幼少期(2) ~東北編1-2~

03. 幼少期~東北/秋田・岩手・山形~
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ナカヨ叔母来る

私達家族がこの家に引越しをしたその年の秋、我が家に突然3人の来客があった。
それは杦山という40才位の夫婦2人と今井竜藏という25才位の青年の3人であった。
杦山夫婦は父が大荒沢で菓子製造業をやっていた当時の耺人さんで、後の1人は今井という人で父とどのような関係かは知らない。
この3人は父を慕って来たらしいようで、父は3人と私達が住む村道向い側の農家の部屋を二間を借りて入居させ、杦山夫婦は自炊することになったが、今井さんは我が家で食事をすることになった。
そして仕事は父が仂くトンネル工事の耺に就いた。
杦山さんという人は小柄な人で、奥さんは杦山さんとは正反対の大柄な人であった。
又今井さんは軍隊で野砲兵であったというだけに体格の良い坊主頭のキビキビとした態度の人であった。
今井さんは家で食事をするようになってからは、母はこの人の為に又仕事量が増えて荷物の運搬作業と両立は困難である点から、母は八森からナカヨ叔母を呼ぶことにして八森へ手紙を出した数日後、このナカヨ叔母が我が家へ現われた。
このナヨ叔母なる人を、私はその時初めて見たが、身長は余り大きくなく、小太りのした肉付の良い色の白い人で顔は目が大きく話好きな愛嬌のある人であった。
これで母はナカヨ叔母に炊事一切を委せて、荷物運搬の仕事に專念出来るようになった。
その項ナカヨ叔母の年令は20才位の若さであった。

こうして人数も増えて、毎日夫々の仕事についていた翌年の春3月に入っから母は八森に住む、両親の許可を得て今井氏とナカヨ叔母を結婚させ、叔母は今井氏と同居し、家の炊事は又元へ戻って母と姉とがやるようになったが叔母は2人だけの生活で今井氏が仕事に出た後は暇になるので始終家へ来て、母が仂きに出た後の家の始末をしてくれるので母は大変喜び、これで八森から呼び寄せた効いがあったと喜んだものである。

 

私の小学校入学

私はこの岩谷へ来た翌年の大正10年3月※注1に岩谷村小学校※注21年生として学校へ通うことになった。
これで我が家は兄、姉、私の3人が学校通いて家には妹千代と、この岩谷へ来て間もなく妹ハナが出生したのでこの2人が家の留守番役であったが、叔母が毎日我が家へ来てこの2人の面倒をみてくれるので母は安心して仕事が出来たのであった。

さて私の小学校であるが、学校は前述のように村から4キロも離れた街にあるので、私は雨の日も風の日も兄と姉に着き添われて通学したものである。
学校はその当時3年生位までノートに代る石板(セキバン)と、石筆(セキヒツ)というものを使用したものである。
この石板というのは石を薄くし25×35cm厚さ0.5m/m位に切って、額渕のように週りを木で囲んだ物であって、重さも1kgに近いものであった。

石板と石筆

 

石板の石は黒色で石筆というのは煙草の太さの約半分位で、長さは丁度煙草1本分の長さのものであった。
この石筆で石板に書いて、それを消すのは布をコンブ巻状にしたもので、黒色の石板に石筆で書いはこのコンブ巻で消して使用したものである。
ところがこの石板なる物は時に依っては上から地面に落したり、又何か固い物を石板面に打ち当てると、割れたりすることがある。
それと重量があるので、通学の時は、これを風呂敷に包んで斜めに背中に背負って通学したもので、全く現在からみると、不便この上ないものであった。

又通学で最も困難なのは、冬の吹雪の日等であった。
通学の4キロの直線道路は、道路両側に何も遮閉物のない水田の平地であるため、私達1年生の子供は強風の中一歩も進めないことがある。
そうすると兄は私に腰縄をつけて、私が風に持って行かれないよう、縄の一端を握って歩いたものである。
私はこの岩谷村小学校へ二年生の春まで通学したが、その間学校の思い出というのは余りない。
只雑然として覚えているは一年生の時の受持ちは、桃井先生という40才近い長身のキリリと引締まった顔に当時ハイカラ頭といわれた帽子を覆ったような大きな髪形ちをし、矢がすり模様の着物に袴(ハカマ)をはいた人で、この先生が二年生まで持ち上りになったが授業には厳しかったことと、何故か私達生徒に自習をさせ、自分の机前の椅子にかけて、始終居眠りをしている先生の姿だけである。
その影響かお蔭で私の一年生当時成績は余り香んばしいものではなかったことを記憶している。

