なかった人である。
それが母の妹であるサヨ叔母にしてしかりであるから不思議である。
只々身体を使って仂くだけの人であった。
それだけに父の死去以来、私達子供は、この母の労仂力に依て生長出来たといっても過言ではない。

大荒沢での倒産以来、我々子供達が一人前に成長するまで仂き続けて来た人である。

倒産後の五十川、岩谷そして万字炭山に移住後は男並みに坑内にまで入って仂いた人である。
明治から大正末期までは女性でも坑内作業をしたもので、それが九洲地方に多かったが北海道では稀れであった。
そして昭和に入ってからは女性の入坑は法令で禁止されたが、それだけ坑内作業は危険度が高かった為だろうと思われる。
又母は貧乏の性というか、少しも身体を休めることなく仂く方であり乍ら、病気知らずで、私は母が病のため床についたのを見たことがない。
又母の手指の爪を誰れが見ても驚いたものである。
それは労仂により爪が厚く固くなり、男でもこのような爪をしている人が居らない程である。
その母のお蔭で我々子供6人が成長出来たこと考えると、私共6人はこの母に対しては全く頭の上がらない存在であると今更乍ら思うのである。

 

兄健治について

兄は幼少の項より、叔母達の話では、おっとりとした性格の色白な子で、資産家の御曹子といったようなタイプの子であったそうである。
それには今でも幌内に残るその当時の寫真を見ても、うなづける。
父はそれが自慢で兄を抱いて父のお得意にしている料亭に連れて行っては兄が女達にもてはやされる、それを見乍らチビチビやるのが楽しみであった想である。

又この兄が大荒沢で小学校に入学するようになったが、1年生より3年生まで優等の賞状をもらい、それが暫く家に残っていたのを私は記憶している。

それが何時しか学年が進み5、6年の項には普通の子並となり、小学校高等科になってからは、更に成績が落ちたということである。
兄が高等科に進んだ項は父もまだ健在で、兄は万字炭山駅前の小学校まで片道6Kを通学しており、又腕白友達が出来て、下校の途中で、その腕白連中と遊び呆けて家へ帰へる時はすっかり日暮れとなった項で、それで学校成績が下ったのと帰りが遅いため父が烈火の如く兄を叱っていたのを記憶しているが、私は後にも先にも父が子供を叱ったのは、これが初めてであったと思っている。

その後兄は高等科二年を終る年の春、父に連れられて夕張工業学校の受験に行ったが不合格となりその年の小学校を卆えると同時に万字炭砿相沢坑という所の坑内で使用する照明用の安全灯係という処へ見習として採用になったその年の11月に父は坑内事故で死亡したのであった。

これが兄が炭砿で仂き出した最初であった。
その後幌内に移住してからは、17才の年から一家の柱として坑内夫として仂くようになり、これが暫く続いたのであった。
しかしこの坑内作業員として仂くようになった為、坑内事故で負傷したり、又病気のためによる入院生活と家での療養生活が約2年も続いたのであった。

その項には我が家にも多少変化があり、家には義父が入り又私も多少家のために仂けるようになったり等して、一方的に兄の仂き頼ることはなくなって来た。

兄の人生は32才で結婚をし、その直後すぐ召集となり終戦後在留日本兵50万人シベリヤに抑留されその内の5万人が病死その他で死亡したと云われているが、幸いにその中にも入らず帰還し得て、ようやく家庭生活に入ることが出来病死するまでの約24年間が最も幸福な期間であったろうと私は思うのである。
私は今になって改めて兄についての思い出を振り返って見ると、兄は手先の器用な方で、青年時代はマンドリンをやり出し、どこから入手して来たのか中古品のマンドリンを持ち込んで来て、仕事が終り家へ帰って来て夕食を済せた後は、夜遅くまで友達の所へマンドリンの練習に通い、又それと同時に楽譜の見方をも覚え数ヶ月後には、結構素人の一人前として通用するようになったつたのである。
それで今度は幌内市街にある個人経営の幌内劇場の舘主に頼まれて、同好の友人4、5人でその映画舘の音楽担当をすることになった。

