再就職・幌内炭砿 ~北海道編6~

09. 再就職・幌内炭砿
幌内炭鉱
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再び幌内砿の坑内夫となる

私が幌内で再び仂くようになってから義父は永年続けていた木材積取りの仕事を止めて幌内で土木作業を請負っている業者の元で仂くようになった。
母は殆んと冬期間を除いて土地を借りて畠作業を続け、兄は市街地で開業している木村歯科の技工師見習いに通うようになり、妹キミも小学校を卆業して岩見沢の無儘会社へ家から通勤し、ハナと千代の2人は弥生炭砿市街の飲食店へ住込みで仂いていた。

それで家に5人だけとなり、生活も一応落着いた生活が続けられるようになった。

家の経済状態も安定したところで、私にも初めて小使銭が当るようになり、自分の慾しい物を或る程度買えるようになったので、私はまづスキー1式とアノラック、等を揃え日旺日は投光器設備がしてあるので夜万字山でスキーを楽しめるようになった外、かねてからの県案であったカメラも入手出来た。
その項やっとカメラがこの炭砿にも普及し初め、市街の商店でカメラを扱う店が出来た。
価格は5円~10円程度であったが、当時の5円※注1は坑内夫の平均日給が1円4、50銭だったので、私は小使銭を或る程度貯蓄してやっと入手したものである。

その頃になっても、ガラス製の乾板を使用して現像及焼付けは自分で行うのであった。
又夜間や光線の足らない所で寫す場合はマグネシューム使用のフラッシュを使用しなければならなかったものである。

 

※注1:1937年(昭和12年)の5円は、現在の価値に換算すると9,200円くらいです。(※注2

※注2:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

※注:写真出典「三笠鉄道村 幌内歴史写真館」幌内炭山中央周辺(昭和10年頃)

 

二度目の中富良野訪問

十勝岳

やがてその年の夏が来て、例の3日間休日の続くお盆休みが来た。
それで私は1月の即日帰郷の際に大変世話になった中富良野の村上家訪問を思い立ち、14日から16日まで続く休日の14日に私1人だけで村上家を訪問した。

今度は2度目の訪問でもあり、村上家も炭砿同様農作業を休んでいたので、心から私の来訪を喜んでくれ歓待してくれた。

私が村上家に着いたその日の夕食席上で姉婿の正さんが天候も良いので、明日一泊で十勝岳登山をやろうという提案があり、私は大賛成の上翌日15日、正さん、三郎さん私の3人で、中富良野から富良野まで汽車で1時間足らず、次に富良野駅から出る十勝岳登山バスで、終点十勝岳中復まで行って下車した。
その項は現在と違い、レジャー等という風潮はなくバスも5、6人程度の乘客より居らなかった。

十勝岳中復には吹上温泉という旅舘と、町営の銀嶺荘※注3というヒュッテ式、自炊、管理人不在という2棟の建物より無い所で、吹上温泉旅館は正式の温泉旅舘で女中さん外從業員10数名の規模で建築も仲々こった建物であったが、当時はまだ、ここまで電線が延びておら照明は総てランプであった。

私達3人はヒュッテに入ったが、男ばかりの先客が3人居た。
部屋数も床板式の6帖間が3部屋あり、後は炊事場と、トイレだけの至った質素なもので、寝具は各自毛布持参、無料宿泊といったものであった。
部屋の照明はやはりランプで、浴室はなしで、おそらくは町の役場から数日置きに管理人が来て室内の清掃や、ランプの手入れをしていくのではなかろうかと思われた。

又入浴はこのヒュッテから温泉旅舘まで巨離は100m位あり、それを長い廊下で結ばれており、廊下の途中には10m置き位にランプが吊されていて、入浴は旅舘の浴場を使用するようになっていた。

私達はヒュッテで持参の辨当を喰べ、その後附近を見て廻ったが、この十勝岳中復は樹木の多い所で、旅舘及ヒュッテは樹木に圍まれた中にあり、又旅舘とヒュッテの中間に露天風呂があり、私達3人は外に誰れも居らない風呂につかり、のうのうと入浴を楽しみ、夕方はヒュッテ備品の鍋、釜を使用し、燃料は薪で、その他食器類はアルマイト製品があったので、それらを使用して夕食を済ませた。
夕食後は廊下伝いに旅舘へ行き今度は旅舘で入浴し、帰りは旅舘売店で菓子類を買ってヒュッテに戻り、買った菓子で遅くまで3人で雑談をし持参の毛布にくるまり寝に就いたのであった。

翌朝15日は今日も晴天で澄み切った山の空気は本当にすがすがしい気分であった。

3人で朝食を済せ昼食の握り飯を用意し、9時項十勝岳頂上を目指した。
頂上近くになるにしたがって樹木は少なくなり溶岩ばかりとなり、頂上に着いてみると噴煙はなく斜面にまだ残雪があった。
頂上から見る富良野一帶の景色は誠に壮大なもので、石狩平野が果てしなく続き、遙か東南方には大雪山の雄大な姿があり、その他狩勝峠、石狩峠が霞んで見える誠にパノラマを見るようであった。

私達は飽きることなく、この景色に満喫し、頂上噴火口の側の岩に腰を下し、辨当を食べた後、下山開始、又バスと列車で午后村上家へ帰着したのであった。

それから少憩した後、私は村上家自作の果物、野菜類をリュック一杯に貰って終列車で家へ帰ったのである。
尚私は持参のカメラでこの思い出多い、楽しかった登山の記念撮影を相当寫して来たので、現像、焼付けに数日を要したものである。

 

※注3:銀嶺荘とは白銀荘のことを指しているのではないかと思われます。

 

兵役免除となる。

十勝岳

やがて夏も終り、9月に入った或る日、三笠町役場兵事係の名で1封の封書が私宛に届いた。
その内容は「昭和13年9月1日付けを以て貴下を兵役免除す」という通知であった。

そこで私は暫く考へ込まざるを得なかった。
ということは、当時、徴兵検査の結果は、現役、第一乙、第二乙、丙種の四段階で現役は即入隊で、第一、第二乙は有事の際、直ちに召集を受ける義務があり、丙種というのは軽度の不具者であるが、場合に依っては、これも応召の義務があり、その他は重度の不具者でこれを丁種と稱したが、この丁種まで召集が来ることは考へられなかった。
しかし兵役免除と云うことは、この最低の丁種の不具者にも該当しないというならば、私は一体何んであるのだろう。
日本人ではなく外国人であると云うことだろうかと暫し不安を感じたものであった。
しかし幾等考へても私の智識では解決出来なかった。
それで私は役場の兵事係へ行って説明を聞こうと思ってみたが、良く考へてみると、そうまでする必要はないと思ったのである。

現在満洲事変は益々拡大し、各地に居住している予備役(現役期間を終えた人)や第一乙、第二乙種の人達に召集令状が来ている現在、もし兵事係の手違いであったとして、来年度の再検査か、もしくは第一乙種にでもなったら必ず召集されるに間違いないのである。
それならば、このまま黙認してしまうことに決めたのであった。
そしてこれで私は一生応召の義務はなくなったのである。
しかし私は現在でもこの件に関しては不思議な思いがしてならない。
不具者でもない私が兵役に一切関係のない兵役免除になった理由である。

 

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