扎賚諾爾炭砿(3) ~満州編3-3~

チチハル師団司令部 15. 転職:扎賚諾爾炭砿
チチハル師団司令部
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兄健治と2度目の面会

私がジヤライノールへ来てから早いもので昭和19年の10月となりこの西満の地は寒期に入いろうとしている項であったが、思いがけなく兄健治より面会に来てくれという軍事郵便が来た。
居所はチチハルであった。
私は朝鮮人石当時1度、図們に面会に行ったが、その後、古田氏の事故や人石を退耺するため多忙となり、兄との交信が暫く途絶えていたが、兄は幌内からの通信で私がジヤライノールに居ることを知って連絡をして来たものと思われた。

それで私は寮の日本人コックさんに頼んで、又特製の辨当を造ってもらい早速チチハルへ発った。
チチハルは、このジヤライノールからは相当の巨離があり、むしろハルピンの方が近い所で、その日の夕方私はチチハルに当着し、駅前の日本人旅舘に宿泊し、翌日9時項、駅から約1k程ある部隊を訪問した。
この部隊は満洲、西方の日本軍據点であるだけに相当大きな建物で、ここも面会時間は30分であった。

此処で約1年振りに会った兄は、図們当時と少しも変りなく只軍人姿だけはすっかり身についた様子で、階級は星二つの1等兵に昇進していた。
兄は早速私が持参の辨当をパクつき乍ら云うことは、この部隊も図們同様食糧が窮屈で軍務よりも食糧深しに県命であるということを、辨当食べ乍ら頻りに口説くので、私はすっから兄に同情し、それでは私が昨夜泊った旅館の女中さんに頼んで、なんとかしてやろと兄に約束して宿へ帰って来た。
30分の面会時間なので兄とは余り話も出来なかったが、図們の部隊以後は満洲各地の部隊を転々として廻り歩いて、来たが、又近い内にこのチチハルからも異動になるだろうとのことであった。

宿へ帰って来た私は発車の時間まで、まだ余裕があったので昨夜夕食の際給仕をしてくれた女中さんを呼んで、私がこの地へ来た事情を話しをすると、すっかり同情してくれ、週に一回、兄の所へ面会に食糧を持って行っくれることを約束してくれたのであった。
この娘さんの話では、この旅館の主人は私の叔父で、私は手伝い傍々この叔父の処に来ているが出身地は九洲天草であるという。
娘さんはまだ20才位の小太りの可愛い人であった。

兄健治

兄健治と女中

私はその日の夕方着でジヤライノールに帰って来たが、その後兄から届いた郵便では、娘さんは約束通り週1回、食物を持参で面会に来てくれ、練兵の休日には街へ一諸に出ては、その都度馳走になっているとのことであった。
私はこれを知って本当に良い人に巡り会えたことに心より感謝をした。

兄はその後20年8月終戦と共にソ連に抑留され4年後の昭和24年に帰國したが、この娘さんのことは、私によくその当時ことを語ったが、これ程兄にとっては嬉しかったことはないと云っていたが、帰國後娘さんの住所も判らず、音信不通のままとなってしまった。

 

※注:写真出典「泰弘さんの【追憶の記】です…」チチハル師団司令部付近の展望

 

古田氏の幌内帰郷

私がチチハルの部隊の兄に面会に行って帰って来た数日後、古田氏の元へ幌内在住の古田氏の父親が病死をしたという電報が入り、古田氏は急據幌内へ帰った。
そして葬儀を済せた後、いざジヤライノールへ帰へろうとしたところ旅券が制限を受けて入手出来なくなってしまったのである。
それで狼狽した古田氏は私へ何んとか手配をしてくれと再三に渡って手紙が来たが、私とてどうすることも出来ず会社の総務課へも相談に行ったが何んとも方法がないということであった。