この映画舘は映画ばかりではなく、芝居、踊り、落語等何んでもやる所で、映画は月4、5回であった。
それで兄達は、その都度出かけて行っては小使銭程度の謝礼を貰い喜んでいたものである。
その項の映画は全部無声映画で、舞台スクリンの横に活辨と稱する辨士が立って、スクリンに寫し出される人物の声色(コワイロ)をしたもので、この活辨の人々は、その映画に附いて全國を廻り歩く本耺で仲々堂に入ったもので、当時徳川無声等といふ有名人がいた程である。
映画は活辨の声色だけでは面白くなく、場面によっては音楽が入った方が効果的であることは勿論であるが、そのため本耺の楽師を雇うことが出来ず、それで劇場主はその一策として兄達にそれを依頼したのであったらしい。

この楽師席というのは正面舞台のスクリンの前に床より1m程下った楽師5、6人が入る横に長い長方形の席があり、そこへ楽師連が正面スクリンに向い各自の椅子に座り、バイオリン、ギター、マンドリン、サキソホン、等を持ち込み、薄暗い照明の中で楽譜を見乍ら場面に応じて演泰するのであった。

映画館

こんなチヤチな映画でも他に娯楽のない炭砿では結構人気があり入場料20銭の映画劇場は常に満員の盛境で、私は兄のお蔭で毎回無料で觀られたものである。

その外兄は編み物も下手な女性には負けない程の腕前でもあった。
それは病気、怪我と数年に亘る病床生活中に編物をも覚え、ベットに仰向けになって手先きを動かし、編物をしていたもので妹達のセーターは総て兄が編んでやったものである。

この外に兄は病床を離れるようになってからは、市街地の箇人歯科医で木村という人と音楽を通じて知り合いになり、その歯科医の所へ顔を出すうちに、見よう見眞似で歯科の技工を覚え、身体がすっかり回復してからは、その木村歯科に頼まれ技工を引受けるようにまでなった。
戦後兄がシベリヤから帰還する項國家試験制度が出来、兄はその國家試験にも合格し、遂いにはその技工が本耺となり、それによって生計を樹てるようにまでなったのであった。

又兄はシベリヤ抑留中の6年間は最初の1、2年間は全員ソ連の労仂に從っていたが、その後ソ連側の規律もゆるみ、抑留者の慰安として楽器の使用を認めるようになり、抑留者中に楽器を製作するものも居り、楽団を組識するまでになったそうである。

それで兄はその楽団の一員として入団し、ソ連領内の各地に散在している日本兵の抑留地を慰問で廻り歩く許可を得えて、以後日本内地へ引揚げるまで労仂することもなく過ごせるようになったということである。

その為、抑留中は作業よる負傷も又病気もせず無事日本へ帰還出来たのは実に芸は身を助けるを地で行ったような幸運に惠れたのであった。

これが兄の大体のあらましで、兄は又人に好かれるタイプで、隨分といろいろな耺業を持った人達がいたものであった。

 

姉ツナについて

姉は幼時期から女の子に似合わぬサバサバというか、そうした気性であったらしい。
それで大荒沢当時は耺人、女中さんその他の人からも可愛かられ、特に父からはチヤコ、チヤコと云って愛いされたものだということである。

それが長ずるに從ってその気性に負けず嫌いな気性が加わり、男の子並なっていったそうである。

大荒沢当時は悪戯も激しく、その頃三大節と稱した祭日には学童全員に紅白の菓子を支給されたが、我が家では、それを製造し、学校に納入するため前日から その菓子を製造保管してあるその中から姉は2、3ヶ抜き取って穏しておき、納入当日耺人が改めて再検すると不足してをり耺人さんたちをあわてさせたり、又菓子製造のために使用する砂糖の中に塩を入れておくなどをして耺人さんを困らせたものだということである。

その姉が長ずるに及んでも、男の子の性格並みで兄健治が外遊びで近所の子供達にいじめられ、家に泣いて帰ったりすると、それを見た姉は早速家から飛出して行き相手の子を殴り返して来る程で、母はそれを見て、この子は将来どのような子になるのであろうかと心配をそうである。
又後年家が大荒より撤退し、次の五十川へ引越したのは姉が8才の項で、母はその項より外仂きをするようになったので、姉は母に代って見よう見眞似で家事をするようになり、それが姉が嫁ぐ項まで続いたということである。

