満洲最終地コロ島に到着する
9月12日満洲引揚最終地コロ島に到着した。
駅に降り立って見ると、砂丘の広漠地に木造の小さな駅が1戸有るだけで、1方は海、1方は砂丘の地であった。
まづ駅前に集合した我々の目の前に現れたのは、7、8人のアメリカ兵であった。
私がアメリカ兵を見たのは、この時が初めてで、やがて整列した我々は噴霧器で頭からD.D.Tの粉を散布された。
これは集団生活者に発生するシラミの駆除が目的であった。
この薬の威力は相当な効果のあるものであることを後で知ったが、我々難民がハルピンで集団生活をした際に、このD.D.Tがあれば、あれ程多勢な人々が、診チブスで死亡することも無かったのである。
今更乍らアメリカの先進國振りを、まざまざと見せつけられた感じがした。
さてD.D.T散布を済せた後、改めてこのコロ島の地を眺めると、樹木の1本もない砂丘に壁のない屋根だけの細長い建物が数10棟立っていただけで、1方は砂丘の陸地と海との境いは厚い鉄板を打ち込んで、船は直接陸地に接岸出来るようになっており、その外にプレハブ式の2階建の建物が2棟立っていたが、これがアメリカ軍の宿舎であった。
後でその建物内部を覗くと、内部は昼であるにも、拘らず光々と電灯が光々ともり、ソフア、大型扇風機、電蓄、ラジオ、等が備えつけられ、夜は映画をも観られるようになっているのには、これでは日本が敗戦するのも無理がないような気がした。
又夜に入ると大型据付け発電機で、この港に証明設備用の電力がない所に不夜城のように船の接岸壁とアメリカ兵の兵舎を照すのであった。
又夜はこの照明の兵舎の中でアメリカ兵同志のダンスに興ずる様を見て我々は全く驚きを隠すことが出来なかった。
一方振り返って我々の宿舎は前述のように壁のない屋根だけで、床はコンクリートで少々の勾配がついているところを見るとこれは馬小屋で、このコロ島は馬の積出し港でなかったろうかと思われる。
この10数棟ある馬房にまだ数100人の先着の引揚者達が乘船待ちをしているのであった。
話に依れば引揚者達は大連、釜山、そしてこのコロ島の3ヶ所より、アメリカより借用したリバテー船と稱する貨物船を借用し、引揚者の輸送に当っている想であるが、配船の都合で、このコロ島からは週1回程より出航出来ないので、それでこのように帶留者が居るということであった。
さて我々一行は各小隊毎に別れて、この馬房に落着いたのであったが、この馬房の各所に粘土積みの応急カマドがあり、このカマドに先着者達が置いていった鉄製の大鍋が乘っており、これを利用してその日の炊事が始った。
此処では主食は高粱と味噌だけが、配給になり、後の副食物は各自が調達するので、例の満人の物売りが多数来ていたが、所持金を多少でも持っている者は、ここを前途と買って食べていたが、私も含めて金のない者は只それを指をくわえて眺めるばかりで、この地に帶留した2週間中、私はすっかり栄養失調証となり、乘船後は、船のタラップの上り下りにも足がふらついて苦労をしたものである。
幸いなことには、この地に帶留していた2週間中は降雨もなく、毎日海を眺めては船の来ることを待ち望んで過すだけであった。
この2週間中、船は4回程来たが、それは先着の人達に使用されるばかりで、後着の私達は只々それを見送る役ばかりであった。
書き忘れていたが、このコロ島の数10棟ある馬房の各所に裸の水道栓だけが立っていたことである。
それでこの地に帶留中に水に不自由をすることはなかった。
しかし私は、それを見て不思議に思ったのは、これの水源地が何処にあるのだろうかと云うことである。
見渡す限り砂丘と海だけで、山らしいものは無く、一体何処からどうして、水を引いて来るのか、いまだにそれを考へることがある。
