小学生時代(1) ~北海道編1-1~

04. 小学生時代~北海道/万字・幌内~
幌内炭山市街(大正10年頃)
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北海道万字炭山に移住

父がどうした経緯からか北海道に渡ることを決心したのかは知らないが、当時の東北地方は、農業の外、殆んと企業らしいものは無く、それで農家や漁村の次男、三男は最も手近な北海道へ渡ったものであるという。
又その当時北海道では各所に炭砿開発をやっており、その作業員募集に勧誘員が、この東北地方に隨分と入り込んでいたと云うから、恐らく父も、この勧誘に乘って応募したのではなかろうかと思う。
そして杦山、今井の両人も父に隨って万字炭砿に就耺することになったのであった。

私達子供5人は始めて船に乘り、汽車に乘れるこの長途の旅行に喜んだが岩谷から二日がかりの旅に終いには飽きて来て乘物の中で兄弟喧嘩をして母に叱られる始末であった。

やがて2日がかりの旅行の末やっと万字炭山駅に到着し、まづ駅周辺を見渡すと、四方山に囲まれた所でその山の中腹から上は5月の声を聞いても、まだ眞白に雪をかぶっていた。
そして駅の附近は黒く汚れた炭砿事業用の建物や、住宅が混雑したように固まって殺風景この上もない状景に子供心にも驚きと共に落嘆(ラクタン)してしまったことも今でも覚えている。

この万字炭砿というのは北海炭砿汽船(株)※注1に属して現在は既に廃線となったが万字線と云われ、岩見沢より志文、朝日、美流渡を経て最終が万字※注2であった。
この万字は下図(当ブログでは上図)のように駅前には炭砿施設として選炭場、索動(ケーブル)原動所等があり、その他に一般福祉として、学校、役場、病院、寺院、商店等、小規模乍ら備っていたが、炭砿從業住宅はこれから3K程の山奥に二見沢(フタミザワ)※注3という所と、それから更に車も通れない曲がりくねった傾斜7、8度の山道を2K昇った所に相生沢(アイオイザワ)※注4という炭住と坑口があった。

万字炭山

私達家族は後着した杦山、今井の三家共に相生沢(アイオイザワ)炭住に入居した。

相生沢という処は山を少々整地した狹い平地に6戸続きのハーモカ長屋と稱する住宅が12棟程あり、その近くに炭砿配給所があり、ここで炭砿從業員用食糧品をを扱ってをり、この地区より少々下った所に石炭を採堀する坑口と、ケーブル原動所、その他の附属施設があった。
又そこから山道を少々下った処に朝鮮飯場という独身朝鮮人約30人が居住している飯場(ハンバ)と稱する家屋が一戸あり、これが相生沢の全部であった。
勿論商店、劇場等はなく、住宅の端に一寸した広場があって、そこでお盆等には盆踊りをやる位のものであった。
そして相生沢から狹い山道を1キロ程下ったところに6年生までの小さな小学校があり、この学校は相生沢及び二見沢に住む子供の通う学校であった。
この二見沢部落も相沢同様配給所以外には何もない処であった。
このように相生沢、二見沢に住む人達は家具、衣類等、食糧以外の物品購入は駅前まで、二見沢から2K、相生沢に至っては5Kの片道を行かねばならない誠に不便この上もない所で、特に相生沢に住む小学生は高等科になると往復10Kの道を毎日通わねばならないのであった。
それともう一つは、万字炭山駅及市街地から、この相生沢までの引越荷物や、食糧品一切の重量物は全部索道(ケーブル)を使用しなければ他に運搬する方法のない処であった。

私達兄妹はこの相生沢へ来て兄は高等科一年で、相生沢から万字市街まで往復10キロの道を雨の日も雪の日も通学した。
後に残る姉は5年生、私は2年生である為毎日家から2kmの道を小学校へ通った。
後は就学1年前で6才になる千代と3才になったハナが家に居り、又父は坑内夫として仂いたが未経験のため賃金は安かったので母も坑内へ入って仂くようになり、2人の妹は近くに住む叔母ナカヨが私と姉が学校から帰ってくるまで預かってくれた。
そしてその翌年千代が小学校へ入学すると今度はハナ1人が家に取り残され相変わらず叔母ナカヨが面倒を見てくれたが、叔母にも幼い子供が2人居り、余り気の毒と思い、姉ツナがハナを学校へ連れて行き、姉が授業中同じ教室の空机にハナに紙と沿筆を與えて時間中座らせていたものである。
これは先生も我が家の内情を知っていたので黙認してくれたものである。

私達兄妹はこの相生沢へ来て兄は高等科一年で、相生沢から万字市街まで往復10キロの道を雨の日も雪の日も通学した。
後に残る姉は5年生、私は2年生である為毎日家から2kmの道を小学校へ通った。
後は就学1年前で6才になる千代と3才になったハナが家に居り、又父は坑内夫として仂いたが未経験のため賃金は安かったので母も坑内へ入って仂くようになり、2人の妹は近くに住む叔母ナカヨが私と姉が学校から帰ってくるまで預かってくれた。
そしてその翌年千代が小学校へ入学すると今度はハナ1人が家に取り残され相変わらず叔母ナカヨが面倒を見てくれたが、叔母にも幼い子供が2人居り、余り気の毒と思い、姉ツナがハナを学校へ連れて行き、姉が授業中同じ教室の空机にハナに紙と沿筆を與えて時間中座らせていたものである。
これは先生も我が家の内情を知っていたので黙認してくれたものである。