又姉は娘盛りの16、7の項家計を助ける意味で2年間程幌内炭砿選炭工場の選炭婦として仂き、夜は裁縫を習うために通ったこともある。

その項の姉の性格は子供の項と少しも変っていなかったが、キリリと引き締った美人顔で、選炭工場へ務めていた当時は、30名以上居た選炭婦仲間の中でも美人の部類であったとみえて、同じ選炭工場で働く男達が、暇に委せて選炭婦の美人投票等をやったものだそうで、その中には姉が必ず、一位か二位に入ったものであるという。
その項から姉には縁談話が持ち上っていたが、母は知人のすヽめで大夕張炭砿に住む村上正という人の処へ嫁がせたのであった。
その姉の嫁ぎ先の相手の人は、年令は25才位であったが、小柄な人で、顔形ちは余り良くはなかったが、男にしては心の優しい酒、煙草もやらない人であった。

その相手の村上家は60才近くなった夫婦に20才位の三郎という弟と16才位のミヨという子の5人暮しで、新夫正さんは大夕張炭砿の坑外夫として仂いていた。

父親は以前何か商売をしていたとみえ一寸した小金持ちで、非常に頑固な人でこの村上家は母親から始まり子供達も一切この父親の云いなりに動く一家であった。
そこへ嫁として入った姉は、この頑固親父の意志通りに動かねはならず、姑より舅に対して気を使う毎日であったということである。
それから間もなく、どうした理由からかは判らないがこの舅の号令一下、大夕張炭砿を止め次は中富良野へ移住し農業を始めたのであった。

当時の農家は現在のように機械化されておらず、総て肉体労仂一本槍りで、離農する人の跡を譲り受けたので住居、馬、農器具類は揃っていたが何分初めての経験であり不慣れなことばかり、朝は4時起床夜は10時まで仕事を続ける毎日であったという。

それに加えて不慣れなためにおきる仕事上の失敗の小言まで嫁である姉に向って集中するので、余りの辛さに姉は、小使銭とて一銭も與えられておらないので嫁入りの際に着た衣類を駅前の質屋に質入れをし旅費を工面して幌内に逃げ帰ったことがあった。

しかしそれも母にさとされ、しぶしぶ婚家先へ戻った姉の哀れな姿を私は今でも記憶している。

その後村上一家は約2年農業を続けたが、遂いに頑固親父は農業を見限って今度は現在の手稲、当時は軽川と云ったが、この軽川駅 から10K程山に入った軽川砿山へ一家を擧げて転居し、家族の男ばかりこの砿山の從業員として採用になり、この会社の住宅に入居し、姉はようやく一息ついたというところであった。
ところがそれから間もなく姉の亭主である正さんが肺を浸かされ入院し、入院半年後に病死をしたのであった。

