引き揚げ(1) ~満州編7-1~

18. 日本への引き揚げ
哈爾濱新市街秋林百貨店前景
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日本引揚準備に入る

その後私と古田氏は、何もすることがなく、只毎日、ブラブラとハルピン市内を見物して歩く日が続いていたが、やがて8月末となった項、ハルピン市の日本会より、引揚開始は9月初めになる見込みなので、その準備に入るよう通達があった。
それには引揚者全員氏名を記載した名簿5通及軍隊同様隊編成とすること、日本へ持返る金は大人1人1、000円まで、乘船途中までの食糧は隊において準備すること等であった。

それで野口支店長は、早速銀行の幹部連を召集し準備打合せを行った。

その結果、この拓銀社宅はハルピン引揚第3大隊という名稱の元に大隊長は野口支店長、その下に中隊長3名、これは各地支店の支店長、更にその下部に小隊長9名、その外に書類関係や各隊長との連絡、及共産軍との連絡に大隊付き2名という人員構成が決った。

記述忘れをしていたが前述の7月初めに行われたハルピン在住の日本人避難民に対する國府軍の労役召集であるが、私が参加して第3日目に突然作業を中止し、ハルピンに帰還した件についてであるが、私達が労役中、國民党軍と、共産党軍が協議の結果両軍間に停戦協定か結ばれ、國民党軍は満洲を引揚げ中國に戻り、代って共産軍が全満洲を支配することになったのであった。
それで現在は國民党軍に代り、共産軍が全満洲を支配することになり、協定成立と共にハルピンへも共産軍が進駐して来たのであった。
共産軍が入れ替ってハルピン駅頭に到着する日、暇を持て余していた私と古田氏は、それを見るため駅へ行き列車から降り立った共産軍が隊を組んで市内を行進している状況を見たが、兵士は上、下一様に階級章なしの緑色の軍服と、軍帽であった。
只隊列の先頭に乘馬姿の兵がいたが、これが上級耺であろうと思われた。
又その中に私達が風邪を引いた時につける白い布マスクをつけた兵が5、6人見受けられたが、これは終戦後、中國に進駐していた日本軍の中から共産軍に入党した兵が相当数居るという噂を聞いたことがあったが、これがそれらの人々であるようであった。

さて第3大隊の編成は、一応これで決ったのであったが、最后に一つ残った問題は隊付き2名の件であった。
その中の1名は東満密山支店に居た小橋という25才位の独身の青年に決定したが、残る1名が仲々決定せず、遂に支店長の独断で、それが私に廻って来たのであったが、しかし私は熊谷さん婦人との約束があり、それを辞退せざるを得なかった。

ところが支店長の野口氏は、今度は鋒(ホコ)先を変えて、熊谷婦人に頼み込んだ。
それで婦人は外ならぬ支店長の頼みとあらば断る訳にもゆかず、承諾をし、結局私は、熊谷婦人との約束を果たせず、引受ける結果となってしまったのである。

隊事務所は支店長宅の一室を解放して、その部屋で私と小橋氏の仕事が始った。
まづ最初に名簿作成から始めることにし、全各隊長に集合してもらい、各隊受持ちの人員名を提出してもらい、それを元に名簿造りに入ったが、約200名からの人員名と、元居住地、引揚後の定住地、家族構成、元耺業等を現在のように復寫器もなく全部手書きであったので、2人でこの名簿作成だけでも数10日を要した。

野口支店長は年令50才を過ぎ奥さんの外に20才、18才の娘と13才の男の子の5人家族であったが、支店長及婦人の2人共、当時珍らしく大学出で、娘2人は高女卆、息子はまだ小学生であったが、娘2人は美人で息子も又色白な礼儀正しい育ちの良さを伺えような子供達であった。

私達2人は終日この野口家で過すので、何時しか、この子供達とも仲良しとなり、私のことを「ノーさん」小橋氏は「コバちゃん」と呼ぶようになり、後日引揚後も、この3人から頼りが来たもので、この人達の引揚地は九洲熊本であった。

又同僚の小橋氏は香川県出身で、長身、丹誠な美男で、私はこれ程の体格でよく召集を逃れたものだと思ったことがある。
又この青年は筆字が非常に上手で、引揚の際私共が貰った大隊長名入の感謝状は全部この小橋氏の筆によるものであった。
卆業校は確か専問学校出ということであった。

8月1杯続いた名簿及その他の打合せ事後処理も片付いて第3大隊の出発は9月5日と決定した。

 

※注:写真出典「絵葉書 ハルビン」ハルピン新市街秋林百貨店前景

※参考画像:本文とは関係ありませんが、見出し写真の建物は現存します。(改築または立て直し)
(写真出典:《在大森林里的小夏天找到我的小确幸》中提到的 秋林公司 攻略

 

ハルピン駅より引揚開始となる

哈爾濱駅

初秋を感じられるようになった昭和21年9月5日は天高く澄み切った晴天であった。
背に手に出来る限りの荷物を持った拓銀社宅一行の約200名の人達がハルピン駅前広場の地面に腰をおろし、発車1時間前から待機した。
時間は午前10時項で、乘客整理のため共産軍兵士1ヶ中隊程の人員がテントを張って整理に当っていたが、その中から階級章をつけていないが、下士官と思える1人の兵士が私の側へ来たので、何事かと思っていると、その兵士のいわくには、私に共産軍に入隊しないかと、勧誘に来たのであった。

