小学生時代(2) ~北海道編1-2~

04. 小学生時代~北海道/万字・幌内~
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叔父與五郎宅へ危介になる(※注1)

万字より移住して、この幌内へ来てから早いもので何時しか、私は小学校高等科の二年生※注2になっていた。
姉ツナは、その前の年の私が高等科一年生の春に選炭工場に仂き乍ら夜は裁縫を習いに通っていたが、18才の年に大夕張炭砿の村上家に嫁ぎ我が家は家族6人となり下の妹キミも小学校一年生として入学するようになっていた。
その項どうしたことからからか、父の弟である與五郎叔父が茂尻炭鉱に居住していることが判り私の夏休みと兄のお盆休みを利用して茂尻の叔父を訪問したのは前述の通りで、叔父の家へ3日間帶在中、與作さんの案内で近く空知川へ釣りに毎日3人で通ったものである。
この空知川というのは石狩川の支流で川幅が約7、8mもあり、その川でアユに良く似たハヤという体長15、6センチの魚が良く釣れたものであった。
釣り方は膝(ヒザ)位の深さの浅瀬に1、5m位の短かい竿で流し釣りをするのであったが、釣り好きな兄と私は、すっからこの魅力にとり付かれて帶在中の3日間空知川通いをしたものである。

やがて3日間の盆休みが終り家へ帰って来た私はどうしてもこの空知川の釣りを忘れることが出来ず、叔父に来年3月学校卆業まで其方へ置いてもらへないだろうかと独断で手紙を出したところ、叔父から折返し承知した旨の返信があり、私は小踊りをして喜んだ。
実は私は釣りばかりではなく、その外に理由があったからで、それは私の通っていた幌内小学校が、その年の6月に全焼していたからである。
そのため私共生徒は会社の從業員用のクラブを借りて二部授業を受けていたからである。
母も賛成してくれたので私は早速9月1日から始まる二学期に併せて叔父宅へ危介になることになった。

学校は平岸小学校と云い、茂尻より空知川に沿った道を約2K滝川寄りに建った学校で私はここで毎日空知川を見乍ら学校へ通ったものである。
そして授業が終り帰宅するや否や竿を手に雪が来る初冬の項まで川通いをしたものである。

この平岸小学校へは僅か半年の間であったが、思い出のある学校であった。
私の高等科2年の受持ちは高橋良太郎という40才位の額(ヒタイ)の禿げ上がった独身の先生であった。
この先生は私が、今まで見たことのない一寸変った人で、それは昼の食事を私共と一諸とり、食事が終った後1人5分間という制限で教壇に立たせ生徒全員に話題は自由で話をさせることであった。
それで私は家へ帰ってから話題にするものを雑誌或いは新聞を見て覚えておくようにしたものである。
又この高橋先生は授業中の地理の科目の時間で、その地方に伝わる民謡や踊りがあると、それを踊ったり唄ったりし、外にたまたま旅行等をして来ると、その土地の飴玉等の土産を買って来て昼食時間に生徒全員に配ったり等をする人であった。

又、私はこの学校へ転校してすぐ友人が4、5人出来た。
その中で眞田、石田という友達は特に親しくしてくれ親が茂尻市街で菓子屋、果物屋をやっているので学校帰りは、その家に立寄って、菓子、果物を馳走になり、その友人の部屋で学校を卆業した後の将来の耺業について論じ合ったりしたものである。

次はカメラの事であるが、会社の配給所に務めていた與作さんが何処から手に入れたのか、カメラを家に持って来たのであった。
当時カメラ等は現在のように普及しておらず、やっとカメラというものが出初めた項であった。
その項のカメラは蛇腹式で、操作も又面倒でまづ寫す為には、フイルムではなく、乾板と云ってハガキ半分大位の硝子板を暗室で密封してある箱より取出してそれを、ブリキ製の容器に1枚毎に入れるのであった。
そして次はカメラの一方にそれを差込んで容器の蓋を抜いて次はカメラの操作はまづレンズの絞りを、その被寫体に応じて、調整し、シヤッター速度を決め、更に被寫体まで巨離を目測して目盛りを決めた後に始めてシヤッターを押すのである。
こうして寫した原板は、今度は自分で現像、焼付けをしなければならないのである。
この現像、焼付けは、押入れの中に電灯コードを引き込んで自分でやったもので、その内に私の学校友達の親戚が市街で寫真屋を開業しているのを知り、その友人に頼んで寫真屋へ行き現像焼付け法を教えてもらったりしたのである。
その内にこの面倒さに飽きたのか與作さんはカメラを放り出したので、私はこれ幸いと、そのカメラを思う存分使用出来たものであった。
私はそれ以来カメラに興味を持つようになったのである。

