即日帰郷となる
ところが私が第3日目の教練査定を受けていた営庭に連隊長付きの当番兵が私を呼びに来た。
何事であろうと私は当番兵に從って連隊長に入ると、連隊長は私に向い、今日は総ての査定が終了したが、お前は体格検査の結果、ツイカンバン、ヘルニヤであることが判明したので、兵役は翌年廻しと決定したので本日を以って即日帰郷を命ずる。ということであった。
それを聞いた私はその場へヘナヘナと崩れるよう座り込むところであった。
私は瞬間的に頭に浮んだことは、あれだけの盛大な見送りを受けて入隊したのに、僅か3日で、何んで皆に向って私は即日帰郷になりましたと云って帰へられようかという思いであった。
私のそうした様子を見た根本大佐は、慰めるようにお前はこれで永久的に兵役が無くなったのではなく又来年があるのであるから郷里に帰ったらまた再検査を受けて入隊するようにと云われて私は班に戻った。
班に戻ってみると既に班長は隊長から連絡を受けたとみえて班へ帰って来る私を待っていた。
一応私は順序として班長へ連隊長より申し渡されたことを申告すると、班長が云うには、もしお前がこのまま隊に残り、陸軍病院で手術を受け入院したなら、3ヶ月の基礎訓練に参加出来ず、他の者よりそれだけ訓練が遅れ、それを挽回するには並大抵の苦労でない。
それを考へれば翌年再検査を受けた方がお前の為でもある、と順々と諭され仕方なしに私は班長の言に從うことにした。
時間を見ると既に5時に近い。
班長は自から隊の会計係へ行って私の帰郷旅費と日当を受取って来てくれ、服装は二等兵の肩章と、帶劒を外し、後はそのままの軍服に毛皮のついた外とう姿で班の皆に送られて衛門を出た。
冬の日はトップリ暮れて暗くなり、私は今日中に幌内へ帰へることを諦らめて旭川駅近くの旅舘に入った。
旅舘で夕食を終った私は、果して来年の再検査に合格して再び入隊出来るかどうかは判らないので、入隊記念にと思い旅舘近くの寫真屋で軍服姿の記念寫真を撮り幌内へ送ってもらうより話をつけて旅舘へ戻った。
翌朝朝食を済せ旅舘を出た私は駅までの道すがら、ふと中富良野へ寄る事を思いたち9時丁度発の富良行に乘車した。
旭川を出た列車はやがて11時過ぎ中富良駅に当着したので、私は降り立って駅前から附近を見ると、駅前は商店やその他の建物が立ち並んでいたが、そこから前方は雪に覆われた平地ばかりで遙か彼方に山影が見える本当の農村地帶であった。
駅前の商店で村上家の所番地を聞いて教えられた通り、その番地に向っていたがようやく満目しよう条たる原野の中に1軒ぽつんとして建っている農家を発見し、近づいてみると村上という標札が軒先に下っていた。
家の中では広い土間で一家総出で農機具の手入れや整屯作業をやっていたが、初対面の軍服姿の私に驚いた様子であった。
初めて見るこの村上家の家族は老人夫婦と姉夫婦、それに次男、長女の6人であった。
父親は小柄な坊主頭の如何にも意地のありそうな顔付きの人で年令50才過ぎ、母親も小柄で、夫とは正反対の人の良さそうな顔付きで、次は姉の夫である正さんの印象は、これも父親似の小柄な坊子頭で、歯並びの悪い口であったが、母親に似て至極好人物的な温和な人であった。
次は正さんの弟で三郎さんという18才を出たばかりの人と、末の妹はミヨという16才位でこの2人は何れも農家の子弟といった特長のない極くありふれた感じの人であった。
早速座敷に招じ入られて改めて初対面の挨拶を交し、私は軍隊の検査結果を話しをしたところ、父親は速座に三郎さんを使って駅前の郵便局より幌内へ打電をしてくれ、又私の着用して来た軍服は、この村の便利屋という毎日旭川へ通う商売屋に依頼し、軍服を連隊へ届ける手配をしてくれた。
そして私は、この村上家に一泊した翌日の午后幌内の兄が電報を見て私の衣類一切を持って村上家を訪れ、兄も勿論初対面であったが一泊した後の翌日2人で幌内へ帰ったのである。
幌内へ帰った翌日私は恥を忍んで早速分会長の所と幌内砿業所の労務課へ挨拶に行き、私は引き続き元の養老坑の坑内夫として仂くことになった。
※管理人コメント:フクヲが入隊した歩兵第27連隊と数字一つ違いの歩兵第28連隊は、大東亜戦争のガダルカナル島の戦いに派兵され、その大半が戦死したということです。フクヲは戦地に派遣されることなく除隊となりましたが、もし歩兵第28連隊に入隊し派兵されていたら、今のマメコは存在しなかったでしょう。
※注:写真出典「NAVARまとめ「ガダルカナルの戦い」の旧日本軍の大敗北!一木支隊と川口支隊の全滅」
コメント