札幌佐藤商店へ就耺する
私が小樽より帰って来た翌日、私の帰りを待っていたかのように私宛の手紙があった。
差出人は私の幌内小学当時の沼田という友人からで内容は、現在私(沼田)は札幌豊平の或る雑貨店に住み込みで務めているが、知り合いの商店主より誰れか1人手伝いが慾しいと云う話しが出ているので、もしよければどうかということであった。
それで私は母とも相談の結果、札幌へ出ることにし、準備を準え母に着き添われて、出札したのである。
私の就耺先は札幌北九条西二丁目(※注1)の佐藤商店という酒、味噌、正油、の外に野菜を販売している個人商店であった。
場所は北大正問近くで側に北九条小学校があり、角地で隣りは何宗かは知らないが寺の派出寺院があった。
この店の主人は40才位のがっしりとした身体つきの至って温和そうな人と奥さんは肉付きの良いどっしりとしており、子供は小学校4年の女の子を、頭(カシラ)に女1人男2人、その他に16、7才位女中さん1人といった家族構成であった。
店の構造は3間×2間でさして広いといえなかったが、野菜類が店の大部分を占めていた。
早速私の待遇について母を交えて主人夫婦と話合い、私の月給は5円(※注2)で夜学にやってもらうことで決り、母はその日、この店に程遠からぬ所に母の姉である納谷サヨの長女が居住していたのでそこへ一泊して翌日幌内へ帰って行った。
入店した翌日私はまづ学校の所在について調べてみると最も近い所に札幌庁立第二中学(※注3)があることを知り早速そこへ出かけてみた。
学校は駅前から桑園へ向った北4条通りの西6丁目で、店からは自転車で15分位の所であった。
学校で簡單な口答試問と数学のテストをしただけで入学決定し授業料は月4円50銭とのことであった。
それで私は早速翌日より通学を始めたが授業時間は午后5時から11時までであった。
次に私の自転車の練習である。
自転車に乘れなければ仕事にならず、眞検に練習をしたお蔭で2日後からどうやら乘れるようになり、まづこれで2つの県案が片付きホットした気持ちであった。
服装は襟に佐藤商店と染め抜いた從縞の半天を着て厚い木地に●(注:丸の中に「佐」の文字)と大きな文字の入った前掛け、それにハンチングの帽子という格好であった。
そして入店3日目から愈々本格的な私の仕事が始まり、まづ朝5時起床、その後洗顔を済せた後は普通の大きさの3倍もあるリヤカーに私と主人が2台の自転車をつけ、行く先は円山の野菜市場であった。
この市場には近くの円山、宮ノ沢、手稲等の農家の人々が野菜を運んで来て野天に並べ朝市を開いている円山の朝市であった。
そこで主人は野菜類を仕入れリヤカーに積んで店へ戻る項は8時を過ぎており、それから朝食を済せ、今度は私1人で自転車で東は苗穂、南は大通りまで得意先の家庭を廻って御用聞きで、昼に店へ戻り午前中廻って歩いて注文を受けた味噌、正油、酒、野菜等の配達をして廻り、夕方店に戻り急いで私だけで食事を済せ、自転車で学校へ行き、11時過ぎに帰って来て就寝という日課であった。
ところがこの店の性質上野菜を扱っているため、決って夕方4時項から7時近くまで野菜を買いに来るお客が多く、私が午后の配達から帰って来た項には、来客の混雑する時間で、その応待に主人、奥さんは勿論店へ出るのであるが、それだけでは手が足りなく、結局私もそれに巻込まれ学校が始まる5時には当低間に合わず、私は殆んと毎日のように遅刻をしたものである。
当時の夜学に通学する生徒は殆んと工場、商店、または土木作業等の務める人で私同様時間に制約され5時開始の時間に間に合う生徒が少なく、そのため私の遅刻も或る程度認められていたのは幸いであった。
又この私の居る附近の同業者達は7月、8月の夏期になると近くの公園を借りて夜店を開くので、私のいる店もそれに同調して野菜類を夜店に出すので、この期間中私は雨でも降らぬ限りは夜店へ出なければならず学校を欠席する時間も多く、これが惱みの種であった。
ところが学校で私の隣りの席に野村という生徒が居たが、この人は北大通で辨護士をやっている木ノ下という人の事務所に住み込みで入っている書生で、主人の耺業柄時間の制約を受けることもないので定時に出席出来たので、私はその人のノートを借りて夜ノートの復寫をやり何んとかテストに間に合せたものである。
店は休日というものがなく1年中無休で、只1月の15日には小正月と云って1日間だけ休みがあっただけで、その当時この休みを利用して1年振りに我が家に帰へる者もおり、これを稱して「藪(ヤブ)入り」と云ったものである。
私はこの休みには旅費もなし、又休日数も少ないので家へ帰ったことはなく、前述のようにこの店の近くに叔母サヨの長女の嫁ぎ先があったので、そこへ1日遊びに行く位のものであった。
私はこうしてこの佐藤商店へ昭和7年4月から同10年2月までの3ヶ年間務めたのである。
幸い店の主人、奥さん始め子供達も皆良い人達ばかりであった。
これは後のことであるが、私が昭和14年に札幌技術員養成所に入所した際、私の保証人として市内に居住している人が必要であると云うので、私は退店4年後元の主人であった佐藤商店を訪ねると、主人は私が店をやめて1年後商売不振のため店を閉店し、北大の医学部の実験用家蓄の世話係の耺に転向して、元の町内に住んでいた人が心よく私の保証人になってくれた。
※注1:現在この場所にはファミリーマートがありますが、この佐藤商店が前身なのかどうかは不明です。(後の方で「閉店した」と書いてあるので、違う可能性があります。)
(↑画像クリックでGoogleマップが開きます。)
※注2:1931年(昭和6年)の5円は、現在の価値に換算すると10,000円くらいです。(※注4)
※注3:札幌庁立第二中学とあるのは、北海道庁立第二札幌中学校(現在の北海道札幌西高等学校)のことだと思われます。(当時の住所は札幌市中央区北3条西19丁目で、北9条西2丁目から自転車で15分というとだいたい計算が合います。)
リンク
札幌市立北九条小学校
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