白梅小学校へ避難する
やがて午前10時項白梅小学校から同僚の者2名が、明日ソ連軍が入城し、その結果、病院をも接収することになることを知り、私のためにマーチヨ(馬車)(※注1)を雇って迎へに来てくれ、白梅小学校の皆の元へ戻ることが出来た。
これは後日聞いた話であるが、ソ連軍は日本が終戦宣言を出した後、東満、北満の國境地帶は、直ちにその日の内に浸入したのであったが、この西満地方だけ遅れた理由は、このハルピン市郊外にある、日本軍の物資を本國に輸送するため、その準備作業に追れた為だったと云うことである。
それは満洲國の鉄道線路の幅は、3フィトであるが、ソ連國は3フィト20糎であるため、ハルピンより本國まで物資を輸送するためには、まづ線路の幅を修正しなければならなかったのである。
それで、ソ連は満洲里駅よりハルピン駅までの間の数100kmに及ぶレール敷設に昼夜兼行作業を続けた結果だということである。
さて私の避難した白梅小学校は市の南方郊外に日本人だけが居住している地区があり、その中に、この人々の子弟を教育する小学校があった。
教室は6教室の小まんじりとした学校で、その学校の教室3教室を我々ジヤライノール避難民用とし、その他の3教室には北満地方より避難してきた人々が入居していた。
学校の炊事室には2組に別れ当番制として炊事を行い、教室の中の机、椅子は廊下側の窓側に積み重ね、場所を広くして、その床に日本人会より寄贈された毛布を敷きつめ着たままのごろ寝であった。
その項は9月の声を聞くと共に、そろそろ寒気を感ずるようになり、眞夏の衣装で出て来た私達には衣類が必要になったが、これら総て日本人会の在住者からの供出で何んとか間に合わせることが出来た。
私はこの白梅へ来てからは熱は降ったので、その方の心配はなかったが、何分約半月に亘って満足に食事をしておらないので、すっかり体力はおとへトイレに行くにも壁伝いに歩かねばならず、終日寝てばかりで過していた。
食糧は、会社より持ち出した金で、男子耺員が、交対で街まで買い出しに行くのであるが、驚いたことには、終戦宣言と同時に今まで統制品であった物が全部売り出され金さへあれば、戦前同様不自由な物が無い程になったことである。
※注:写真出典「太平洋戦争とは何だったのか」
※注1:マーチヨとは馬車の中国語(北京語)読み(Ma-che)です。
日本人狩りが始まる
進駐して来たソ連軍は到着翌日より早速ハルピン市郊外にある日本軍の貯蔵物資の本國輸送が始まった。
そしてこの物資の貨車積込みに日本人避難民を使用したのである。
その為、街を歩いている日本人及避難所からの徴用日本人と日本人狩りをやり出し、私共が入居している白梅小学校にもソ連軍が来て全員連行されてしまい、後に残ったのは寝た切りの私と、ジヤライノールから避難をして来た日本人僧侶と街に食糧買出しに出ていた小久保氏外2名計5名だけだった。
ソ連軍も僧侶だけには手を出さなかった。
それはその人が首から坊さんである身分を示すケサをかけていたからである。
こうして男子全員を連れ去られてしまった。
そして男子の全員に近い者達が居らなくなったその晩からソ連兵士達の避難所侵入と避難女子の強姦が始まったのであった。
それともう一つは男子が居らなくなって困ったのは、死亡者の墓穴堀りであった。
この避難所へ来てから集団生活による伝染病の流行であった。
発疹チブスによる死亡者(※注2)は老人、小児で、日を追うに從って毎日2人、3人と出るのであるが、それを埋葬する墓穴は校庭以外にはなく、固くなった土を堀り起すには少人数の残った我々には全く困難なもので、特に私は除外されていたが、それで4人の男にとっては食糧の買出しの外にこの墓穴堀りには、ほとほと音をあげた位であった。
又最初の死者の場合は棺にする板材もあったが、増加する死者に、その材料もなくなり、遂いには校庭外の凹地を見付けて、そこへ棺桶なしで埋葬するようになってしまった。
只その中で一つの救いがあった。
それは他の収容所と異って私共の集団の中に坊さんが居たことである。
この坊さんは、どのような成行からか、ジヤライノールの満人街の中で僧侶として生活しており、今度の難民として我々と同行して来たのであったが、死者の人達は、この坊さんの読経だけはもらえたのが、僅か乍らの慰めであった。
※注2:この時、フクヲの最初の妻と子ども二人を失くしています。(下記記事参照)
第2回目の徴発となる
白梅小学校での避難生活が何時まで続けられるのか、不安な毎日を過している内に何時しか10月の中旬となり、暖房設備のない我々は朝、夕の寒さに震え出した項、第2回目、最終の根こそぎ日本人狩があった。
今度はぶらぶら歩行出来るまでに回復した私も坊さんも否やもなしに連行されたが、今回も運良く逃れたのは小久保氏1人であった。