 

※注1:フクヲは大正5年11月生まれなので、大正10年3月の時点では満4歳です。当時の尋常小学校の入学時の年齢は現在の小学校と同じ満6歳なので、小学校入学は大正12年4月であったと思われます。

※注2:「岩谷村小学校」は現在の「由利本荘市立岩谷小学校」であると思われます。

 

岩谷村春の思い出

私達一家は、この岩谷村※注3へ来たのは10月末の秋のことで、この地で一冬を過した後に、初めての春を迎えた。
この地方は日本海に面し乍ら割合気候温暖な所で、それだけに忘れることの出来ない思い出の数々が残った所でもあった。
前述のようにこの村の各家庭の庭に必ず手植えの果樹5、6本がある処であった。
それが4月から5月にかけて次から次へと咲き出すのであった。
その種類は桜、梅、桃、杏、梨、柿等で、又この地方は、この項朝霞(アサカスミ)が立ち込める所で、その項は天候も安定して降雨も少なく、風のない日は朝村全体が霞に包まれ、その中に満開の桜、梅、桃等の花が浮び上り、花と霞が一体となって夜が白々と明けていく、この風景は子供である私の心に深く刻み込まれて、今でも忘れることがない春風駘蕩(シュンプータイトウ)という言葉通りであると感じたものであった。
私共悪童連はこの項、母につくつてもらった握り飯と水筒を腰につけ、まだ明け切らない山道を昇るのであった。
行く先は山道の頂上を目指してである。
そしてこの山道の中間辺りまで来た項に夜は白々と明けて来る。
山道の途中に腰を下し今昇って来た下界を見下ろせば、村は霞に包まれ、その霞が除々に薄れてくるその中に満開の梅、桜、杏の花が僅かに顔を出し初め、村はようやく眠りから醒め初めたようで、家の中から外へ飛び出して来た子供や犬、鶏の声が霞の中から沸き上ってくる状形は夢幻の世界へ迷い込んだような察覚を覚えたものである。
やがて我々一行が頂上へ着いた項には陽も昇りすっかり明け切った峠の頂上から遙か東方の海上を見渡せば、紺碧の海上に漁(スナドリ)をしている魚船が白帆を上げたままの悠々たる2、3隻の船が見えるのであった。
そうした風景は全く一幅の日本画を見ているようであった。
そしてこの峠の頂上は今グミの白い花が満開で一面に咲き乱れていた。
又この頂上の岩山にポッカリ口を開いた洞窟があって中は畳5、6帖敷けるだけの広さがあり、この洞窟には昔平家の落人が隠れ住んでいたという伝説があるが、我々子供達は気味悪さで、この洞窟の中には入ったことはない。

一日中春の陽気を浴びた私共は、昼ともなり持参の辨当を拡げ、それが終ると、洞窟前の広場で陣取りや輪投げ遊びをし、やっと夕暮れに気付いて峠を下り出したものである。

 

※注3:秋田県由利郡岩谷村(現由利本荘市

(↑画像クリックでGoogleマップが開きます。)

 

