帰郷 ~北海道・幌内編1~

19. 幌内への帰郷
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幌内帰着する

幌内では初めて兄嫁登代さんと面会した。
兄と新婚生活僅か2ヶ月であったが、兄が出征後誕生した征一が居り、義父、母とも変りなく、家に只一人残った妹キミも変りなく相変らず岩見沢へ通勤々務をしていた。
日本は終戦後すべてが統制されて窮屈な生活を強いられていたが、家では毎食白米で割合いぜいたくな生活をしていたが、これは義父が賭博で少々儲けているらしく、案外予裕のある生活をしていた。

私は家へ帰着してから暫くの間は、引揚げの際知り合った人々や、野口支店長家族、役員の人々、熊谷ハナさん江利山さん等から便りを戴いて、その返書に忙殺されて、それが一段落してから與五郎叔父宅を訪問したり等をして日を過していた。
その項叔父は少々ボケ気味で感状を現わすこともなく、無口な人となっていた。

 

本洲訪問旅行をする

家でぶらぶらと10日間程過していた或る日母が突然、大荒沢へ行ってみて来てはどうかと云って旅費をくれた。
これは在満当時古田氏の旅券の件、等で大荒沢の叔父には大変迷惑をかけたことを気にしてのことだろうと思い、私は早速1週間の予定で出発した。
大荒沢に2日宿泊し3日目に盛岡市に住む熊谷ハナさんを訪ねてみた。
ハナさんの姉は引揚後、子供2人を連れ、仙台市に住む主人の実家に居住しているとのことで会えなかったが、ハナさんの両親は共に50才を過ぎた小柄な温和な人で父親は盛岡駅に務めているとのことで、その晩は物資不足の折柄であり乍ら隨分と馳走になり、翌日はハナさんに送られて駅まで来て、浅岸へ向った。

浅岸

これは幌内を出る時に浅岸へ連絡をしておいたからである。
浅岸の叔母とは先に私が朝鮮から二度目の帰郷した際連絡を取り合って、盛岡で会い、昼食を街の食堂で馳走になったことがあり、今度は私が直接家を訪ねることになったのである。

浅岸という所は盛岡と太平洋岸の宮古を結ぶ山田線という路線で、宮古へ出るまでは平野の無い山ばかりの鉄道でトンネルだけでも10ヶ所近くあるところであった。
その中で盛岡から浅岸まででも長いトンネルが4ヶ所もあり、山田線というよりも山中線と云った方がよい位、山中を走る鉄道であった。

そしてやっとトンネルをくぐり抜け浅岸の駅に着いて駅の鏡を見ると顔が黒く煤けている程で駅の洗面所で顔を洗い、駅員に工藤と名前を云って訪ねると駅のすぐ近くの下方を指したので良く見ると駅の坂を下った所に幅3m位の小川が白い飛沫をあげて流れている川の一段高い所に一軒だけ大きな建物があり、そこだと云うことであった。

浅岸叔母宅

駅はこの山中の一段高い所にあり、駅前の坂を下って少し行くと川岸の岩石に急流が打ち当り、音を立てて流れている川に橋があり、それ渡ってすぐ山の手の中に此の附近では大きな家が一軒あった。
これが工藤ノヨ叔母の家であった。
その叔母の家から下流に下った所に人家が5、60戸あり小さな店や郵便局まであったが、とにかく巨大な山林にかこまれた部落で、その中で代々山林地主として続いた工藤家があった。
叔母の家の間取りは広い玄関を入ると10帖程の居間があり、昔ながらの大きないろりに自在鍵が下ってそれに南部鉄瓶が、かかっていた。
この居間の外に8帖、6帖の部屋が5室あったが、何れも現在使用されておらず居間の隣りの8帖には大きな佛壇があり、壁には夫、娘、息子3人の遺影が掲げられていた。
この広い家に叔母1人が暮しているのであるが、昔の女性の強さに打たれた感じであった。
その晩は数々の山菜料理を馳走になり、夜の更けるのも知らず話は昔話しから亡くなった家族のことからで語り合い山家の川の流れの水音を聞き乍ら寝についた。

翌日は昼食を済せた後、別れを告げ大荒沢へ戻り一泊した後、次の予定地である青森へ夕方致着した。
これも文通の結果、是非に会いたいという江利山さんとの話合いの結果で、駅に江利山さんが出迎へに出ていてくれ、その日は青森市の郊外で農家をやっている江利山さんの妹の嫁ぎ先に一泊した。

妹さんの家は青森駅前発のバスで約15分の処にある大きな農家で主人なる人は召集で不在、家には義父母と6才位の女の子の4人暮しで、江利山さんの両親は亡くなり、結局妹の家に引揚後同居していた。
この家の両親は共に70才近く小柄夫婦で実直そうな人で又妹さんも江利山さんそっくりで身長の高い美人顔の人であった。

その晩は全員一諸に食卓についたが、大変なもてなしようで義父なる人は酒好きとみえて自作のドブロクで、私も他家にいることも忘れて遅くまで馳走になり、翌日は又江利山さんに送られて青森駅から連絡船で久し振りに本洲旅行を楽しんで幌内へ帰ったのであった。

大荒沢地図

藏吉叔父の家について書き落したが、大荒沢は人口僅か2、000人足らずの所で、両側は山での間を黒沢尻、と横手を結ぶ横黒線が走っている東西に細長い平地のある処であった。
そしてこの細長い平地と平行に幅約4m位の川が流れていて、それをこの大荒沢でせき止めてダムを造る計画があるような処でもあった。
叔父の家は駅の直ぐ側にある3軒続きの鉄道官舎で部屋は台所、トイレの外に6帖1間と4、5帖1間だけで良くこの狹い家へ家族7人が住んでいたものだと思う程であった。
叔父は酒は一滴も呑まぬ人で私はこの家へ3日間危介になったが、帶在中は気を使って3日間連続近くの温泉へ案内してくれた。

叔父は鉄道工手長を務めており、この横黒線の線路保持の責任者で性格は温和で眞面目な方で盛岡鉄道管理局の信用もあるとみえて、男の子2人は既に國鉄就耺が内定しているということであった。

私が3日間叔父宅に帶在中、大荒部落の人々が次から次へと訪れて来て、野中さんの息子さんが来ているという話を聞いたのでと、云って手土産持参で来るので、後で叔父に聞いてみると、昔菓子屋営業当時世話好きな父が、いろいろと面致をみたと人達だということであったが、田舎の人達の義理固さをつくづくと感じた次第である。

 

※注:写真出典「わが国のスイッチバック型停車場2:東北編 浅岸

※注:画像出典「村影弥太郎の集落紀行 ◆大荒沢(おおあらさわ)

 

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わが国のスイッチバック型停車場2:東北編 浅岸

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