扎賚諾爾炭砿(2) ~満州編3-2~

扎賚諾爾 15. 転職:扎賚諾爾炭砿
ジャライノール
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札來諾爾炭砿(株)社員となる

※注:ジャライノールは正しくは「扎賚諾爾」です。)

私達2人は教えられた1本道の道路をテクテク歩いて来ると、ようやく炭砿地区に入った。
この辺りは会社関係の建物から学校、病院、配給所、耺員住宅等、日本人だけの居住地域であった。
その中に極めて大きな建物があるので、その玄関前の看板を見ると札來諾爾炭砿株式会社と書いてあったので中へ入って行き受付けに名前を申出ると直ちに総務課へ案内され、そこで総務課長と面会した。

私達2人の事は既に伊藤氏より会社の方へ連絡があったと見え、総務課長は今日は所長が新京へ出張しているとのことで、既に準備してあったとみえで私達に辞令書及社員バッチを手渡してくれた。

辞令には札來諾爾炭砿株式会社社員を命じ月俸85円を給すとあった。
古田氏の月俸は65円であった。
この外に吉林人石同様、在満手当、避地手当、入坑手当、等が入り私の場合の総収入は98円※注1であった。
尚バッチは左図※注:当ブログでは下図)のような鶴嘴(ツルハシ)の模様であった。

ジャライノール炭鉱バッジ

ジャライノール炭鉱バッジ

当時満洲には満洲炭砿株式会社という、満洲きっての大炭砿があり、この中には密山、東辺道、その他各地に砿業所を10数ヶ所を持っており、これを称して満炭と云う略稱で呼ばれ、このジヤライノール炭砿も、その一員であったが、独立をし札來諾爾炭となっているが、バッチは満炭と同様のものであった。

一応手続き一切を終り、事務員の案内で近くの耺員住宅の近くに有る耺員寮に行くと私達の夜具類の荷物は既に運ばれて来ており、私と古田氏は1階6帖の一室に入居することになった。
この耺員寮は二階建てで部屋数20室位ある清潔な建物で、私達はここで初めてジヤライノール着任の昼食を階下の食堂で食べたのであった。

昼食後私は幌内外各所へジヤライノール到着の書状書きを済せ、夕食後、2人で伊藤明治氏宅へ挨拶とお礼を兼ねて参上した。
伊藤氏の両親は前述のように顔馴染みであるので、此の異郷の地での再開を非常に喜んでくれた。
後は伊藤氏のお嫁さんと生後1年足らずの男の子、それに伊藤氏の妹とは初対面である。
暫く振りで会った同郷の者だけに話がはずんでいる内に幌内から水林さん家族が、やはり伊藤氏の世話でこの炭砿に入社し、住宅もすぐ近くであることを知り、私は驚いたが、何故水林さん家族が第二の故郷ともある幌内を棄ててこの避地まで来たのだろうかと思いつつ夜も更けたので、その日は、それだけで伊藤氏宅を辞居して寮へ帰った。

 

※注:写真出典「4travel.jp 中国内蒙古満洲里郊外ジャライノールで蒸気機関車撮影

※注1:1943年(昭和18年)の98円は、現在の価値に換算すると62,000円くらいです。(※注2

※注2:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

第一採炭所勤務となる

翌日私達の勤務先である第一採炭所へ2人で定刻に出勤した。
このジヤライノール炭砿には採炭所が2ヶ所あり、第一採炭所と霊泉(レイセン)採炭所とがあり、第一採炭所は住宅地区から僅か1km足らずの処に在ったが霊泉採炭所は4km程離れた所にあるので、通勤はトラックを使用していた。
さて私の勤務先の第一採炭所は坑口が3ヶ所あり、私は一坑、古田氏は三坑となった。
この採炭所の耺務機構は、所長、係長、主任となっており、私は主任の席が空いておらないので暫く現場担当ということになり、渡満以後初めて現場担当の係員の仕事に就いた。
作業員は満人苦力(クリー)※注3で、この人達は、満人頭目(パウト)と云われる請負人の使用者で、その苦力を直接作業指示をするのが、これも又満人係員であるので、私が直接苦力(クリー)を動かすことはなく、総て私と満人係員との話会いであり、その満人係員は片語乍ら日本語を使えので、私はここでは満語を知らなくても済んだのである。
ここでも勤務は12時間の昼夜別の交替であった。
坑内は非常に浅く坑口より5、600m位の深度であるため、坑内を見て廻るのに1時間もあれば充分で後は坑内から出て来て坑口にある3坪位の小さな詰所で、寝ているのが関の山で、坑内に事故さへなければこの位楽な仕事はなかった。

 

※注3:苦力は「クーリー」と読み、19世紀から20世紀初頭にかけての、中国人・インド人を中心とするアジア系の移民、もしくは出稼ぎの労働者のことです。(Wikipedia 苦力

 

水林家訪問

第1日目の仕事を終え帰寮し夕食を済せた後に古田氏と水林家を訪問した。
水林老夫婦のことは前述した通りで、ツナさんは私が幌内選炭工場で世話になった当時とは少しも変らず、元気な姿をして私達との再会に非常に喜んでくれた。
私が水林さん一家と会うのは5、6年振りである。
当時はツナさんはまだ選炭工場に務め、清右門さんは砿員住宅共同浴場の管理人で、娘の八重さんにツナさんの実家である秋田の縁籍から重一さんという婿さんを迎へ、その重一さんは幌内炭砿の大工さんの耺に就いていた項であった。
それが今回再会すると5才と3才位の女の子2人が増えて6人家族になっていた。
娘の八重さんは八等身の美人でツナさん自慢の種で又性格は母親と違い温和なつつましい人で、あった。
それに対する婿の重一さんも口数の少ない男としては控え方の以合いの若夫婦であったことを私は記憶している。
重一さんはこのジヤライノールでは霊泉採炭所の坑外耺員の耺に就いていた。