私達一家が入居した住宅は6帖2間といっても1間は板張りの居間兼用でその眞中に石炭用のストーブが1年中据え付けられており、畳敷きの部屋は1間だけの狹いものであった。
この狹い間取の家が6戸続いておりこれを稱して6軒長屋と云ったものである。
この外トイレはこの長屋の端に設けられてある共同トイレで水道は4棟に1ヶ所の割合で戸外に設けてあった。

万字の家

私達子供5人の家事分担は兄健治と妹ハナは当(アテ)にはならないので、姉が炊事、私が配給所から食糧品の買出しと水汲み、千代は家の掃除と決めて、それが私達3人の仕事であった。

この万字という所は山の中だけあって山菜の豊庫のようなものであった。
雪が消えて6月に入ると、フキ、ワラビ、ゼンマイ、タケノ子、が道路際の草藪の中へ一寸入っただけで、我々子供でも容易に採れたものである。
特に万字のタケノコと云えば今でも有名である。
又秋になるとキノコ類の外、ブドウ、コクワである。
これらの山菜、果実を採って塩漬けや果実酒を造り冬に備えたものであった。

只この万字の難点は冬にあった。
11月頃から降る雪は3月頃まで続き積雪量は大人の背丈け以上にもなり、現在のように除雪車もなく総てが人力であった。
そうなると我々子供は学校へ通うのもやっとで、後は家の中にこもり、ストーブに噛り付いている外はなかった。
幸い石炭だけは会社で無制限に支給してくれるので鋳物製のストーブが眞赤になる程燃やし続け、そして終日荒れ狂う戸外の吹雪の音を聞き乍ら、この山中の冬を過ごしたものである。

私達一家がこの万字炭砿へ移住したのは大正12年5月で※注5それから昭和元年10月※注6幌内へ移住するまでの2年5ヶ月間の、この万字炭山の思い出として残ることは、兄が小学校を終えて炭砿の坑外夫見習いとして仂き出したこと、父が殉耺死したこと、その後妹キミが誕生した為、仂く母代りに姉ツナが小学校6年を中途退学をし家事、育児に専念するようになったこと等である。

父の死後、母と兄の仂きで細々と我々家族が生活を続けていたところへ母の姉であるサヨ叔母が幌内に居ることが判明したのであった。
それで母はナカヨ叔母と相談の上、幌内へ移住することになったのであった。

 

※注1:「北海炭砿汽船」は正しくは「北海道炭礦汽船」です。

※注2:旧国鉄万字線の終点は「万字」ではなく「万字炭山」です。

※注3・4:「相生沢」という地名は現在なく、「二見沢」は現在の「〒068-3155 北海道空知郡栗沢町万字二見町」であると思われます。

(↑画像クリックでGoogleマップが開きます。)

※注5:こちらの記事には(万字に移住する直前に住んでいた)岩谷での生活は大正11年10月から同13年5月までだった、との記載があります。どちらが正しいのかはわかりません(^^;

※注6:昭和元年は1926年(大正15年)12月25日=大正天皇が崩御した日からその年の12月31日の1週間のみです。なので昭和元年10月はありません。大正15年10月か、昭和2年10月のどちらかだと思います。

 

幌内へ移住する

幌内炭山市街(大正10年頃)

岩谷から万字に移住した杦山夫婦は、このまま万字に残るというので、私共家族は今井家族と共に昭和元年の秋10月※注7に幌内へ移住したのであった。
幌内へ移住に当っては兄健治が幌内砿の坑内夫に採用してくれることが決定していたからであった。

幌内は万字と共に北海道炭砿汽船(株)に属し、地理的には近くに幾春別、奔別、唐松、弥生、新幌内の5ヶ所の炭砿が隣り合っており、又市来知(イチキシリ)、幌内太(ホロナイブト)現在の三笠)、萱野(カヤノ)といった農村が近く、野菜、果物類が豊富な所であった。
又幌内砿は夕張砿に次ぐ大手で人口も多く、万字の比ではなかった。

幌内地図

幌内地区は大きく分けて駅前の市街地区、中央地区、ポンポロナイ地区※注8、本沢地区、その外に線路向地区、になっており、我が家と今井家は共にポンポロナイという所の砿員住宅に入居した。
ポンポロナイというのはアイヌ語で、ある。

私共が入居した住宅は万字と同様の6戸続きのハーモニカ長屋で6帖2間であったが万字と違うところは各戸共に水道付きであったことと、家の裏には4、5坪位の畠付きであったことである。
只浴場、トイレだけは共同であった。

そしてこの幌内では、兄が布引坑という坑口の坑内夫となり、日給1円20銭位※注9で、母は土木作業の日雇姉として日給60銭位の収入を得るようになり、姉ツナは専らキミの世話と家事をやり、私は小学校5年生、千代は3年生でハナがようやく1年生に入学した。

