ソ連対日参戦(1) ~満州編4-1~

16. 満州での戦争経験
満州に侵攻するソ連軍
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ソ連軍の参戦

やがて我々在満邦人にとって運命の日が訪れた。
その前に私は一寸不思議に感じたことがあった。
それは、私が、このジヤライノールへ来た当時から、否それ以前からであったろうが、午前10時項になると、必ず日本陸軍の標識をつけた軍用機が、ジヤライノールの低空をかすめて定期便が満洲里の飛行場へ飛んで来たものであった。
これは新京を発ち途中ハルピンを経由して飛んで来る軍用定期便であった。
それが気がついてみると、飛ばなくなっていたのである。
それともう一つは満人が一斉にこの日本居住地へ入って来ることがなかったのが、これも何時しか日本人住宅地へ何か不要品はないか、有れば、それを買い取ると云って各戸を訪問して歩き出していたことであった。
これを綜合して後で考へて見ると、その項は既に関東軍も又満人もソ連軍が進攻して来ることを事前に察知していたものと思われるのである。
これらを考へると、我々國境地帶に住む者に軍は何一つ対策を考へず無策に通していたことになるのである。

20年8月9日、その日は朝から雲一つない晴天で私は5時項目を醒ました。
カーテン越しに入る光に今日も晴天だなと思っていると、ゴロゴロと遠雷の響きが伝わって来るので、不思議に思い窓のカーテンをあけて見たが、やはり雲一つない青空であった。

それでも私は洗顔、朝食を済せて出勤の仕度にかかっていると住宅街の照明用電柱に取付けてある、連絡用の拡声器から、「各自出勤は取り止め待機せよ」という放送が流れ出したので不思議に感じていると午前7時項、再び「男性耺員は軽装のまま飲料水及軽食持参事務所前集合、その他の家族の者は男性と同じ携行品の外、手軽な荷物1ヶだけで石炭積込場に集合」ということであった。

しかしこの時になっても我々は何ん為か判らず、放送通りの仕度をし、これは1時待避の訓練で夕方までには戻れるだろうと取敢ず手持の現金を持ち、貯金通帳類は、そのままにして家を離れた。

我々男性は事務所前に集合した。
時間は既に8時を指しており、集合した人々の顔ぶれを見ると、会社幹部の外に一般耺員、外、この地に居住勤務の警察官、役場耺員等約90名位の人々で、それに会社名の入ったトラック3台で運転手は朝鮮系の人であった。
ここで、我々全員に会社備品の38式歩兵銃各1丁の外、弾薬50発を手渡され、1台のトラックに会社幹部連中、1台には会社耺員の外警察官、残りの1台には役場耺員、一般日本人と分乘して午前9時項、トラック3台が事務所前を出発した。
しかしこの時になっても我々には、目的、行先等について何も説明がなかった。
トラックはジヤライノールから南方のホロンバイル草原を目指して走り続け、約1時間後に草原の眞只中に当着したが折りからの眞夏の太陽はジリジリとトラック上の我々照りつけ、気温はおそらく30度以上と思われた。

ここで小休止をすることになりトラックが停車したので、我々は草原に降り立って週辺を眺め、何気なしに我々が今まで走って来た遙か彼方を見ると、ジャライノールの我々が勤務していた採炭所及事務所と覚しき方向の建物が黒煙が、もうもうと立ち昇っているのであった。
それで瞬間に私はこれは尋常でないことを悟った。
それでも、まだ、異変のおこった事は知らず、只々不審に思うばかりであったが、丁度その時我々の少休止をしている所を目がけて1台のトラックが近づいて来たので、良く見るとトラックは日本軍の日の丸の標織をつけ、5、6人の日本軍が乘車しており、そのトラックが間もなく我々の側へ来て停車し車上から降り立ったのは伍長の肩章をつけた人1名の外、上等兵、1等兵の6人であった。

我々は早速駈け寄って事情を聞いてみると、伍長の話では、今朝夜明けの4時項、ソ連兵の集団がソ満國境を突破し、満洲里の日本軍兵舎を砲撃し出したということであった。
しかし兵舎には尉官以上の将校は1名も居らず、取敢ず最上級の曹長が指揮をとり、応戦したが、敵ソ連軍は戦車の外、迫撃砲で砲撃されるので兵舎内は大混乱となり、各自思い思いの行動となり、ハイラルへ撤退する者、又敵戦車に対して肉弾攻撃をする者で、我々もハイラルへ向う敵戦車に対して肉弾攻撃をするため、この道路側へ塹壕を掘り、爆薬をもって敵戦車に体当りをするのだということであった。
尚将校連中は1昨日、新京で会議があるというので全員新京へ出張し不在であるということであった。