 

※注1:最初の中見出しの「危介」は「厄介」の間違いです(^^;

※注2:当時は尋常小学校6年+高等小学校2年の課程(卒業時14歳)でした。

 

母の再婚

釣りの時期も終りやがて短かい期間の冬休みに入り正月を迎えたが私は幌内へは帰へらず、叔父宅で過していたが、2月に入った或る日、叔父宛に幌内の母が誰れかに代筆してもらったとみえる手紙が届いた。
それを読み終った叔父は私にその手紙を見せてくれたが、その内容は母が再婚をしたという内容であった。
これを見た私は、余りにも似外なことに愕然とした。
叔父も私と同様だったとみえて2人共暫らく言葉もなかった。
手紙には相手の人は中村寅之助と云い、母より5才年長で、生れは秋田であるが、身寄りは誰れ1人としておらず、北海道へ渡ってからは小樽を本據地にして、木材の積取船に乘っていたが、たまたま、知り合った人が幌内の住人であっため、その人を頼って幌内へ来て母が仂いていた土木作業に出ていた人であるということであった。
兄はそれ以来呑めなかった酒を呑むようになり、仕事も3日にあげず休むようになったとのことであった。

私はこの手紙を見て家庭経済を少しでも楽にしようとした母の気持ちも判るが、又兄の気持ちも判るような気がした。
しかし未だ未成年の私にはどうしようになく、只側面よりそれを見守っているより方法がなかった。
叔父も又私同様の考へか、この件に関しては一言も云わなかった。

 

学校を卆業し茂尻より幌内へ帰へる

やがて3月に入り私は思い出の多かったこの小学校を卆業する日※注3がやってきた。
卆業式は何日だったかは忘れたが、その卆業式の前日、私は高橋先生に教員室に呼ばれ、先生からお前は二、三学期共成績も良かったので優等生の中に加えるため、耺員会議にかけたが、幌内小学当時の成績が判らないため、その選に洩れてしまった。ということを云われたが、私はその一言で賞は貰えなかったが満足した気持ちであった。

尚これと同じ事を叔父からも云われた。
その言葉はお前は学校の成績も良いので、卆業後他の学校へ進学する気持ちがあれば援助してやる積りでいたが、しかしお前の母が再婚したので、その必要はなくなった。ということであった。

そして私の卆業式が終った翌日、叔父は私を送りがてらに始めて幌内へ来たのであった。
叔父と私が幌内へ着いた日、義父寅之助は小樽へ出稼ぎに行って留守であった。
叔父は家へ一泊しただけで翌日茂尻へ帰ったが到着した日の夜遅くまで母と話合っていたようであったがしかし何を話合ったのか私には判らない。

家へ帰って来た私は、2、3日家でゴロゴロして過していたが、これから当然、何かの耺につかなければならないが、当時満洲事変勃発の昭和7年※注4で世は不況の眞只中にあった。
隨って私のような小学校を出たばかりの者は何処にも就耺する当てはなかった。
それで私は前以って考へていたことは、家には全く負膽のかからない、師範学校、警察官養成所、鉄道員養成所で、これらは卆業後の業務年限と勤務先の指定があるだけで、学費と食費は一切不要という魅力があった。
しかしいざ、それに向うとしたが、私はこれに対する手続きや場所が一切不明で、これを尋ねる知人も居らず、どうすることも出来なかったのである。