母の姉である叔母サヨは私共の家のすぐ近くに居住しており、叔母がすぐ近くに居ったことと、ナカヨ叔母も同じ地区にいることで、精神的には母も心強かったに相違ないと思われた。

こうして私達一家は、父こそ居らなかったが、万字と違った環境の中で細々乍ら生活を続け、その内キミも人手(ヒトデ)を要しなくなり、姉が家計を助ける目的で炭砿の選炭工場へ務めたり、私は小学校の高学年になったが家族7人の生活に対して収入は少なく、それでも、なんとか細々乍ら生活を続けることが出来た。
私はこの幌内へ来てから環境のせいか、学校が良かったのか、5年、6年、高等科と学業の成績が上り優等賞こそ貰ったことはないが、優等賞の外に努力賞というのがあり、毎年それを貰うまでになった。
(私が学童服を着れるようになったのは小学校4年生位の時でそれまでは殆んとの子供は着物姿であった。)

それと同時に私にも友達が出来て、これらの人達とよく釣りに行くようになった。
釣り場は、萱野という現在の三笠と岩見沢の中間の農村の畠地にある木立ちに圍まれた川を切り替えた後の古川で、この古河に鯉、鮒、が繁殖して隨分と釣れたものであった。
それで釣り好きな友達同志で春から秋まで通ったものである。
しかしこの釣り場は幌内から片道8キロ以上もあった所を、その当時は自転車などはなくテクシー通いであった。
又この外の釣り場として夏休み中よく通ったのは月形であった。

幌内周辺地図

月形までは片道12キロ以上の巨離であった。
朝前夜用意しておいた釣り道具に握り飯、水筒を持って夜の明け切ったばかりの午前4時項、家を出るのであった。
そして1日中水田の排水溝にいる鮒や鯉の稚魚釣りをやって夕方家に帰り、夕食を済せるとヘトヘトに疲れ切って朝まで寝込んでしまふのであるが、それでも懲りず、又二三日すると出かけるのであった。
こうして学校の夏休中月形通いをしたものである。

次に冬になればスキーであった。
スキーは学校でも課外授業として行っていたので、私は母に頼んで、無理算段の上スキーを買ってもらったのであった。
当時はスキー専用の靴等はなかったので、ゴム長あった。

次に学校の修学旅行である。
行く先は札幌、小樽までであったが、これは6年生の6月に毎年一泊、2日の日程であるが、この修学旅行に参加出来ない生徒が必ず4、5人はをったもので、それだけ当時の生活は恵れたものではなかったということである。
私等も当然参加出来る筈もなく諦めていたところ、母の姉であるサヨ叔母が応援してくれて参加出来私は初めて、札幌、小樽を見て廻ることが出来た。
我が家では兄、姉は勿論妹達は修学旅行へ行ったことがなく、兄妹中では私1人が幸運に恵れたのであった。

こうしてみると、私だけが兄妹中で最も気楽な過し方をして来たように見えるが、実際は左程のこともなく、特に私は男の子で、あった為、家の力仕事のようなものは一切私の役目であった。
例へば、我が家では兄の坑内労仂によって得る賃金が唯一の収入で、その当時会社では、坑内外を問わず出勤した砿員には8分金と稱して1日の収入の8分に当る賃金を支払う伝票を発行したものであった。
それは月末に稼仂した分の賃金を精算して支払いするのが原則であるが、その日暮しの多い砿員のため、そうした措置をとっているのであった。

それで私は学校から帰へると毎日会社の窓口へ行き、その8分金の証明書を貰い、それを持って配給所へ行き、その日の喰べる分の米や味噌、正油等を買い、それを背負って帰へるのが私の仕事であった。
その外に母は日雇い作業の一つとして、石割りと稱して大きな石を適当大に割ってこれを当時石油箱という木製の箱があり、それで一杯幾等という仕事をしていた。
これは請負作業であるから箱数が多いだけ賃金も多くなるのである。
この割った石はコンクリートに混ぜ合わせて建築物の基礎に使用する物なので大体一定の大きさでなければならないのである。
それが大ハンマーを振るって大きな石を或る程度の大きさに割り、それを更に中ハンマーで適度の大きさに砕くのには如何に労仂に慣れている母といえども女の仕事としては少々無理であった。
それで、私は学校から帰宅するとすぐ、母の仕事場駆けつけ夕方まで石割りを手伝ったものである。

 

※注7:前回の記事でも指摘しましたが、昭和元年は1926年(大正15年)12月25日=大正天皇が崩御した日からその年の12月31日の1週間のみです。なので昭和元年10月はありません。大正15年10月か、昭和2年10月のどちらかだと思いますが、後者の確率が高いと思います。

※注8:ポンポロナイという地名は現在の「北海道三笠市幌内奔幌内町」であると思われます。

※注9:1927年(昭和2年)の1円20銭は、現在の価値に換算すると2,000円くらいです。(※注10

※注10:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

※注:写真出典「三笠鉄道村 幌内歴史写真館」幌内炭山市街(大正10年頃)

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