我々一同はこの話を聞いて唖然としてしまった。
この兵卆の云うことが例へ話半分としても、後で考へてみると統制を旨とした軍隊にしてからして、このような状態では敗戦は既にこの時点からして決定的なものであったと思ったのである。
私は、この兵隊の話を聞いて初めて、今まで不審に感じていた疑問が氷解した思いであった。
それは、この日の2、3日前より軍の定期便であった飛行機が飛行停止になったこと、満人が日本人住宅へ不用品の買入れに入り出したこと、今朝の会社が行った日本人從業員に対する放送、そして将校連中が隊を離れて全員新京へ集合したこと総てが、この日の有ることを予知した行動であったことである。

やがて我々は兵隊と別れて出発となり、トラックのエンジンをかけたが、3台の内1台はエンジン不調のため仲々発動しないのであった。
運転手3名が集り、点検したが、不良箇所が発見出来ず、遂いに故障車と乘車人員を残したまま、2台だけでハイラル向けて出発の止むなきに至った。

九四式六輪自動貨車

2台のトラックがハイラルに到着したのは午后1時過ぎであった。
ハイラルへ入ってみると、街には1人の姿も見えず、街の2、3箇所で建物が火災をおこしており、その上空にソ連軍の飛行機が1機裕々と偵察飛行を続けているだけであった。
それで我々は、このハイラルへは停車せず、興安嶺山脈の山裾近くに来て初めて日本兵の姿を見た。

それは7、8人が1団となり、銃を肩に天秤にかつぎ、隊伍も組まづ、ばらばらとなって、地面を見ながら、とぼとぼと歩いている姿であった。
これが数組に分れて興安嶺陣地を向って歩いているのであった。
それを見た我々はトラック上から「御苦労さん」と声をかけると中に1人か2人位、我々に向って一寸手を揚げ顔を見ることもなしに、又地面を見乍ら歩いている様は、これが日本兵かと思われるのであった。
この兵隊達は全く疲労困憊といった様子であった。

その1団の先に2、300m離れ又1団更にその先に1団とノロ、ノロと興安嶺に向って行進していた。
その後から日本軍の空トラックが3台程、この1団を追越して行くのを見て、この行進の引卆者とおぼしき下士官が腰の軍刀を抜いて、空トラックに向い「止まれ、止まれ」と連呼しながら軍刀を振廻したが、トラックは停止する気配も見せずそのまま走り去ってしまった。

私共はトラックの上からこれ等を見て初めて日本軍の本当の実態をまざまざと見せつけられた思いがした。
全く指揮系統や統制の貧困、これでは、この後、日本はどうなるのだろうかと暗膽たる気持ちにならざるを得なかった。

やがて我々の乘車したトラックは興安嶺にさしかかったので私は眼を皿のようにして名に聞えた日本軍の要塞を見ようとしたが、何一つ要塞らしき物は見当らなかった。
これは恐らく地下壕や岩窟として外部からは見えないようにしているのかも知れないのだろう。
それにしても兵隊の姿や、それらしい人間の姿も見えず、如何に要塞とは云い乍ら果して、これでソ連軍の内攻を阻止できるのだろうかと凝問を感じたものである。

こうして何んなく興安嶺山脈を越えて我々のトラック2台が、山麓のジヤラントンへ到着したのは夕方であった。

興安嶺山脈

ジャラントン駅に今朝家族を乘せて出発した会社の列車が到着しており、ここで我々一行は家族達と合流した。
家族達の話を聞くと、私共同様行先も知らされず不安な気持ちで老人、女子、子供達ばかりの一行であり、どのように心細かったか察するに余りあるものがあった。

この日は全員、会社の列車を乘り棄てて、この地の日本人会の世話で、ジヤラントン街の一角にある日本人集会所に宿泊することが出来た。
毛布、食糧総てこの地の日本人会の人々が持ち寄って供給してくれたものであった。