※注:写真出典「引揚船32隻の画像」コロ島埠頭と引揚者の列
我々の乘船来たる
コロ島では毎日海を眺めて遙か彼方の日本内地の生活を思いめぐらして過している内に遂いに9月も過ぎようとしていた時にやっと我々の乘船日程が決った。
これを決めるのは、このコロ島に日本人引揚連盟という、現在でいえばボランテアー組識の会があり、其処に数人の日本人だけが、アメリカの援助で1棟バラック式の小棟を建ててもらい、食糧その他一切をも受けて、アメリカ軍と、連絡をとり乍ら引揚業務を行っていた。
そこから引揚乘船日の通知と、その外に今後冬期に入るため、後続の引揚者のために、その準備作業をするためこれから引揚をする人の中から5名、残留してもらいたいとの申入れがあった。
それで私共大隊役員で相談の結果、單身者で年令40才位の者ということで名簿中から選考して古田氏外4名が決定したのであった。
それで私は熊谷さん婦人にその旨を伝え尚、今後は私が古田氏に代って荷物の運搬をすることにして了解を得た。
乘船日は10月2日、午前9時より開始された。
船はアメリカの2、000屯クラスの貨物船であった。
船員は総て日本人で、船の内部を三段の棚式に仕切り、甲板にトイレ数ヶ所、炊事場を設けたものであった。
全員乘船完了午前11時出航となった。
この日も晴天で海は波一つなく穏やかな出港日和となった。
乘船の人々は殆んと全員甲板に出て、今まで過して来た満洲最后の地を感慨深く見入るのであった。
※参考資料:葫芦島在留日本人大送還
引揚船舞鶴に着く
航海中事故もなく船は翌日午后2時項、九洲舞鶴港(※注1)へ入港した。
船が舞鶴港近くに接近すると、全員甲板に上り、刻一刻毎に近づく舞鶴の港を見入った。
この日も晴天で、船は少しの搖れもなく、気温30度近く、段々として目に入ってくる白砂青松に思い思いの感嘆の声を揚げたのであった。
私達はこれ程心の底より感激したことはなかった。
それは数年に亘って生活を続けて来た満洲の拡野と、1年間に亘る敗戦による、みじめな生死の境をさまよい粗食に堪えた思い出から解放されて生れ育った日本のこの美しい処に戻って来られたという心境は、引揚者の全員が感ずるものとみえて思わず目がしらを抑える者、万才という者が出る程だった。
やがて船内の検疫検査が終り、港側の引揚者掩護寮に入り、大広間の畳の上に仰向けに大の字になって、ひっくり返った時の気分は正に天國であった。
夕食は6時で第3大隊全員が揃って大食堂のテーブルに着いて、麥混りの白米の飯に日本の本当の味噌汁、漬物、魚付の食事に心からうまいと感じた。
食事の後は街へ見物や買物に出る者、又数人のグループで茶を呑み乍ら思い出話やこれからの帰郷先の故郷の事やらで消灯の10時まで話はつきなかった。
第3大隊役員も全員集まり、大隊長(支店長)より役員一同に対して感謝状が配られ、又私と小橋氏で余分に作成しておいた引揚者全員の氏名引揚先を記載した名簿を配布して役員全員から喜ばれた。
次に引揚の際、このことを予期してハルピンで仕入れて来たチヤンチユウで祝杯をあげた後は各自夫々の思い出話に花が咲き10時消灯まで続いてやっと日本帰還第一夜の床についた。
翌日は引揚掩護局から来た係員から行先まで無料乘車券と、無料電報券を全員が貰い、各自舞鶴駅より、別れを惜み乍ら出発した。
私は、これでやっと自由の身となれたので今度は約束通り熊谷さん家族の荷物を背負って舞鶴を発ち途中列車内で一泊、翌日夕刻、熊谷さん家族と盛岡駅で別れを惜み、私は翌々日夕刻幌内へ帰着したのである。
※注:写真出典「引揚の様相-1- 引揚船のリスト」平桟橋
※注1:舞鶴は九州ではなく京都府にあります。
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