そうして私が家へ帰った4日目の日に義父が突然帰宅したのであった。
私が始めて会った義父は小柄な坊主頭にスッペイ下りの眉と小さな目の一寸愛嬌のある顔をした人であった。
口数は余り多い方ではなく、私に向って一寸頭を下げただけで、これで初対面の挨拶が終ったという顔をしていた。
義父は家に二泊しただけで又次の乘船予定があるので小樽へ戻ることになっていたので、私は一度その木材積取船なるものに乘ってみたいと思い、義父と一諸に小樽へ行ってみたのである。

義父の定宿にしている処は小樽市の色内町という処の小さな下宿で女名前の標札と積取船下宿と書いた立看板が下げてあった。
ここで私は下宿屋の女主人に会ったが、50才過の小柄な婆さんで、義父はこの下宿の10数年からの客であると云っていた。
義父は下宿へ着くと早々に1人で外出して近くに積取船関係の事務所でもあるとみえて、私の乘船許可を得てきてくれたのであった。

翌日私は義父に連れられて小樽港から出航した積取船なるものに始めて乘船し、目的地北見へ向った。
この船は約2,000屯程の大型貨物船で、積取人夫は約20人位で、私共20人はこの船の船底機関室の側に船の燃料にする石炭(粉炭)が山積みにされているその上にゴザを敷いて着たままのごろ寝であった。
私の仕事はこの人夫20人の人達の炊飯を受け持つ60年配の爺父の助手であった。
人夫達の食事はワカメの味噌汁にタクアン漬け、塩魚が一匹という簡單なもので、三食共殆んと同じような献立であった。
そして人夫の人達は食事時には、アルマイト製の食器を盆に乘せて、食事を受取りに炊事まで来るその人達の食器へ、飯、味噌汁、副食物を入れてやるのが私の仕事で、外に米とぎ、や食材の準備をする位のもので、後は全部、炊事係の爺さん仕事で、私は比較的予猶があったので、デッキに出ては木材積取りの作業を見ていることが出来た。

小樽から興部

積取船は小樽を出航すると、目的地である北見の興部(オコッペ)まで1昼夜を要するが、目的地へ到着すると、数隻の発動機船が木材を数10本鉄の鎖で束ねて、それを積取船の船腹まで曳航して来て、そこで鎖を解いて曳航して来た木材を置いて引返して行くのであった。
今度はその木材を人夫の手慣れた人が、その木材の上に乘り移って、10数本、これも鉄の鎖で木材の中間を縛ると、船から長い腕のアームが伸びて来て、その鎖にフツクをかけて船の上まで吊し上げ、船倉へ入れるのであった。

ここで最も難しいのは洋上に浮いて絶えず揺れ動いている木材の上に乘って長い棒先に鉤のついているトビと稱するもので木材を寄せ集めて数本纏めて鎖をかける仕事は素人では出来ない業(ワザ)である。
その人は20人位居る人夫の中に5、6人よりをらずこれは年季の入った人でなければ出来ないその中に義父が入っているのを見て私はさすがと思った。
後の残りの人は船倉へ下された木材をトビに整屯する仕事をしていたが、この人達は熟練も何も必要なく木材を動かす力があれば誰れにも出来る仕事であった。

私はこの積取船で特に感じたのは、積取日数に限定があるため、最終日が近くなると夜、船の甲板に光々と照明をつけ、特に木材を集荷している洋上には大型の投光器を向け暗の洋上を照らし夜12時過ぎまで作業を続けるその様は戦場さながらの気合いの入った作業であったことである。

こうして積取りは丁度1週間の日程で終り無事小樽港へ帰還出来た。
その翌日義父は又事務所へ出かけて行き労賃の精算金を封筒に入れて持って来てそのまま私に渡したので私は中を改めもせず、それを持って、その日の内に幌内へ帰って来たが、私の仂き分は幾等であったのか聞きもせず、そのまま母へ渡したのである。
尚義父は又次の船に乘るため小樽に残った。

 

※注3:当時の高等小学校は満14歳で卒業なので、1916年(大正5年)11月18日生まれのフクヲが卒業したのは1931年(昭和6年)3月と思われます。

※注4:満州事変が勃発したのは1931年(昭和6年)9月18日です。

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