幼少期(1) ~東北編1-1~

03. 幼少期~東北/秋田・岩手・山形~
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大荒沢での生活

私の出生地は謄本によれば、秋田県鹿角郡湯田村字滝ノ間八森※注1となっているので、母の実家がある八森の生れであったらしい。
しかし八森での記憶は何一つとしてない。
おそらくは八森で出生すると共に、すぐ大荒沢※注2へ移ったからであろうと思われる。

しかしその大荒沢での記憶も余りない。
その項父は前述のように菓子製造業をやっており、私は1才より5才になるまで大荒沢で育ったことになる。
そして私が5才の項には兄が10才、姉が7才で、その外にこの大荒沢で妹千代が出生し2才になっていた。
私が5才になるまで、この大荒沢の生活が続いたのであるが、私の記憶に残っているものは、家は朝から晩まで絶えず人の出入りが激しく、終日ガヤガヤと騒々しかったことと、耺人さんの肩車で冬の寒い夜、この村の青年団が主催する火祭りの行事を見に連れて行ってもらった位のものである。
母の話では余り身体が丈夫な方ではなく、一日中ピーピー泣声ばかりあげて母を困らせたものだということである。
それは私の左却の太股外側に今でも残る、幅2cm長さ10cm位の傷痕がある。
これは原因は知らないが、母の話では太股に出来た腫瘍を切開手術をしたが、それが完治するまでに相当期間を要した為、それで私はすっかり泣虫小僧になったらしい。
とにかく1日中泣き声をあげているため、耺人さん始め女中さんまで私を敬遠して誰れも相手にしてくれなかったということである。

 

※注1:旧八森村は鹿角郡ではなく山本郡にありました。1954年(昭和29年)に岩舘村と合併して八森町となり、さらに2006年(平成18年)に峰浜村と合併して八峰町になりました。現在、秋田県山本郡八峰町八森滝ノ間という地名があるので、おそらくこの地を指しているものと思われます。
なお、鹿角郡には湯田村という地名はありません。似たような地名では大湯村というのがあります。
湯田村は岩手県西和賀郡(現和賀郡)にあった地名で、フクヲの本籍が湯田村なので、混同したのかもしれません。(ブログ記事参照↓)

※注2:大荒沢は現在の岩手県和賀郡西和賀町にかつてあった地名で、昭和39年竣工の湯田ダムの底に沈みました。

 

五十川の思い出

やがて私が5才になった春4月、我が家は大荒沢よりこの五十川※注3という所へ移住したのであった。
その項には私の太股の傷もすっかり癒えて悪たれ坊主と化していたようである。
まづこの地は、山形県鶴岡市に近い日本海に面した漁村であった。
現在は海に沿って羽越本線が走っているが、当時は、まだ鉄道が完成しておらず、この鉄道布設の為の工事中で、父はこの鉄道のトンネル工事の堀さく夫として菓子屋から180度の転換をしたのであった。
しかし父は初めての経験であるため賃金も安かっとみえて、母もこの地の土本作業の日雇いとして仂き出したのであった。
これからが母の肉体労仂を始めるようになった初体験でもあると云へよう。

この五十川(何故かこれをイスズガワという)※注3の地形は南が海に面して後は平地と山ばかりで、人口は3千足らずのものではなかったろうかと思う。
この海で獲れるのは主としてイワシであったが、その外、量こそ少ないがいろいろな種類の魚の外に貝類も豊富で私達はこの地へ来てイワシの外にサメの果てからタイ、カツオ、サバ、マグロ、カスベ、の外に貝類ではサザエ、ホッキ、ツブ、その他名前は忘れたが、貝類の殆んとを、ここで食べることが出来た。

又私達が住んた家は、この鉄道工事のために建てたものとみえて、6帖2間だけの5戸続きが6棟ありこれが総てバラツク式のものであった。
そしてその裏が川続きの砂丘で子供にとっては格好な遊び場であった。

五十川

ここへ来てからは、兄と姉が街の小学校へ通い、母は毎日仕事に出るので、結局家には私と妹千代だけで、2人で家の裏の砂丘へ行っては姉が学校より帰って来るまで、私が妹の遊び相手になって留守番をしていたものである。

私達がこの五十川へ来たのは4月の末近くで私はすっかり健康体となり思う存分水遊びと砂遊びで1日中家の中に居ることはなかったものである。
又私達が来た4~6月まではイワシの最盛期で地引綱を引いた綱の中にはイワシが隨分と入っていたものである。
その綱揚が毎日午后から行われ、綱揚げが始まると、私共の入っている假住宅まで知らせが来るのであった。
そうすると学校から帰ったばかりの兄、姉、私と千代は姉が背負ってバケツ1個を持って浜に馳けつけるのであった。