岩谷夏の思い出

春の季節もやがて終り次はまた悪童連の跳梁する夏がやってくるのであった。
夏が来るとまづ水遊びである。
前図のように村の東南に村の共有である貯水池があり、この貯水池から水田中央を貫流し西方へ向かって川が流れている。
この川は幅5m位で水深は平均1.20m位なので我々子供達にとっては格好の遊び場であった。
この川には鯉、鮒、ナマズ、小エビ、ドジョウ、川ガニ等がをり、これ等を獲るために手綱、ザル等を持って川岸の水草の中、岸辺の粘土層の穴の中等を探ぐほって獲るのであるが、これらの魚すくいに飽きると次は泳ぎである。
こうして1日中川遊びの出来る所であった。
次に今度は貯水池である。
この貯水池は村の共同管理で、水田に水を引くために設けたもので、相当の広さと大きさのある貯水池であった。
貯水池には水が満々としており、水深があるため水は眞青に澄み切って、その湖面と此方の岸より向う岸まで青大将が鎌首を上げて音も無く渡る姿を再三見ることもあった。
又この池の岸近くの水面にヒシという蔓草(ツルクサ)が繁茂していて、その蔓草の先に5角形のような形ちをした実が附いているのであった。
これを私達は長めの木の枝を折り取って、その枝で、この蔓草を引っかけ手許まで引き寄せ、その実を取ってこれを家へ持ち帰り、これをうでてもらうと、その味は丁度栗と同じ味のポクポクしたものであった。

この貯水池は切り立った両岸の手前を堰(セキ)にして造っただけに相当に深いもので、何時も青々とした水が湛(タタ)えられ、この池には河童(カッパ)が住んでいるという、この村だけの伝説もある位の昔乍らの古池で、何時も満々と水がたたえられ湖面にさざ波が立っている池であった。
それで我々悪童連中も気味悪がり、この貯水では泳ぐものはおらなかった。

 

岩谷の秋の思い出

1日中水遊びで過した夏も終ると今度は収穫の秋である。
まづ我々子供にとって嬉しいことは野山の何処へ行っても口に入いる物があるということで、まづ手近なところでは家の周囲、その外に山にはアケビ、グミ、クワの実等又北海道では見ることの出来ないザクロ、イチジク、ビワ、があった。
しかし、ここでは山ブドウやコクワを見た記憶がないところをみると、この地方にはこれらが無い処であったのかもしれない。

次はイナゴ取りである。
これは稲の穂先が色づいた項になると、その穂先に無数のイナゴ(バッタ)がつくのであった。
そうなるとまづ母に手拭を利用して袋を造ってもらい、その袋の口に針金の輪をつけ、それを1m位の長さの竹の棒先につけるのである。
そしてこれを利用して稲の穂先についているバッタをとり、これを家に持ち帰って鍋で炒り、砂糖、正油で味付けをすると、イナゴのつくだにとなる訳である。

次は小エビ抄くいである。
これは秋も終りに近づいた項農家の各家では稲の刈り取りが始まり、やがてそれが終った後の水田は、すっかり水が引いてしまった後には、稲の刈り取りに入った人の足跡と、稲の切り株だけが残っているのであった。
その人の足跡は深さ約10~15cm位で、その足跡には水が溜り、その水の中には3、4センチ程の小エビが必らず数匹入っているのであった。
その小エビを家から持って来た味噌越しザルで抄くってこれも持参の小バケツに入れて、2、3時間こうして抄くって歩くと結構な量になるのであった。
そしてこれもイナゴ同様、つくだににして食膳を賑わしたものである。

さてその次は、村の秋における最大行事の一つである貯水池の水抜きであった。
これは池の水を全部抜いて池に放流してある鯉の入れ替えと、貯水池土堤の補修作業をする為である。
まず池の水を全部放流した後は堤(ツツミ)の水洩れ箇所の補修と、1年間放し飼いをして成長した鯉を集め、その後に仕入れて来た稚魚を池に放流するのであった。
そのために2、3日前から池の水を抜き出し、当日は池の水が全く無くなったのを確認してこの行事にかかるのであった。
この項は各家共、稲の取り入れも終り、ホット一息入れた秋日和の日を選んで行うのであるが、この時は関係者全員が集り、その中に我々腕白小僧連も加り、賑やかなものであった。
池の水を抜き終った後の湖底の水溜りには成長して4、50センチになった鯉がピチピチとあばれているのを村の青年に混じって我々子供もパンツ一枚の裸になっで頭から泥まみれになり乍ら、鯉摑みに県命になるのであった。
こうして朝から始った成魚の鯉摑みと堤(ツツミ)の補修作業は夕方に終了し、集められた成魚はその日のうちに各所に送り出され、その売却金は村の共同資金となり、一方泥まみれで鯉摑みをやった我々には大きな鯉を年令に応じて2~3匹くれるので、それを持ち帰った我が家の夕食は貰った鯉料理で父等は晩酌肴に大いに喜んだものである。