それで村上家から暇をとった姉は暫く幌内へ戻っていたが又母の知人のすすめで今度は銭函で魚屋を開店している寺沢豊吉という人と結婚したのは昭和12年の年であった。

この寺沢豊吉氏は一度結婚の経験があったが離婚し一人で養女和子という12才の子供と小さな魚屋を開業していた。

その項の銭函の人口は現在の1/3程度で永年、日本海沿岸の増毛、浜益同様、鰊漁で栄えた村であった。
それで店も小さい乍ら繁生し、姉も初めての魚の扱いにとまどったようであったのであった。
しかし生れ乍ら負けず嫌いの気性で忽ち営業のコツを呑み込みすっかり魚屋のおかみさんタイプに変心してしまったようであったのであった。
しかし鰊漁も終戦後の昭和23年を境いにピタリと1匹の鰊も獲れなくなった。
だが店は他の魚で補い夏は海水浴場に売店を出したりしていたが、それも27、8年までで、それ以後店をたたみ、釧路の製紙工場の独身者寮の賄(マカナイ)として転居した。
尚忘れていたが、海水浴場を始めた年に豊吉氏は江差の漁村から12才の男の子と10才の女の子の2人を養子として貰ったのであった。
釧路には豊吉氏が60才の停年まで務め退耺し、又銭函に戻り今度は、家の修理、整地の何んでも屋に転身した。
その項は養子3人共家を離れ、それぞれ一家を構えるようになっていた。
まもなく豊吉氏は病を得て平成4年病没した。
しかし豊吉氏は個人営業が永かったため死後年金も貰えず、姉は小樽市の生活扶助を受けて1人細々と余命を保っているが、只気性だけは変らず、この貧乏生活に耐えて意気軒昂であるのが何よりの幸いである。
尚養子である3人の子供達は生活に余裕がないためでもあろうが誰れ1人として姉の家には寄りつかづ折角の苦労が水の泡と化したようなものである。
又豊吉氏の実家は銭函で牧場を経営していた程であったが両親が死去した後、その牧場を売却したのであるが、その売却金は姉が市の生活扶助を受けている身であるため寺沢家兄弟3人で分割した豊吉氏受取分は市に取上げられたということである。

 

妹千代について

この妹は楽天家であるが故に永年の困窮生活に耐えて来られたのだと私は思っている。

小学校は6年生までであったが、家の貧乏生活のため、母の知り合いが、弥生炭砿で飲食店を開業していたその店へ住み込み手伝いとして入店し、20才の項その店の常連であった半沢勉と知り合い結婚したのであった。

その半沢勉なる人の実家は南幌向で農業と精米所を兼業している家の次男であった。
実家には60才近くの温厚な母親1人とこれも温厚な長男夫婦及生後間もない女の子の4人暮しの家であった。
その家の次男である半沢は小学校卆業と同時に農業を嫌って家を飛び出し、この弥生炭砿の坑外夫として寮生活を続けていたが、寮生活の退屈さと外に趣味のない半沢は千代の務めている飲食店へ暫々来ていたようである。
この半沢は中肉中背で顔は一寸ハーフがかった美男の部類の顔形ちをしており、酒は余り呑まず煙草も喫わずの人であったが少々不良がかったところのある人であった。

それが暫々務める飲食店へ来ている内に、案外人の良さそうな千代に目をつけ強引に誘惑をしてみたというようである。

それが人を見る目のない千代はその誘惑に乘った風であった。

それで結婚の相談に幌内に帰ってきた千代の話を聞いた母は本人の希望に応じて、南幌に住む半沢の母と会い話合った結果、擧式も何もない結婚をさせて弥生炭砿の砿員住宅に住わせたのであった。

それから間もなく長女常子(ヒサコ)が誕生したが、その項より半沢は、この生活に飽きが来たとみえて、誰れにも相談なしに單身渡満をしたまま、その消息が絶えてしまったのである。
それで仕方なく母は又南幌の半沢の実家に赴いて相談の結果、離婚手続きをとり、常子は半沢の母が引取ることになって一件落着したのであった。

その後千代は幌内へ戻り家から上幌向の農家へ農事の手伝いに通うようになった。
その農家は現在の農事試験所のすぐ側にあり、その家には40才位の朝鮮人1人だけが住んで農業をやっており、千代はその人の手伝いであった。
そのうちにその朝鮮人は千代の仂き振りを見て是非嫁に慾しいと母の知人を介して申し込んで来たのであった。
それで母はその人について色々調べてみると、性格も良く別段難点もなかったので、その人と結婚をさせたのであった。
それから終戦までの約10年間千代はその家で生活する内に笑子、重子、紀代美の女の子ばかり3人が誕生したが、やがて昭和20年の終戦を迎えると、夫の朝鮮人は突然無断で單身朝鮮へ帰國してしまい、後にはボロ家屋と馬一頭、子供3人が残されてしまったのであった。