その項は日本軍の敗戦が濃厚となり、アメリカ軍の潜水艦が日本海まで出没し、新潟、罹津間及下の関、釜山間の航路は閉塞状態に追い込まれ、日本より外地へ出る道は著ぢるしく制限され、旅券の入手は困難となってしまったのであった。
それで益々あわてた古田氏は私にばかり、何んとか方法を構じてくれと、再三手紙が来るので、私は思案に暮れた結果、大荒沢の鉄道工手長をやっている蔵吉叔父へ旅券入手方を依頼したが、叔父とても何んとも出来ず私も落膽するばかりであったが、しかし他に方法がない私は強引に叔父に頼んだ結果、叔父は盛岡の鉄道管理局まで行き、ようやく旅券を入手し、古田氏はそのお蔭で幌内へ帰郷後半月振りで釜山航路経由でジヤライノールへ帰って来ることが出来たのであった。

 

ジヤライノールの思い出

ジヤライノールは緯度の関係上、極暑、極寒の厳しい処であった。
私がジヤライノールへ転耺したのは10月初旬の項で、その項は既に西満地方は寒気が迫って来ており、普通の服装では駄目だと聞いていたのでハルピンで、帽子、外套、靴まで準備して行った。
まづ帽子はウサギの毛がついた防寒帽、外套は内側に羊の毛皮のシコーバーと云う物、靴は羊の毛を圧縮して造った長靴であった。
気温は最底-40度、位まで降下し、川は氷結するため春の雪解けには川の水面は氷結した魚が眞白にな程浮び、馬が水を呑めない位で、又地下数mまで氷るので、混虫類は一切居らない等という話を聞いていたが、確かに気温は最底40度位まで下り、社宅の近くの小川は魚が相当数浮び上ったが、馬が水を呑めない程ではなかった。
又混虫類が生息しないということは確かで、その為釣りに使用するミミヅが生息しないので、釣にはハイルからミミヅを仕入れて来なければならなかった。
その外に春には蝶々がおらず、蛾も蝿(ハエ)も居らず、その為、花のつく作物は一切出来ないのであった。

しかしこれだけ寒気が強くとも人間の生活には一切支障がなく、雪は最高でも10cm程度、防寒具を身につければ寒くて支障を来すこともなく、又建築物は総て煉瓦積みのスチーム暖房なので眞冬でも部屋で浴衣1枚で過ごせる程であった。
夏は35度を超える日もあったが、それは数日で、後は25、6度の暑さで、本当に暑いと思われるのは、7月末から8月初めだけであった。
只、私は異様に感じたのは、7月から8月にかけて白夜※注1の現像が続くことであった。
休日には凉しくなる夕方住宅地の近くを流れる川幅約3m位の所に釣りに出かけ、暗くなったので帰へろうと思い時計を見ると午后10時を過ぎており、そして夜明けは午前1時項であった。
しかし午后10時から午前1時の夜明けまで眞暗になるのではなく、ボオーとした薄光りなのである。
これがよく聞く白夜現像であることを初めて知ったのである。

又ジヤライノールと云う所は降雨の少なく私はこの地で2年間を過したが、激しい降雨というのは一度も見たことがない。
この地の数少ない満人農家では、畠地は川の両側にしか造っておらず、その理由は降雨か少ないので、畠にやる水は川水だけで、畠に從横に溝を堀り、農夫2人が1組になり、木桶けの両側に長い綱をつけて、木桶を川にほうり込んでそれに水が入ると掛声をかけて2人が同時に調子をとって引揚け畠の溝に水を流し入れるという動作を実にたくみに行うのであった。
これを2人の満人が掛声をかけ乍ら、半日位同じ動作を続けているのであった。
しかしこうして難儀な作業を続けて造る作物は、前述のように蛾、ハエ、ミミズ、蝶々、蜂、の昆虫類がおらないので、ジャガ芋、カボチャ、瓜類の外、花の咲く作物は一切出来ないのである。
それでこれらの物は全部ハイラルから運んで来るのであった。

次は肉類や魚であるが、肉類は近くのホロンバイル草原の蒙古人の飼育している、羊肉がふんだんに入る外、牛、馬、豚、等の肉が豊富にあった。

ダライ湖に注ぐ川

しかし海魚となると、海が遠いだけに全然と云って良い程手に入らなかったが、但し川魚となると実に豊富なもので近くのホロンバイル草原の中にダライ湖と云う大きな湖があり、そこには日本人経営のダライ湖水産(株)と云う会社が四季を問わず魚を獲って各地に発送しているので、その近くに住む我々は常に新鮮な川魚が入手出来た。
その種類は鯉、鮒、ナマズ、ウグイ、その他であった。
又私達の居住している日本人住宅のすぐ近くに北方の丘陵地帶から流れてダライ湖に注ぐ川幅3m位の川にダライ湖に住む魚種と同じものが、例の春馬が川水を呑めない程、魚が浮くという言葉に近い程居るので、私は冬を除いて毎日ようにこの川釣りに夢中になったものである。
その川釣りの外に会社は一時坑外の露頭炭を採堀した、その採堀跡に溜まった水のある所が各所にあり、その跡に鯉、鮒等の大魚が住みついており、それを釣り揚げるのも、又楽しみの一つであった。

