佐藤商店を退耺し幌内炭砿に就耺をする
私が佐藤商店に務め、学校も1ヶ月後に卆業出来るという2月初めに、私をこの佐藤商店へ世話をしてくれた友人の沼田より連絡があり、幌内炭砿へ就耺しないかと勧誘の連絡があった。
沼田は既に務めていた札幌の店を止めて親元の幌内へ帰り、幌内炭砿の選炭工場の事務所の給仕を務めていた。
そして私によこした連絡には、但し、仕事は選炭工場の選炭夫であるが他にも希望者が居るので2月10日まで返事をくれということであった。
その連絡を受けて迷ったのは学校の卆業式が3月5日なのでそれまで在籍しておらなければ卆業証書を貰えないことである。
それで隨分と私は惱んだが考へてみると、その当時旧制中学を出ても中途半端で社会へ出ても、良くて役場の書記か、企業の帳場、炭砿の現場助手が関の山であった。
それで私は意を決して卆業証書を放棄して幌内へ就耺するべく佐藤商店を退店し、2月10日に間に合うように幌内へ帰ったのである。
その項の社会状勢は、昭和7年に勃発した満洲事変(※注1)は拡大の一途を辿り益々進展し、それに伴い戦争に必要な輸送力を増すため石炭の需要が盛んとなり、この項になって炭砿は再び活気を取戻し、炭砿作業員の新規採用を始めたのであった。
私は3年振りに家へ帰り炭砿の選炭工場選炭夫の耺名で働くようになり、賃金は60銭位だったと思う。
その項家では義父は例の通り小樽通いで兄は相変わらず出稼不良の坑内夫で、妹千代は小学校6年を卆業して弥生炭砿の母の知人が開業している市街地の飲食店の住込みに入っており、ハナも同様小学校を卒業したばかりで、直ぐ千代と同じ店で仂き結局家には義父を含め5人家族となっていた。
※注1:満州事変が勃発したのは1931年(昭和6年)9月18日です。
※注:写真出典「三笠鉄道村 幌内歴史写真館」幌内炭山中央周辺(昭和10年頃)
選炭工場について
私は2月10日から愈々幌内砿業所坑外選炭夫という耺名で働くようになった。
この選炭工場は地形の落差を利用した所に建てられた坑外施設としては大きな建物で4段階に大別することが出来た。
まづ最上階は布引坑という坑口から約2キロを採堀された石炭を炭車に積んでそれを10数輌電車で、この選炭工場まで牽引して来て、又もう一坑の養老坑という坑口からはこの選炭場までエンドレス(循還式運搬機)1キロの巨離を石炭が運搬されてくるのである。
それを最上階でチップラーという返転器にかけて石炭を下部のポケットにあけると、その石炭はポケット出口にあるスクリンにかけられて粉炭のみが下部のポケットに入り、後の大きな石炭は、長さ10m位の幅2m位のベルトの上を流れて来るその両側に選炭婦が立ち並んでいてその石炭を選別するのである。
そして選別された石炭は大、中、小、粉と分けられポケットに入り、そのポケットの下部に積込夫が居て、これを鉄道専用の貨車へ積み込むところまでが選炭工場の耺務範囲である。
私の仕事は上部ポケットよりベルトに流れて来る石炭の中に岩石又鉄材が混じっているので、それらの重量物を取り除くのであるが、この選別用ベルトが3機あるので、私と同様の20才前後の男の子が他に2人居り3人で各ベルト別に分かれて作業をするのであった。
石炭を選別する選炭婦という人は30人程居り、年令別では16才~25才位までが最もく、その外に50~60才位の人が5、6人居り、服装は全員、姉様かぶりと云って手拭いを頭に冠り、カスリの筒袖の上着とモンペ(ズボン)を着て、足は地下足袋であった。
その外に上着の襟元に眞白な手拭いを折りたたんでつけ炭塵が入らぬようにし、トイレと洗面所は建築物の外になっているので、若い娘達は仕事の合間をぬっは洗面所に行っては化粧をしてくるのであった。
このように婆さん選炭婦を除いて年項の娘が多いので選炭作業中手を動かし乍ら機械の騒音中、又休憩時間中、娘達が唄う流行歌が絶えず流れていたものでそれにつられて私もこの選炭場で隨分と流行歌を覚えたものである。
こうして炭砿の作業場としてこのような華やかな賑々しい耺場は他になかったものである。
この選炭婦の中に水林ツナという50才を過ぎた肥満タイプで目の大きな人が居たが、この人はこの選炭場では最も古株で、この若い娘達の総監督的立場で、この人には選炭工場の係員(耺員)も一目(モク)置いているような人であった。
前述のように姉ツナもこの選炭場には1時仂いたことがあったが、その時に、この水林さんに隨分目をかけられたことがあったように、その姉の弟であるということからか、私もこの水林さんには隨分と世話になったものである。
私はこれが縁で、その後も交際の続いた人であった。
私が、この選炭工場へ仂くようになって忽ち1年を経過したかその間に兄が腎臓手術で入院したり、又坑内作業中落磐事故で負傷し、寝た切りの状態になったりで遂いには炭砿を退耺するところまで来て、私は何時までも6、70銭の安い賃金で選炭工場へ務めておられなくなったのと、私も早や20才近くにもなり、早々に耺場転換を考へるようになった。
坑内夫として稼仂する
それで私の考へたことは、どうせ一生炭砿生活で終るのであれば最も賃金の高い坑内夫になろうと思った。
しかし、それにしても誰れにも相談する相手もなし、1人で惱んでいたところ、私がこの選炭工場で仂いているこの工場に岩崎という年令30才位の独身の係員が居たが、その岩崎という人が、どうしたことか私に目をかけてくれていたので、その人に相談をしたところ、その人の縁続きで目下この幌内砿の砿長である折目(オリメ)と云う人に話をしてくれたところ、直ちに養老坑という坑口の坑内員に転耺させてくれたのであった。
耺種は坑内堀進夫という耺種で坑道の岩石を堀進する作後の後山(アトヤマ)で日給1日20銭ということであった。
私は選炭工場の二倍に当る賃金で、これで少しでも家の役になれと喜んで坑内稼仂を続けたのである。
この堀進作業と云うのは坑内の岩石中に坑道を設けるための作業で火薬を使用して岩石を破砕したものを炭車に積み込むもので仲々の重労仂であった。
やがて私は、その年の春19才を迎え、岩見沢の小学校で岩見沢管内の徴兵検査が実施された。
そして私は甲種合格となり、明年1月10日、旭川第27連隊(※注2)へ入営することが確定したのであった。
これには私も喜んでよいのか、どうしてよいのか複雑な気持ちにならざるを得なかった。
その項の社会は、軍國主義社会で、軍人第一と云った風習があり、軍人といえば何処へ行っても歓待されたもので私が甲種合格になったと云えば一般の者が見る目は違って来るのであった。
しかし私はそう云って喜んでばかり居られなかった。
まづ第一に考へることは家の経済状態である。
兄はまで完全に健康が回復しておらず、寝たり起きたりの状態で、義父は小樽の積取船の稼仂をまだ続けてをり、母は土木の日雇い作業に先方からの要請のある時だけ出て行く程度であった。
結局私の坑内稼仂が主力であっただけに惱んだのであるが、しかし私の入隊だけは例え誰れに頼んでもこれから逃れる術(スベ)はなく、後は成行(ナリユキ)に委せるより外に方法がなかった。
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