それでも千代は例の気性で女手一つで僅かばかりの農地を守り3人の子供を育てていたが、女手一つの農事は仲々困難な仕事でまだ小学生だった娘3人は県命に千代に協力したが、何分女だけでは馬を使うことも出来ず、幌内の母も隨分と仕事や、金銭面で應援したが及ばず、さすがの楽天家の千代も音を上げるようになった。
それを見て銭函の姉ツナは、その項、本洲から来た30才位の風来坊的な他に身寄りのない男を店の手伝いに使用していたが、その男を千代と結婚させ、入り婿となった彼は名も野中大蔵という名前で、この千代一家の女ばかりの家へ入り込んだのであった。

この男は平均的な体格で小学校も満足に出ていないような人であったが気性は良く、よく仂く人であった。
しかし、難点は酒好きで、呑んだら最后自分を抑える能力がなくなる人であった。
或る時、自家製の野菜を背負って、当時弥生炭砿で佐野千代隆氏と一家を構えていた妹ハナの処へ行き好物の酒を馳走になり夜11時項、佐野家の人達の止めるのを振り切って、弥生から上幌向まで鉄道線路伝い歩き出し、現在の三笠駅近くまで来て、酔いのため線路を枕に寝込んでしまった處へ幾春別発岩見沢行の最終便の貨物列車にはねられて即死したのであった。
この時私は羽幌炭砿に就耺し、羽幌本坑というところの耺員住宅に住んでいた項で、千代から知らせの電報ですぐその日の午后上幌向へ向ったが、丁度その日は例の後史に残る台風20号が発生し、函舘、青森間運行の連絡船洞爺丸が沈没した昭和25年10月であった。
私は台風のため列車の運行が停止となりその日は上幌向まで行くことが出来ず遂いに深川の旅舘に足止めをされた記憶に残る日であった。

その後千代はようやく後始末も終り、今度は又新に出生した大藏の忘れ形見、信明が加って、再度困難な農作業を続けている内に笑子、重子、紀代美の3人は小学校を出て、夫々住み込みで、札幌、岩見沢と家を離れ後には信明と2人だけの生活となった。
丁度その項、上幌向に農事試験場が出来ることになり測量の結果千代の家屋と僅かばかりの農地がどうしても試験場の一角に入ることになり、そのため試験所より家屋敷地、農地の買収の外、千代を試験所の嘱託に採用するという条件が出てこれに応じた千代は近くの家を借りて信明と2人借家住いをすることになった。
その項が笑ちゃんが久子の仲介で現在の大塚先生と結婚し一家を構えた項である。

それから嘱託として農地の労役に就いていた千代は、その仂き振りを認められ、職員の公務員となりボーナスも支給されるようになり、初めて5人の子供の中から信明を高校へ通学させることが出来るようになったのであった。

やがて苦労の効いあって試験所に売却した土地代金とコツコツと僅か乍ら貯畜した金とを併せて、ようやく念願の家を新築出来たのであった。

こうして苦労に苦労を重ねた千代は遂に最后に幸福を得ることが出来たが只一つそれは信明が重荷となって残ってしまったのである。
優柔不断の言葉通り男として似付かぬ性格であるため嫁に離婚を申し渡され、それをも解決出来ず中学となった息子を抱え処置を構ぜられないでいる信明を見ている千代はこれが唯一の心残りであろう。

 

妹ハナについて

この妹は小学校6年だけの卆業であるが、千代同様弥生炭砿の飲食店へ務め、そこで佐野千代隆氏と知り合い結婚をしたので、他の兄姉のような苦労をせずに済んでいる。

 

末妹キミについて

この妹は家も幾分生活の予猶が出た項なので小学校高等科を卆業出来た。
学校を出ると共に結婚まで岩見沢の無儘会社に務め母が決めた現在の平井稔氏と結婚し現在に至っている。

 

(まとめ)

以上が我が家の父母及兄妹達の経歴であるが、私が覚えていることだけでも以上の事柄であり、その外に各自まだまだ私の知らない苦労や惱みがあったことと思うのであるが、とにかく我々は人生途上で父を亡しなったことが、母初め私達子供に大きな影響を與えたことは間違いないものと思っている。
これは私だけの考へであるが、若し、父が生存しておれば、我々子供達の境偶も、もっと変ったものになっていたに違いないと思へるのである。
何れせよ、もう過去のこととなった現在であるが思い出せば際限のないものである。

 

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