それは徴発を恐れ小久保氏は満服を着用し、その日も單独で街へ食糧買い出しに行っていたからであった。
小久保氏は満服で例の満語ペラペラでは全く満人同様で何処へ行っても満人並に扱われる程であった。
私の連行された場所はハルピン市の隣に平坊(ヘイボー)という所の駅から軍の引込車線の入った新香坊(シンコウボー)という所で、此処には日本陸軍の工兵隊部隊のある所であった。
今回のソ連の目的は満洲里からハルピンまで、わざわざ狹規を広規の軌条にまで取替え工事を行ったのはハルピン附近に日本軍の膨大な軍事資材があるのを知って、それを本國へ運搬するためのものであった。
(ソ連軍は独ソ戦で莫大な人員と物資を消耗し、その代替えに敗戦間近な日本に目をつけ、戦々布告なしに満洲へ浸入し、50万と云われる関東軍の兵員とハルピンに在る軍物資を拉し去ったのである。)
ハルピン郊外には私の知らないところではまだこの他以外にも部隊があったろうと思うが、私の知っているところでは、この工兵隊の外にハルピンと平坊の中間に関東軍倉庫と云う処があり、ここは大きな建物が10数棟あり、その広大な面積の内に、この倉庫郡があり、ここには関東軍が3ヶ年使用出来る軍物資が貯蔵されていると云う話であった。
ソ連軍は勿論この倉庫にも目をつけたには相違ないが、とにかく降雪がある前に、これらの物資を本國へ輸送しようと必死になっていた。
扨て話を元へ戻して私の連行されて来た工兵隊は広大な平地に兵舎が20数棟の外に、兵器を納入している倉庫がこれも10数棟有る外、建物内に入り切らない上陸用舟艇、その他私共の名稱の判らない機材類が、シートを覆ったまま置かれていた。
これらを引込線の貨車に積込むのが私達の仕事で、それを寒気の迫らぬ内に運ぼうとして昼夜を分かたず、ソ連兵は我々をダワイ、ダワイ(※注3)と追まくるのであった。
この作業は朝6時から夜10時項まで続くのであったが、何に分私は病後で身体もまだ完全には回復しておらず、この重量物の運搬にはほとほと参ってしまった。
大きな重量物の場合は、数人でかつぎ上げるので私1人が力を抜いても判らないが、1人で1箇の物を運搬する場合とか又トラックで他の場所へ移動する場合には全く参ってしまったものであった。
1人で運搬する場合は足元がふらついて、ひよろつき乍ら運ぶので監視のソ連兵の目にとまるとみえて、その都度、私の尻について「ダワイ、ダワイ」と呼ばれるには全く降参してしまうのである。
それとトラックで移動する時は私はトラックの荷台に昇られず他の作業員に荷台の上から手を引張ってもらわねば乘ることが出来ず、全く私1人だけが最も目につき易い存在のようであったらしい。
やっと1日の労役から解放されて宿舎へ戻ると暫くの間は呼吸も絶え絶えとして伸び切ってしまう毎日であった。
毎日、このような労仂続きであったが、その労を癒(いや)してくれるものは食物が割合に良かったことであった。
調理は勿論徴発された日本人の中から出るのであったが、食材が良かったせいで白梅小学校の比ではなく、特に私のように病後の回復期にある者にとっては有難いものであった。
肉、魚類は夕食時に必ず出る外、味付けも仲々のものであった。
それでも私だけは、この食事だけに満足出来ず、日本兵が兵舎の外の畠に植えたナス、キウリ、ネギ等が残されていた外、どうした訳か私の居る兵舎の入口近くに樽入りの味噌と梅漬が各1樽づつ残されており、それを誰れも手をつける人が居らず、私はそれを1人利用して生のナス、キウリ、ネギに味噌をつけたり、又梅漬樽に大根を入れておいて、それらを喰べたりしたものである。
そのせいか、徴発労仂が終る項にはすっかり身体も回復することが出来た。
私がこの工兵隊で労仂使役をしている項、白梅小学校に避難入居していたジヤライノール家族の一行は、私が居る工兵隊兵舎から約4キロ程離れた地名も同じ新香坊の青少年義勇軍の兵舎に移り住むことになった。
此処は終戦時まで日本内地の主に東北6県の農家の14才~19才までの子弟達が、居住していた兵舎で、終戦と共に、これらの人々は、この兵舎を出て各地に散った為、ガラ空きとなったいたのであった。
この青少年義勇軍というのは日本内地農家の次男、三男という男達が、農耕する土地もなく、困窮していた人達を募集して日本政府が、これらの人を内地内(ウチ)の浦の訓練所で3ヶ月の軍事訓練を施し、その後、これらを、このハルピン市郊外、新香坊の兵舎に入れ、日本軍同様の再訓練を行った後、満洲各地にある開拓地へ、開拓義勇軍として送り込んでいた。
兵舎は正規の日本軍兵舎より幾分改善された二階建築の下図のようなもので人員は約500名程居住出来る広さであった。