私はこの地へ来て初めてナマズを食べてみたが、このナマズは見たところ非常にグロで一寸気味が悪かったが、これは小骨のない魚で、それに油があり焼いても煮ても美味なものであった。
その項の日本内地は総てが統制され、食料品は割当で不自由な生活を余儀なくされていたが、このジヤライノールは一応内地並に統制はされていたが、実際には無統制の有様で、主食類の外、酒、煙草等は自由な外にこの地では、チヤンチユウ(高粱酒)外、ウオツカ等が制限なしで、この地に住んでいる限り、戦争は何処の國のことかと思へるほどの処であった。

パオ(ゲル)

次にこの地へ来て初めて見たものは蒙古人とその住む家(ポオ)だった。
ホロンバイル草原が近いせいもあり、蒙古人が満人街へ買物に来るのであった。
彼等の最も慾しがる物は塩と、マッチである。
しかし彼等は貨幣というものがないので、総て物々交換で、それも貨幣の換算価値を知らないので、羊一頭とマッチの徳大箱1ヶ、と交換するという話を聞いたことがある。
又服装も、厳寒期の眞冬でも、羊毛の入った上着とズボンだけで、その下には何も着ておらず、後は毛の帽子と、これも羊の毛や皮で造った長靴を履いている位のものである。
私は夏に一度この蒙古人のパオを訪問してみたことがある。
パオは羊の皮を継ぎ合わせた物を屋根と壁にし、それを木製の支柱に覆せた簡單なもので、取付け取り外しは1時間もあれば出来るものであった。
これは移動には至極簡便なものである。
部屋の中は約8帖位広さで、家具らしい物は何一つ無かったが、何の神か知らないが、神棚だけはどこのパオを覗いても、これだけは必ずあった。

蒙古人の主食は穀物類は見たことがないが、主として羊の肉のようで、又野菜類は栽培しておらないので、野菜の代りにお茶を多く呑んでいるようであった。

次にこの地方の野性の獣類ではノロという日本の鹿と全く同じで但し角(ツノ)はなく、これは興安嶺の山岳附近に多く生息しており、これの毛皮は防寒衣類として使用されていた。
この外に、この草原には狼が郡れをなして生息しており、私は会社の事務幹部と知り合いになり、この人の指導で会社のトラックで草原の狼狩りを暫々やったものであるが、私はそれ以来猟銃の使用を覚えた位である。
次に変ったところでは、私はこの地で駱駝を見たことである。

ラクダ

私はそれまで駱駝は熱帶地方に住み、背中の瘤(コブ)は2つあるものとばかり思っていたが、この地で見た駱駝は瘤が1つ※注3であった。

ラクダの群れ

 

※注1:白夜は北極圏(北緯66.6度以北)や南極圏(南緯66.6度以南)で見られる現象で、ジャライノールは北緯49度付近なので白夜はありません。ジャライノール(および満州里)の最も遅い日没は夏至付近の20時20分頃、最も早い日出は同じく夏至付近の4時00分頃です(※注2)。日没後、日出前の薄明と呼ばれる時間帯が長いと白夜のように感じるのかもしれません。

※注2:満州里における平均的な気候

※注3:ヒトコブラクダは西アジア、アラビア半島、北アフリカなどで飼育されており、フタコブラクダは中央アジア、中国などで飼育されているというのが事実ですので、満州にいたラクダはフタコブラクダであると推測されます。

 

満洲里の街

満州里駅

私は渡満前から良く満洲里(マンチユウリ)と云う言葉を聞いていたので、一度この満洲里へ行ってみた。
話に聞くようにまづ満洲里の駅のホームは、ソ連側から来る列車がホームの片側に到着すると、その反対側にハルピン発の満鉄の列車が、ホームを狹んで到着するようになっていた。