暫く振りで見た水林一家は本当に幸福そのものと云った様子であった。

ツナさんは幌内では最も古株の方で、体格はデップリと太って眼が大きく、活発な性格と多辨な人で幌内でもツナさんで名が通り、会社幹部連に取り入って、その人達とも交際があったので、幌内では或る程度自由の利く人であったにも拘らず、何故この異郷の避地まで家族揃って来たのであろうかと私は不思議に思った程であった。
ツナさんの考へでは娘婿の重一さんが、砿員の身分ではなく、最愛の1娘である八重さんのためにも耺員といわれたい為のものではなかったろうかと思うのである。

 

岩見沢出身の小久保氏との出合い

昭和炭鉱

炭鉱住宅

私はこの第一採炭所勤務となって1ヶ月程経った項、この採炭所の測量係としている小久保という人と知り合いになった。
小久保氏は私より2才程年下の26才位であったが、まだ独身で、岩見沢出身ということであった。
親は岩見沢川向い(当時の岩見沢遊廓のあった処)で鉄工場を経営しているその家の次男坊で旧制中学を出ると共に私同様満洲鉄道(満鉄)技術員養成所を卆業し、このジヤライノール炭砿に入社したそうであるが、養成所で中國語を習い満語はペラペラの方であった。
それにロシヤ語も多少話せる方で仲々多辨な人見知りのしない性格であった。
それが私が同じ北海道で、しかも岩見沢に近い幌内であるということから親しくなり、同じ耺員寮に居ることもあってすっかり意気投合したのであった。
この小久保氏が、第一採炭所にお茶汲み給仕として使用していたマーニヤという白系露人の18才位の娘と親しくなっていた。
マーニヤは白系露人特有の色白なスラリとした長身にお下げ髪をして顔は少々そばかすがある美人であった。
そのマーニヤが私と小久保氏が友人であることを知って一度私を小久保氏と共に彼の女の家へ招待をしてくれたことがあった。
それで彼の女の招待に応じて家を訪問したことがあるが、家は満人家屋の内部をロシヤ式に改造した小奇麗な部屋で、家族は50才を過ぎたと思われる小柄な親しみ易い顔付きの母親との2人暮しであったが、その日はロシヤ式の料理を初めて馳走になった。

この地方いわゆるジヤライノールから満洲里にかけて白系露人の多い所であった。
それはロシヤ革命の際、國を逃れ國境に近い、こうした処に住んでいるいる為であった。
私の見るところでは、小久保氏とマーニヤの間柄は相思相愛であり、後日の日ソ開戦がなければ恐らくは小久保氏とマーニヤはこの地で結ばれていたと違いないと思われた。

これは後日談であるが、私と小久保氏とは満洲引揚の際は別行動をとっていた為、その後小久保氏の消息を知ることが出来ず、私は小久保氏のことはすっかり忘れていた。

それが、私は引揚後羽幌炭砿に就耺し、昭和38項山元本社の保安係長で火薬類の方も担当していた。
その項火薬製造会社としては日本窒素、旭化成、日本化薬の3社があり、羽幌炭砿はこの3社共に取引関係にあり、隨って私は、この3社の営業関係には名前が知られていた。
その関係もあって、この三社の営業課員に移動があれば必ず私の処へも挨拶に来たものであった。
ところが、その項の或る日、突然小久保氏が日本化薬の営業課長の名刺を持って私の処に現れたのであった。

約8年振りに会った小久保氏は、すっから営業課長の貫録を身につけており、その日は会社クラブへ私が接待に出て、引揚後のお互いの変化について語り合ったのであった。
小久保氏は私より数週間遅れて実家の岩見沢に引揚げて来て、岩見沢に在る日本化薬の製造工場の工員として就耺したが、その後上司に認められ、札幌営業所の営業耺員となり、今回課長に昇進したとのことであった。
その当時私は年に4、5回は札幌出張があり、その都度、宿泊は日本化薬のクラブで、夜は小久保氏の接待で札幌の夜の街を呑み歩いたものである。

 

※注:写真出典「北海道生産性本部」往時の昭和炭鉱住宅・商店街

 

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コメント

  1. nabesan より:

    こんばんは。

    毎日楽しみに読んでいます。最近昭和史に若干の興味があるんですよ。

    ところで、本日19時30分の人気ブログランキングによると、このブログに私のブログが抜かれてしまいました。私の方の順位低迷が続き、フクヲさんの方の順位が上昇してすれ違ったということでしょう。卆寿パワー恐るべし。まあ、このブログはもっと大勢の人の閲覧があってもよさそうです。

    マメコさんの明るい春も間近なようですね。ご自愛を。

  2. マメコ より:

    ☆なべさんへ

    いつもブログを読んでいただきありがとうございます。
    ちなみに22時30分現在順位は再逆転されてしまいました
    まあ、毎日ほぼ一桁の訪問者数ですので順位は期待していませんが
    でもなべさんのような数少ない固定読者の方がいらっしゃるだけでもありがたいです。
    これからもよろしくお願いいたします

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