私の旭川師団へ入隊
そうしている内にやがて、その年も終り、昭和12年1月20才となった私の入営の日がやって来たのであった。
この時、幸いだったのは兄が秋項から病床を離れ毎日続けていた痛み止めの注射の必要もなくなり、ぶらぶらと乍らでも外出できるようになったことである。
私の入営前日の9日は、茂尻より與五郎叔父と中富良野の姉が来てくれ、その日の夕方は耺場や近所の人も集り、入営祝いで狹い我が家は満員の状態であった。
そして10日の入営日である。
その当時、毎年の入営者は幌内でも1人乃至2人位のもので今年のよう5名の入隊者があったのは初めてであった。
それで見送人も小さな幌内駅を埋めつくす程の人出で駅長が、駅周辺の柵を取り払って、駅改札口の前面に石炭を積んだ貨車を配置してくれ、私共5人は、その貨車の上に立ち並び、代表で私が見送り人に対し挨拶をしたのである。
これは幌内の在郷軍人の分会長がどういう訳か代表挨拶を私に決めたからである。
この時の寫真と記事が当時の北海道新聞の前身である北海タイムスに掲載されたのであった。
当時の旭川第7師団というのは旭川に第26、27、28の3歩兵連隊(1連隊1,000人)の外、騎兵、工兵、こちょう兵、野砲兵、衛生兵の各連隊があり、札幌月寒に歩兵第25連隊があった。
其の日の入隊者には2名の家族が縁籍者の同行が許可(入営者は勿論同行者2名の交通費及宿泊費は村役場の負担)されていたので兄と中富良へ帰へる姉の2人が着添い指定の師団近くの旅舘へ宿泊した。
翌日は晴天であったがマイナス30度の寒さで第27連隊の営庭に集合した私や着添人は、この旭川の寒さには驚いたものであった。
私は入隊式の始まる前に私の所属する第27連隊第2中隊第1班の班内に案内され、そこで私服と軍服の着替えをし私服は風呂敷包みにして入隊式開始前に兄に手渡しをした。
やがて午前10時より寒烈身の凍るような営庭で27連隊長根本博大佐の挨拶で1時間に亘る入隊式が終り、各見送り人とここで別れ私は愈々一つ星の肩章をつけた兵士となったのである。
この日は兄は私の着替えを持って中富良野には寄らず、そのまま幌内へ帰り、姉は中富良野へ戻ったのである。
入隊式の終った後の我々は連隊内部を案内説明を受けその日の夕食は尾頭(オガシラ)付きの魚やその他の馳走でお客様待遇であった。
内務班の人員数は12名で、この外に班長(伍長)が居るが、班長は別室で、12名の内訳は古年兵(2年兵以上)が6名、新兵が6名で、古年兵の中には上等兵が2名後は2年兵の一等兵であった。
そして我々新兵6名に各1人づつ古年兵の戦友が決っていて、新兵に対していろいろ教訓?をたれてくれるのであった。
私の戦友は幾春別出身の上等兵の佐藤という人であった。
食事は各班で2名の炊事当番というのが決っており、中隊内の炊事室からバケツに麥の混入した麥飯と味噌汁、副食物を入れ運んで来て各人班内の長テーブル、長椅子で食事をし終ると又当番が炊事室へ空になったバケツ3ヶと麥茶を入れて来た薬罐(ヤカン)を返納して来るのであったが、これは3日間我々新兵に代って古年兵がやってくれた。
又我々はこの班内から1歩でも外へ出る場合は必ず大声で「何々二等兵は側屋(ガワヤ)(トイレのこと)へ行って参りますと叫んで敬礼をして帽子を覆って行くのであった。
午后6時の夕食後は午后10時消燈で消燈前中隊の当番兵が「各班点呼」と叫んで歩くので我々は班長を入れて1列横隊に班入口前の廊下に並ぶと、当直士官という少尉がやって来て、その士官に班長が全員12名異状ありませんと報告し、終ると班長は自室に引揚げ、その後我々はベットにもぐり込むのであった。
午后6時の夕食後からこの点呼の10時まで、時間があるので、古年兵達は我々新兵に対して、家庭のことやら、入営前の各人の経歴等を質問したりして時間を潰すのであったが、これは最初の内だけで、それから以後は古年兵の意地の悪い連中は初年兵いぢめをやるのだそうであるが私は幸いにして即日帰郷となったばかりに、その経験がない。
入営翌日から我々新兵は3日間の体格検査と入営前に受けた訓練の査定が始まった。
体格検査は入営前年の春、受けていたが、その再検査である。
又訓練査定というのは、入営前旧制中学以上の者であれば必ず学校教練という制度があり、学校付きの予備将校から軍事教練を受けているし、又それ以外の者は居住地の所で在郷軍人分会というものがあり、その分会教官(予備将校)から軍事教練を受けているので、それらの結果を見るために行うものであった。
尚私は入営2日目の夕食が終った後、人事曹長室に呼ばれた。
この人事曹長という人は兵卆から永年軍隊生活を続け、兵卆としては最高級の曹長まで昇格出来るが軍隊生活が長い為、年令は50才近くなり、この人は主として兵卆達の家庭事情の調査や兵卆達の素行を調査するのが主であった。
私の家庭事情や本人の素行については、既に幌内の在郷分会長(予備少尉)より調査書が届いている筈である。
そしてその曹長が私に向い、どうだお前は看護兵志願をしないか、ということであった。
ここで陸軍の看護兵について説明するならば、師団の所在地には必ず陸軍病院というものがあった。
この陸軍病院というのは規模は地方の大病院に必適するもので、建物、設備共総てが準っていた。
又医師も資格に応じて少尉から少将級まであり、看護婦も日本赤十字看護婦といい、腕章に赤十字の印をつけていたものである。
この病院の入院患者は総て軍関係者で内科、外科は云うに及ばず各科が揃っていた。
それでこの病院の医師、看護婦の外に兵卆で看護兵という兵科があり、この看護兵というのは戦地では負傷兵の応急手当をしたり野戦病院の看護婦代りを行うための兵科であった。
その為に入隊した新兵の中から比較的小学校の成績のよい者を選んで各中隊1,200人の中から10名程度選抜されるのであった。
そしてこの看護兵は第1期の軍事教練(3ヶ月)が終った後、毎日現在の班から陸軍病院へ通勤しその代り軍事教練はやらくともよく、病院で看護婦同様の勤務と、学科教習を受けなければならなかった。
それだけに1年半の兵役を終えて郷里に帰へる際は間違いなく上等兵に進級し、上等兵の肩章をつけて帰へれるのであった。
この上等兵という階級は、一般入隊者にとっては、あこがれの的(マト)であった。
それは1ヶ班12名中2名乃至3名よりなれなかったものである。
隨って1、5年の兵役を終えて郷里に帰へるものは上等兵で帰って来たという場合は家人の者は勿論、本人も鼻高々なものであった。
それで私は即座に承知した旨を答えて内務班へ戻った。
※注:写真出典「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」旭川第七師団司令部
参考資料:マンガーグラウンド:『ゴールデンカムイ』第七師団はなぜ陸軍最強と呼ばれたのか?
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