野中家について

02. フクヲの家系
若き日のフクヲと姉ツナ
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野中家について

私は父の両親である祖父母については全く記憶がない。
祖父の耺業、又父の出生地も知らない。
戸籍謄本にある本籍地は確しか岩手県柴波郡湯田村※注1大荒沢砿山※注2となっていたようである。
以上から想像してみると、祖父の耺業は砿山関係の仕事で父も又本籍地の大荒沢砿山が出生地ではなかろうかと想像しているのである。
只一つ私と祖父との関係は私の名前である福男は祖父が命名してくれたのであるということを母から聞いた記憶がある。

次に野中家は男の子ばかり6人も出生していながら、誰れ一人として親と最后まで同居していたという話も聞いたことがなく不思議な家庭だと思うのである。
長男である市太郎からして若い項から家を離れて住み込みに入ったという点からしても、決して有福な恵れた家庭ではなかったことだろうと想像せざるを得ない。

 

※注1:旧湯田村は紫波郡ではなく、旧西和賀郡に属していました。湯田村は1964年(昭和39年)に町制施行して湯田町となり、さらに2005年(平成17年)に沢内村と合併して西和賀町となりました。

※注2:ここでいう「大荒沢砿山」は現在の岩手県和賀郡西和賀町(旧西和賀郡湯田村)にあった卯根倉鉱山(銅山)の一部である「大荒沢坑」を指すものと思われます。

 

6人兄弟の消息について(最終耺業)

1.市太郎  東京杦並区において鉄工場経営
2.二太郎  消息不明
3.三太郎  北海道万字炭山坑内夫
4.與五郎    〃  茂尻炭砿坑外夫
5.權次      〃  芦別炭砿坑外夫
6.六太郎  函館市においてホテルコック

 

長男市太郎について

私がこの叔父と最初に会ったのは大正14年12月、私がまだ小学校3年生の時である。
それは父が万字炭砿の相生沢坑という坑内で落盤事故により死亡したため、叔父は東京でそれを知り、葬儀の終った10数日後に北海道の雪深い、しかも交通不便なこの山奥を訪ねて来たのであった。
その当時の叔父の印像は、年令50才近く、身長1.70mに近い中肉で顔は父に似て眉毛の濃い温顔で割合いに無口で親しみ易い感じのする人であった。
これは後日母から聞いた話ではあるが、叔父の来道目的は、どうして知ったのか、父が殉耺死をした為、会社より弔慰金を支給されることを知り、それを借用に来たのであるということであった。
当時東京と北海道間の交通は片道2日乃至3日がかりの道程で、しかも12月といえば北海道は降雪の眞只中にある時期で、岩見沢、万字間の列車運行回数も1日、2、3本の時である。
それだけに叔父は鉄工場の経営不振で資金の調達先もなく、わざわざこの避地まで来たのではなからうかと思われる。
次の第2回目に会ったのは昭和13年8月で、万字炭山で会って以来実に13年振りのことである。
私は丁度札幌の石炭砿技術員養成所の夏休みで幌内へ帰省していたが、與作さんの知らせで叔父一行が、茂尻の隣りの赤平へ来ることを知って、それで叔父一行を訊ねてみたのである。
叔父は年令60才を過ぎて頭髪は殆んと白くなっていたが、その外は13年前と少しも変っておらず、元気な様子であった。
面会後叔父に来道の目的を尋ねると、叔父は鉄工場経営を長男に譲り、現在は隠居の身であるが、今回思いがけなく北海道赤平炭砿選炭機のベルトコンベヤ設置工事の仕事が入ったので、長男及耺人10数人が渡道することになり、その後見役として久し振りの北海道見物傍々皆とも会うためにやって来たのであると云うことであった。
そして私に長男を紹介してくれたが、見たところ年令は40才位いで、身長は余り大きくなく肥満タイプで顔は大きな目と太い眉毛であったが隻眼で、それに太いドジョウ(ヒゲ)を生して、さながら土方の親分といったタイプの人であった。
私はその晩叔父達が借り受けた宿舎に泊り、長男の招待で、折りから茂尻より来ていた與作さんと共に赤平市街の料亭で一夕馳走になり翌日幌内へ帰ったのであるが、後日與作さんに一行の様子を聞くと、この叔父達は10月初旬まで工事作業を続け、工事終了と共に東京へ引揚げたという話であったが、それ以後お互いの音信は途絶えたままとなっている。
恐らくは叔父も長男も他界した後は長男の息子でも後を引き継いで工場を経営しているのではなかろうかと想像しているのである。

 