このジヤラントンという所は西満にしては珍らしく気候温暖な地で、満洲の京都と云われている想である。
それは興安嶺山脈の西方はシベリヤからの寒風を、この山脈で遮断するのでその影響を受け気温も高く、適当な降雨に惠まれている為、樹木も繁茂し、街は街路樹が多く、この地には満洲◆※注1経営の農事試験場、や官公庁もあるので日本人居住者の多い所であった。

この地に一泊した私達はようやく、ソ連軍が昨暁西方、東方、北方の三方より越境をし満洲國内に浸入したことを知った。
それで我々は居住地を放棄してハルピンへ避難集結をしなければならないことを改めて悟ったのであった。

日本人会の厚意により全員朝食を済せた後今度は國内の普通列車に乘替えてハルピン向けて出発し、避難第2日目の午后ハルピン駅に到着すると、駅は各地からの日本人避難民でホームは、ごった返しの混雑ぶりであった。

哈爾濱駅

ここで会社幹部は避難先の宿泊地の交渉をするため駅長及市の有力者と話合い、駅前の日本人経営の映画舘に決定した。
まづ映画舘の觀覧席の椅子を全部取払い、傾斜のある床面に市の日本人会より寄贈を受けた毛布を敷きつめ、炊事用に応急のカマドと大鍋を準備した。
ここで我々100名近いジヤライノール避難民一行が、8月15日の終戦宣云までの5日間を過したのであった。
ところが私はこの映画舘へ仮泊した第1日目から風のためが、発熱し食慾もなくなり、5日間を映画舘の観覧席の床上に敷いた毛布にくるまり寝た切りの状態で過した。

そしていよいよ終戦宣云の8月15日を迎え、我々はこの映画舘は満人に接収されることになり、会社幹部が市の日本人会と話合いの結果、この映画舘より、市の郊外に在る日本人住宅地区の白梅小学校という処へ移ることになった。

それで16日に全員が、この映画舘より白梅小学校※注2へ移動したのであるが、私は熱が下らず遂に38度台にも上昇し、この5日間、食事らしい物も口にせず、寝てばかりでおった為、歩行も困難となってしまった。
それで心配してくれた幹部の者が市と交渉の結果、駅前に在る満鉄病院へ入院の手配をしてくれたのであった。

哈爾濱満鉄病院

満鉄病院は、近代式の大きな病院であったが、この病院の醫師、看護婦は終戦宣言による満人達の暴動と略奪を恐れて全員退去し、動きのとれない日本人入院患者5、6名だけが、この広い病院の病室に家族の着添いで入院している位のものであった。

その病室の中に私1人だけが、1室を占領した形ちで入院したが、会社の同僚達が1日数回交対で白梅小学校から食糧を持参し、様子をみに来てくれたが、私は薬も、醫師の手当も受けることなく、終日、水を呑み乍ら、うつら、うつらとしてベットで寝ているだけであった。

こうした日を過している内に忽ち10日間程過ぎた8月末に、ソ連軍がハルピンへ入城して来るという噂が出た、その入城前日夜私は相変らず、ベットで夢、うつつのような状態であった。
その枕元へ、日本軍の将官で参謀の肩章をつけた少将及大佐級の軍人が3名立ち、私に向い、「この度の大戦は私共の作戦未熟のため敗戦となり、大勢の皆様に迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます」と、只それだけ云うと敬礼をして部屋を出て行った。
それを私は熱にうかされ乍らも不審な思いで考へ続けている内に夜が明けると同時に気がついてみると、私の38度以上にも上昇していた熱が平熱近くに引いていたのには驚いた。
この事は後日誰れに話しをしても信じてもらへない事ではあるが、私自身が、今もって不思議でならないことである。

 

※注:写真出典「【戦後70年】長崎原爆、ソ連参戦 1945年8月9日はこんな日だった」満州に侵攻するソ連軍

※注:写真出典「平和ミュージアム 旧日本陸海軍博物館」九四式六輪自動貨車

※注1:◆判読不能

※注:写真出典「満洲写真館(ハルピン その5)」ハルピン駅

※注2:この白梅小学校には俳優の宝田明さんが在籍していました。(昭和20年8月当時小学5年生)
(※残念ながら白梅小学校の画像は発見できませんでした…。)

※注:写真出典「ヤフオク! 戦前絵葉書 満州 哈爾濱 満鉄病院 トキワ百貨店刊行 風景 建物 車」哈爾濱満鐵病院

※参考画像:現在の哈爾濱駅(写真出典:Wikipedia ハルビン駅

 

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別館 陸軍主要兵器写真館

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