それで私は、その意志がないことを云って断わったので、その兵士は一応帰って行ったが、それから間もなく今度は別の兵士が又私の処へやって来て前回の兵士同様熱心に入隊をすゝめるのであった。
それで私は考へたことは、日本内地に帰ってみたところで、今後特別に変った事もなし、この兵士の勧誘に応じて共産軍に入隊してみようかと思い、古田氏に相談をしたところ、普段の古田氏に似合わず、顔色を変えて反対をするので、私は自分の考へを改めて思い直し、その兵士に勧誘を断わったところ、その兵士は仕方がないと云ったような顔付きで振り返り、振り返り自分の受持ち箇所へ戻って行ったのであった。
それで私は改めて何故私ばかりを目指して入隊勧誘に来たのか、幾等考へても判らずに終ってしまった。

次に引揚者は日本へ持って帰へれる所持金は1人1,000円と限定されているため、興銀関係の人達は途中で使用する金以外は全部大隊へ寄附してくれたので、その金で引揚最終地の錦洲・コロ島までの経費として使用することになり、各小隊毎に途中の食糧品や炊事用具を買い準へたのであった。
後は各自が持てるだけの衣類や必要品を携行し、熊谷さん家族には古田氏が同行し、それらの物を約束通り盛岡まで運搬することになった。
私は熊谷さん家族との約束は反古になったので自分の途中で食べる嗜好(シコウ)品だけと、大隊で使用する事務用品類をリュックに詰め込んだだけであった。
又我々大隊役員は大隊長、中隊長、小隊長、隊付の4種類の腕章を各自毎につけた。

やがて定刻午前10時第3大隊の出発となり、列車は無蓋貨車10輌の外に箱車1輌、を連結して1年間過したハルピンを後にした。
箱車1輌には共産軍兵士10名が同乘した。

貨車

貨車は側板の低いもので、中央に各自の荷物を積み上げ、我々は、その荷物に背をもたせ足を伸し、外方に顔を向けた姿勢で乘車した。

ハルピン駅を出発した列車は南方に向って約1時間程走って名も知らない小駅に停車し、ここで約1時間停車し、又走行し、又1時間程で次の駅で停車、これを1日中繰返し、夕方5時項途中の小駅で停車、これで本日の走向を終了すると共産軍の方から連絡が大隊に入ったので、その日は引込線に入った列車の片側線路側に炊事用の鍋、釜を下し、附近の石を拾い集めて積み上げカマドを造り、枯木を利用し火を焚き夕食の準備をし、持参の米、味噌で、お采は各自携行して来た物で食事を済せた。
この日の列車運行巨離は100Kにも満たなかったようである。
ところが我々の乘車して来た列車が引込線へ入ると同時に何処からか集って来たのか満人の物売り連中が多数列車の近くで食事のお采になる物や、菓子、果物類から煙草、チヤンチユウ(支那酒)まで売る店を出し始めたのである。
どうして列車が此処で停車をするのを知ったのか、その商魂のたくましさに驚かざるを得なかった。

夕食を済せた後は貨車の上で、又線路側の雑草の上で折りからの初秋の名月を仰ぎ乍ら、これから向う日本内地の話に花を咲かせて、その夜は貨車の上に積み上げた荷物に寄りかかって眠りについた。
翌日も又晴天で朝早くから眠りから醒めた難民は思い思いの仕度を準へ、朝食を済せ列車は午前9時項又南方を目指して発車をしたが、この日も昨日同様の繰返しを続け、僅か数10km走っては止りを続け、最終目的地コロ島へ到着したのはハルピンを出てから実に1週間目のことであった。
この巨離は普通列車で走ってもハルピン、コロ島間は1日で走れる巨離である。
それが毎日僅か数10km走っては止まり又数10kmの繰返しであった。
幸いこの間降雨にも会わず、無蓋貨車にも拘らず、無事到着出来たのは幸いであった。
又この1週間中、病人、怪我人等の事故者がなかったのも我々大隊役員にとっては何よりであった。

この列車には我々第3大隊約200人の外に他の地区の大隊も加っていたので、総勢約400人近い人であった。
そして同行の大隊には北東満地方の開拓団の人々も居り、私共大隊とは違い、この大隊の人々は所持金も少ない人々が多く、途中停車で満人物売りから買物をする人も見られなかった。
その為、私共はその人々に対して食事のお采になる物を買い與へたり、その外に持帰り金は限定されているので、所持金の殆んとは、この1週間中に使い果した格好となり、私もコロ島到着時には、1、000円※注1を残すのみとなっていた。

 

※注:写真出典「満州写真館 ハルピン その5」ハルビン停車場

※注1:1946年(昭和21年)の1,000円は、現在の価値に換算すると4万円くらいです。(※注2

※注2:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

※参考画像:現在のハルビン駅
(写真出典:AB-ROAD この駅舎を見て何を思う? 歴史の証人・ハルビン駅へ行ってみよう

 

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