次男二太郎について

叔父二太郎については、万字炭山で父死亡当時、母より若い項家を出たまま音信がなく居所不明であることを聞いたことがあるが、現在でもその消息を聞いたことがない。

 

三男三太郎について

これは私の父であるから後述する。

 

四男與五郎について

この叔父は私にとっては非常に縁の深い人である。
それは私が幌内小学校高等科2年の昭和6年※注3の時であった。
それはふととした機会から與五郎叔父が茂尻炭砿に居住していることが判明したのであった。
それで8月お盆休みは何処の炭砿でも14日~16日までの3日間続くので、兄と私の2人は14日茂尻の叔父を訊ねたのである。
叔父は茂尻へ来る前は、何処で何をしていたのか聞き洩らしたが、私達が訪問した当時は茂尻炭砿の選炭機の石炭の貨車積で坑外夫という耺名で仂いていた。
家族は叔父が若い項奥さんに病死をされ以後独身を続け、子供は私より1才年長の與作さんが、昨年小学校を卆業し会社配給所の雑役夫で仂いており次は私と同年で高等科二年のキクちゃんという娘の3人暮しであった。
初めて見る叔父は上背のあるガッしりとした体格で年令は既に50才を過ぎていた。
顔は私の父三太郎に良く似た顔付きで温和な性格の人であった。
若い項徴兵検査では甲種合格となり秋田の歩兵連隊に入隊し、射撃の名手で毎年行われる聯隊対抗射撃大会に出場した程の腕前であるという。
又酒好きな人で、私が約半年間危介になっている間、よく酒買いに走らされたものである。
しかし酒におぼれることはなく身体に合った適量を呑むだけの人であった。
後日私が20才で旭川の歩兵連隊入隊の前日茂尻より祝いに来てくれ一泊して帰ったが、その項は炭砿を停年となり、日雇い作業をしていたが、もう私が最初に会った項の元気さはなくなっていた。
そして昭和25、6年頃、私が羽幌炭砿に就耺していた当時病死でこの世を去った。
私が思い出しても、この叔父は温厚な思いやりの深い人であった。

叔父が死去した後は息子の與作さんは炭砿閉山後家族5人を引連れて各地を放浪して歩き、遂いには奥さんとも離婚をし、ようやく成人した長男宅に同居していたが昭和63年5月病死をした。
妹キクちゃんは砂川で現在も健在の筈である。
尚與作さんの子供3人とは現在も年賀状の交換をしている。

 

※注3:当時の高等小学校は尋常小学校6年の後の2年間で、1916年(大正5年)11月18日生まれのフクヲが高等小学校2年の夏を過ごしたのは満13歳の1930年(昭和5年)(満14歳になる年)であると思われます。

 

五男權次について

私がこの叔父を知ったのは昭和28年項で、それは與作さんとの交信によって、この叔父が芦別炭砿に居住していることを知ったのである。
與作さんは私に知らせるその以前から知っていて既に数回叔父宅を訪問をしているようであった。
それで私は札幌出張の帰途、與作さん宅に寄り一緒に權次叔父宅を訪問したのが最初である
叔父は茂尻の近くの芦別炭砿の坑外夫をして、家族は4人であった。

叔父の奥さんは物静かな人で、娘は30才を過ぎてこの芦別炭砿の坑員と結婚をし同じ芦別に住んでいた。
もう一人の長男は、小学校出で芦別郵便局務めをしている温和な口数の少ない好青年であった。
權次叔父は他の兄弟である市太郎、三太郎、與五郎の3人とは全く似ておらず、身体は小柄な方で顔も温和な顔ではあるが、殆んと異った顔の人であった。
只似ているのは酒好きなところだけであった。

私は以後この叔父の処には息子の結婚式の時と與五郎叔父の葬儀の際に出席し、葬儀が終った後に叔父にすすめられて芦別まで行き、叔父宅に一泊したことがある。
叔父は停年後、結婚した息子夫婦と同居してが、私がヘル二ヤの手術で札幌醫大に入院中に病死をしたのであった。
葬儀には私は入院中で参列出来なかったが、それから間もなく息子夫婦が私の見舞を兼ねて病院を訪ねて来て、今回芦別の郵便局を退耺し、本洲の或る工場へ務めることになったのでお別れに来たということであった。
その後本洲へ移住した筈であるが、現在でも音信不通のままである。

 

六男六太郎について

この叔父については、万字で父死亡の際函館市内のホテルのコックをしているという話を聞いただけである。
恐らくは若い項家を飛出し北海道を放浪して歩いたのではなかろうかと想像している。

 

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