1棟の長さが約10m位あり、この1棟に50人位が入り、これが10棟あり、その外に食堂、娯楽室、教官室、倉庫等の建物があった。
又これらの建物郡の中央に広場があって、そこで野外訓練を受けられるようになっていた。
この兵舎に私共ジヤライノールより避難した人達の外に各地より避難して来た人達が入居して、食事は市の日本人会より寄贈された金や、衣料品でまかなっていた。
やがて11月に入り工兵隊の物資もあらかた運び終った項、どうしたことかソ連本國より、貨車の回送が遅れがちとなり、そのため物資の積み込みが出来ず始めて我々には休日が訪れた。
それで私共はこの休日を利用し、新香坊の義勇軍兵舎の家族を訪問しては1日の休日を楽しんだ。
それが毎週1回はあるようになり、最后は11月中旬に遂いに極端な話、兵舎内の紙1枚のはてまでソ連軍が運び去って、我々はやっと解放されたのであった。
それが丁度11月15日であったが、ところがその日以外なことがあった。
それは、この物資積込み從事した我々にソ連軍は報酬を支拂ったのであった。
これは全く思いがけないことであった。
それは我々が民間人であったからであろうと思われたが、それにしてもソ連軍としては思いもよらぬ措置であった。
支給された金額は1人1ヶ月分の食費に相当する程度の小額ではあったが、それでも避難当日家から持ち出した現金は既に底をつき、懐中無一文の時であっただけに喜ばざるを得なかった。
それと同時に驚いたことには、その翌日からハルピン市内及近郊にはソ連兵の姿は1人として見当らなくなった、その引揚げのあざやかさは実に見事なものであった。
それだけに私はソ連軍が物資輸送のため、満洲里からハルピンまで張り替えた鉄道レールはどうしたのたろうかと余計なことまで考へたものである。
尚ソ連軍が引揚げた後へ数日後國民堂軍がハルピンに進駐して来たが、國民党軍は我々難民に対しては非常に好意的であった。
※注3:「ダワイ、ダワイ」はロシア語の「Давай!Давай!」であると思われます。「ほらほら!」とか「やれやれ~!」という意味です。
新香坊避難所へ入る
古田氏とは解放された当日数ヶ月振りに会って、今後のことについて相談し合った結果、一時新香坊の収容所に入ることにした。
この収容所に水林さん家族一家5人も入居していたが、伊藤氏家族が見当らないので、ツナさんに聞いてみると、8月9日のジヤライノール引揚げの際、避難列車には伊藤さん家族が見当らないので心配をし、心当りの人々に尋ねてみたが、誰れも知る人が居らず、どうしたものかと案じていたということであった。
これは後日談ではあるが、私共が満洲を引揚げ幌内へ帰國後も伊藤さん家族の消息は以然として判らず、誰れ1人として、それを知る者が居らないのは不思議なことである。
収容所へ入居した私と古田氏は毎日無意に日を過していても仕方がないので、この収容所の受付係をやることにした。
11月の寒空に入っても、未だ北満奥地より避難して来る人々がいるのであった。
その人々の服装は、ムシロを身体に巻いて、帶代りに縄でしばっているのであった。
話を聞いてみると終戦宣言の日、開拓地を棄てて召集のため男手の無くなった人々は老人男子の引卆の許に徒歩で開拓地を離れたが、途中満人の襲撃に会って持ち物、衣類まではぎ取られ、老人、幼児は涙を呑んで置去りにし、数100Kの道を途中野宿をし乍ら、かろうじてハルピンまで辿り着いたのだと私共の前で号泣されるのを見て私達は貰い泣きをせざるを得なかった。
こうした人々は12月初旬まで続いたのであったが、それ以後は、さすがの厳冬の地、遂いに絶えた。
それで一応受付けの役目も終ったので、古田氏と相談の結果、この収容所を出ることにした。
その理由は、収容所での食事は、ハルピン居住の日本人会より寄贈による金で食糧を調達していたのであるが、主食となる物は高粱と味噌、正油と若干の副食物だけで、後は各自、自分の懐中の金で、この収容所前の道路に並ぶ満人の売子から嗜好品を買って自給しているのであるが、奥地より避難した開拓団の人々や、所持金の無くなった人々は、この収容所から出る朝、夕の2食だけの高粱米に頼るだけであった。
私と古田氏は幸いソ連軍から支給された金が、まだ少々残っていたが、これも近い将来無くなるのは目に見えていた。
それでこれが多少有る内に商売を始めようということになった。
それで考へた結果、最も手取り早いのは、この収容所前の道路に満人と並んで食品を売ることにした。
その食品は日本人に好まれ食事代りに出来る餅にすることにした。
※注:写真出典「【写図】で綴る『敗戦と満州 中学1年の記憶』第4部 新香坊難民収容所(4)」
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