街は北側に小高に山が迫って来ており、後は3方共草原の平野で、駅前は北方と、東方に向けて幅広い道路が走って、その両側は、商店が立ち並び、この辺避な地方では一寸した賑やかさを感ずる所であった。
住居は、日、満、白系露の3ヶ所に別かれて建物も、それに応じた建築様式で珍らしい街の形ちをし、山手には日本軍の兵舎が立ち並んでいた。
私はこの商店街を歩いてみると、値段は少々高いが家具類から、食糧品が実に豊富に並べられていた。
又街で出会う人も5人に1人は白系露人で、革命時には、國を追われた人々が、この満洲里へ逃れて如何に多数住みついたかが判るようであった。

 

※注:画像出典「猛虎過江 満鉄・あじあ號で満洲~西伯利亜~巴里へ旅行!」満州里駅

※参考画像:現在の満州里駅(写真出典:Wikipedia 満州里駅

 

水林重一氏の事故死

私がこのジヤライノールへ来て2年少々を過ぎた昭和20年7月、即ちソ連参戦の1ヶ月前、水林重一氏が突然事故死をしたことである。
その日は霊泉採炭所の耺場に向う為、日本人住宅のすぐ近くの会社事務所前から出る、通勤用トラックに同僚10数名と共に乘車し、耺場へ向ったそのトラックが道路側溝に車輪を落し、そのためトラックが横転したため乘車していた通勤者がトラック外に投げ出され打撲傷を負ったが、水林氏1人だけは横転したトラックの下敷きとなって即死をしたのであった。

その日、私は日勤で耺場に居たが、知らせを受けて水林氏宅に馳けつけたてみると、家族一同、死者の枕元に集まり豪泣している様を見て、私は思わず貰い泣きをしてしまった。
遠い日本内地の北海道より希望にもえて一家揃って、この避地まで来て一家の柱とも頼む人に亡くなられた、その心中は如何ばかりのものだったろうか。
間もなく仂き手を失った水林家では会社側も同情してくれ、ツナさんが炭砿病院の掃除婦として採用してくれたのであった。
それで水林一家は、今後の成り行きについては、どうなるのか判らないが一応生活の目途は立った訳けであった。

 

伊藤明治氏召集となる

沖縄戦

その項の日本は戦局益々不利となり、アメリカ軍は沖縄を攻撃し始め、東京は空襲にさらされ、いた。
ここ満洲では沖縄戦が可烈になるに從い、その防備に、在満関東軍全部を、この沖縄戦に投入したのであった。
それでその補充として在満居住の民間日本人に対して最后の根こそぎ召集を行ったのであった。
その為、満洲各地の開拓団の男子、等は老人男性を残すのみとなった程であったが、それでも尚不足で、その余波は炭砿、製鉄の重要産業者にまで及び、このジヤライノール炭砿からも10数人の応召者があり、その中に伊藤明治氏も入ったのであった。

それでこの伊藤家も水林家同様、一家の柱を失い会社では伊藤氏の妹(22才)を炭砿病院事務員に採用してくれた。

これは後日談であるが、召集を受けた伊藤氏は入隊後間もなく沖縄戦に参加し、戦死をとげたのであった。
昭和19年初め項からボツボツと在満日本人に対して召集が来ており、その項から私達の耺場である、採炭所の砿務所では、昼食の休憩時間に男子全員が戸外で竹槍訓練を受けるようになっており、その時間に広い砿務所の中に竹槍訓練に参加せず残っているのは私だけであった。
それは私に兵籍が無いからである。
それで私は余り恰好が悪いので、このジヤライノール警察兵事部の係官を通じて本籍地の三笠町役場の兵事係へ照会してもらうと、該当者無しの返事が来るだけであった。
結局私は本籍地の役場でも兵籍がないのであった。
それで考へてみると私は旭川師団を即日帰郷となりその後兵役を免除すると通知があったことを思い出した。
人間何処でも得をするか判らないものである。

 

※注:写真出典「毎日新聞「写真特集 沖縄戦」」銃を構えた兵士と共にほふく前進する米軍の映画カメラマン

 

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