浜では漁師の人達が我々が倒着するまでの間に、船から揚げた綱を砂浜へ広げて待っていた。
綱の中には綱目に頭を突っ込んでエラを引掛けているイワシの外に種類の異なった魚も入っており、私達はまづ、イワシ以外のサバ、カスベ、カニ等を取除いてから、イワシの綱外しをやるのであった。
これが夕方まで次から次へ各綱毎に続けられ、終ると漁師の人達は私達にイワシ以外の雑魚を持参のバケツに一杯入れてくれたのを私と兄が、バケツの取手に棒を挿し込んで2人で、それをかついで家に持ち帰ったものである。
これが6月1杯まで続き持ち帰った魚を母が開きにしたり、頭だけを取り除いて干魚にしたりして隨分と喰べたものである。
お蔭で五十川へ来てから、サメの味噌煮やカスベの酢の物、その他いろいらな種類の違った魚を隨分と喰べれたのであった。
それで私はお蔭で魚の名前を或る程度覚えることが出来た。
このイワシ漁が6月一杯で終った後、今度は釣りであった兄は学校から帰へると私を連れて父が作業をしているトンネル工事現場近くの岩浜へ行くのであった。
此処はイワシの綱揚げをする砂浜と正反対の北方に切り立った岩が海面から空へ向って突出している場所で、この岩場に足場を確保して釣りをするのであるが、釣りの主体はタイの一種である魚体に從縞の入っているシマダイという体長20~30cm程のものが釣れるのであった。

しかし、その釣場へ行くのには、釣竿に紐をつけて斜めに背につけ、魚の入れ物は腰につけ海を背にして岩に張り付くカニの横這いのような格好をして行かねばならないので、私にはそれが出来ないので何時も釣場の手前の岩場のくぼみの出来た所に海が荒れた時に波に打ち揚げられて入った4、5cmの小魚取りやカニ取りをやって兄の釣りが終るのを待ったものである。

五十川

兄は又釣りに飽きると今度は泳ぎである。
こうして釣りと泳ぎは秋10月まで続き、それで兄はこの地で泳ぎと釣りをすっかり身につけ、以来北海道へ来てからもこれだけは人に教えてやる位の腕前になっていた程であった。

此の五十川には春から秋までの約6ヶ月間、それも寒い冬を除いた丁度良い時期にも惠まれ、海浜生活を十分楽しめたものである。
それから間もなく10月の末になり、そろそろ冬の訪れが近くなった項、この五十川のトンネル工事が完了し、父は今度羽後岩谷という所の又トンネル工事の堀さく夫として移住することになったのであった。

 

※注3:五十川は「いすずがわ」ではなく「いらがわ」と読みます。旧地名は山形県西田川郡温海村五十川(旧五十川村)で、その後の市町村合併で現在は山形県鶴岡市となっています。

※参考画像:以下は現在の五十川河口の地図です。

(↑画像クリックでGoogleマップが開きます。)

 

羽後岩谷の思い出

羽後岩谷

父の作業場は同じ日本海続きの秋田県羽後岩谷※注4という所であった。
今度は海から相当離れた所の農村であった。
父の作業所はこの岩谷から約4km程離れ羽越本線のトンネル堀さく作業であった。
此処には五十川のように工事関係者が入居出来る假住宅もなく、住居は自分で探さなければならなかった。

それで父は取敢ず農家のAさん※注5宅の一室を借りることにし、私共家族6人は、そこへ入居した。

羽後岩谷

Aさん宅は、この村の農家としては大きな方で、この家の家族は二世帶の10人の家族であった。
私達はこの家の客間八帖を借りたのであった。

この岩谷※注6という村を大別すれば、南北に山を背負い東、西は平地の水田地帶で、西の平地の果てに日本海があった。
そして南北の山と山の中間の平地は総て水田地帶で、この水田の眞中を巨離約4Kの村道によって村と街が結ばれていた。