又もう一つの思い出は、春に行った峠頂上のグミ取りである。
峠から見る日本海は晴れた青空と魚の青さの中に今日も帆かけ船が浮んで、春に来て見た時と同様に、これも又一幅の絵であった。
春に来た時には一面に眞白な花であったグミが今度は赤に変り、これ又見事なもので、私共は暖かい秋日和の中で1日中グミ採りを楽しみ、持ち帰ったグミは、母が子供用のグミ酒にしてくれ、それを節句や正月用にしたものである。

 

岩谷の冬の思い出

冬に入ると私達子供は遊び場所がぐんと制限され、下駄式のスケートかパッチ(メンコ)遊び位のものとなった。
しかし村の青年達は農閑期に入り、いろいろと青年団が主催した行事が行われるようになるのであった。
村には青年達が集まる集会所のようなものが一軒あって、そこへ青年達が毎晩集まり、集会を開いたり、カルタ取りをやったり、村芝居の稽古をやったりしていたもので、我々子供達も遊び先が無くなり自然この集会所へ行っては青年達の遊び相手や、雑事を手伝ったりしたものである。

青年団の主催する行事には村芝居と火祭りがあった。
芝居は集会所に舞台を造り、青年達が終日稽古に励んた芝居を被露したり、又村の広場の中央にかがり火を焚いてその周りを蓑(ミノ)を着て鬼の面をつけ踊る鬼踊りをしたりするのであった。
又この外に村の外部から猿芝居、万才等が入り込んで村は一冬中賑やかなものであった。

その外子供は子供だけの楽しみもあった。
それは当時何処の農村でも同様であったように米を作る農民は毎日三度三度米を食べれることはなかった。
それは収穫した米の半分以上は地主に納入しなければならなかったからである。
結局6は地主残りの4の内2を現金に替え後の2が一家の一年間の食糧にしなければならないので、米の外にヒエ、アワ等をつくり、それを米に混合して喰べなければならなかったものである。
それで正月用の餅等も、餅米だけの餅と餅米にヒエ、アワを混合した餅を両方作り、これを「こな餅」と云った。
この餅は勿論餅米だけの餅と違ってあまり美味いものではなかった。
これを正方形に切って縄で、吊し柿のように軒先に吊して乾燥させておくのであった。
私達子供は正月が終った後、4、5人で一団となり、「餅出せ出せよ、出さないと引掻くぞー」と叫び乍ら各戸を廻って歩くと、その家では、このこな餅を1人に2枚ぐらいづつ呉れたものである。
そしてこの餅を貰った我々は家へ持ち帰ってこれを焼いて砂糖正油をつけておやつ代りに食べたものである。

又子供達の遊びとして冬は道路のスケート遊びがあった。
これは下駄にスケート用の金具を取り付けた物である。

下駄スケート

その外に路上に家から長さ1m幅70cm位の板を持ち出しパッチ(メンコ)遊びをし、勝った者は相手からその都度1枚貰い、その枚数の多さを誇ったものである。

この岩谷での生活は大正11年10月から同13年5月までの約1年半であったが、私は五十川以来すっかり病弱な身体も回復し人並の悪くたれ坊主で学校の成績も余り香んばしくなく、それでも二年生に進級し春5月を迎えた。
その項父の仕事であったトンネル工事が完了し、どうしたことからか今度は思いかけない北海道へ移住することになったのであった。

私がこの岩谷で過したのは、6才の誕生日少し前から8才の5月までで、小学校入学は7才の春であった。
隨って私が、この岩谷を離れたのは、小学校2年生の春5月である。
而し僅か1年半の岩谷の生活であったが、私には忘れることが出来ない思い出の多い終世忘れられない処である。
(今もし旅行してみたい所と云って尋ねられたら体力が伴うのであれば、この岩谷へ訊ねてみたいものである。)

 

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