又北側に鉄道が通っていたが、秋田から来る列車はこの岩谷までで、それから先は目下、トンネル工事等の為に運行されておらなかった。
そしてこの岩谷駅附近が市街地区域で、学校、役場、商店等が立ち並んでいた。
次に南側は農家ばかりで店も小さな個人商店が4、5軒あると云った程度の準農村で人口は南北併せても3千足らずの處であった。
私はAさん宅へ入居した翌日、この村を1人で見て歩いたが、共通していることは何れの家も萱ぶき屋根の古い建物と、庭先には柿、梨、栗の木があることであった。
その外に見慣れない果物を発見し後で聞いてみみるとこれがザクロ、イチヂク、グミであることを知ったのである。
これらは私がこの岩谷へ来て始めて知った果実であった。
それ程この村は多種、多様な果物のある処で、私はこの村を離れた以後はザクロ、イチヂクには二度とお目にかかったことはない。

私こうして1日中、村の各所を見て歩いて帰った日の夕方思いがけなくも、この家の奥さんが、手籠一杯見事な梨の実を持って来てくれのには思わず感激したものである。
その内に10月も暮れ11月に入った或る日、私は朝起きると夜中に雪が降ったとみえて外が何時もより明るいので、寝巻のまま外へ出て見ると約10cm位降り積った雪の各所に小さな穴が無数にあるので近寄って、その穴に指先を入れてみると中から飴玉大の眞赤に熟した実が出て来たのでそれを口に入れると、トロリとした甘い味の物であった。
これも後で知ったことであるが、豆柿という柿の一種であることを知ったのであるが、以後この岩谷を離れてから、この豆柿を見たことがないが、現在でもこの岩谷に豆柿があるのだろうかと時々思うことがある。
父はこの岩谷で、ここから約2K程西へ行った村外れに工事中のトンネル堀さくの作業に從事するようになり、毎日徒歩で工事現場通いを続けたが、母も又五十川同様、今度は土木作業の日雇いではなく、村に4、5軒ある雑貨店の商品である米、味噌、正油の外にいろいろな雑貨類を大八車と稱する荷車に積込んで、4K離れた市街から、この村まで運搬する仕事に就いたのであった。

この大八車というのは車輪が現在のようにタイヤではなく、木製の大きなもので、それと道路は砂利道であるため、この車に荷を積んで人力だけで引くには相当力を要したものである。
それを母は女でありながら4Kの道を1日4往復する重労仂にたえたものである。
又この道路は水田の中の一本道で、道路両側には木立ちもなく吹きさらしで特に夏の暑い日、風雪の強い日は、この仕事は苛酷なもので、私は子供心にも、それを考へると、安閑としておられぬ気持に狩り立てられ、母の帰り時間を見計っては直線道路の端に立ち続け、遙か彼方を凝視し、母の姿を見つけるや否や、飛ぶようにして荷車の後押し応援にかけつけたものである。
それから私達一家はこのAさん宅には10月末から翌年の春まで5ヶ月ほど危介になり、雪も消えた3月中旬、村の中央近くに農家の空家が出来たので、そこへ引越をしたのであった。

羽後岩谷

引越をしたこの家は屋根が萱ぶきの木造建築で家の中の構造は正面入口より入ると、広い土間になっており、その左寄りに堀抜き井戸があった。
そして正面に炊事場と、浴室、トイレがあり、土間右側が一段高くなって八帖が2間あり広々とした感じのする家であった。

家のすぐ前は幅23m位の水の奇麗な小川か流れており、それと平行に村道が東西に走っていて道路向い側に農家が二軒、そして家の左右は杦の木立ちで家から50m位離れて農家が各一戸あり、家の後は山であった。
このように閑静な処で日が暮れて暗くなると人通りも絶えて深閑となる農村の一軒家といった感じのする所であった。

又家の前を流れている小川にはメダカが郡れをなして泳いでおり、そして小川の両側の草の茂みには夏になると無数のホタルが飛び交っていたものである。
又夏は土間の堀り抜き井戸の水量が減って来るので、浴槽を玄関側の小川の側に据えて、小川から水を汲み上げて風呂を沸すのであったが、人通りの絶えた夏の夜、ホタルの供宴を見乍ら入浴するのも又、こうした所でなければ出来ないことであった。

その外、夜は蚊が出るので、蚊蜄(カヤ)を吊って寝るのであるが、その蚊蜄の中にホタル10数匹入れてピカピカ光るそのホタルを見て寝たものである。

羽後岩谷

 

※注4:以下は羽後岩谷駅の位置を示した地図です。挿絵の縮尺とはだいぶ違います(^^;

(↑画像クリックでGoogleマップが開きます。)

※注5:文中の「Aさん」は原著でも「Aさん」となっています。(管理人による伏字ではありません。)

※注6:秋田県由利郡岩谷村(現由利本荘市

※参考画像:挿絵では「小川」という川が描かれていますが、「芋川」のことと思われます。

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