満州での商売(2) ~満州編5-2~

16. 満州での戦争経験
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パン製造耺人となる

その項、この店のジヤングイの弟で、同じ市内でパン製造をやっている人が時々この店へ来るようになっていた。
そして私達がセンベイを焼いている側に立って暫く、それを見ているようになったが、その内にジヤングイと話合ったとみえて、私達2人を自分の店に貰い受ける話が纏まったとみえて、私達2人はジヤングイより弟の店へ替るよう申し渡され即日私と古田氏は店を追い出された格好になり弟の店へ住み替えをすることになった。

ハルピンは、その年、寒気がゆるんで、来た項、日本人避難民の生活も落着いて、何時とはなしに夫々各自が生活をするためと引揚げが迫って来たのを知って自分達の家具、衣類等を売り出し、それらを交換又は売買するために街の中央部の広場で朝市と稱し、それらの人々が集り店を出すようになり、それに満人も加わり、朝早くから昼項まで路上に各自思い思いの品物を並べるのであった。
それらの品物を難民の日本人が、その朝市で仕入れて行くので、この朝市は何時しか、日、満人入り乱れて大変な盛況を呈するようになっていた。ジヤングイの弟も自分1人でパンを焼いてこの朝市に運んで来て売っていた1人であった。

私と古田氏はジヤングイの弟の家へ着いてみると、家は満人家屋の内部を改造してパン焼に丁度最適にしてあり、弟の奥さんは白系露人で、この夫婦に子供はおらず2人暮しで奥さんが露人だけあってパン製造の広い部屋の外3部屋あったがベットが各部屋にあり、床も土間ではなく総て板張りの磨いた床板で清潔な家であった。
奥さんは小柄な50才近い無口な人で、ジヤングイの弟は、奥さんとは対照的に長身で、顔は満人らしからぬ精悍な顔付きで、この人も又案外無口な方であった。
年令はこの人も50才位であった。

私達2人はこの家に着いた日、4帖半程の広さの部屋に木製のベットを與えられ、食事もテーブルに椅子で、料理もスープ付きのロシヤ風のパン食であった。

その翌日外出した弟は何処で見付けて来たのか、日本人の小柄な40才位の日本人の男と、もう1人は50才を過ぎたと思われる水商売をやっていたと思われる長身の日本人女性を連れて来た。
後日この2人の話では男性の方は、東満のジヤムスと云う処で菓子屋を営業し、日本内地では菓子屋の耺人をしていた斉藤と云う人で終戦と共に、このハルピンの知人を頼って避難をして来て家族3人は、その知人の家に同居しているので、通いであった。
もう1人の女性の人も同じジヤムスから避難して来て、ジヤムスでは日本人経営の料亭で藝者をしていたという人で、この人は、このパンヤ屋では別室を與えられて私達同様住み込みになった。

これでメンバーは一応揃い、翌日から早速パン製造に取りかかった。

私達2人は今度はセンベイ焼きからパン製造耺に切替った訳であるが、先達は、この家の主人とパン耺人で、私と古田氏及婆さん藝者の3人は助手の仕事であった。

パン造りは、まづ麥粉にホップというビール製造に使うニガリと食塩を混入し充分にボックスの中で、こね合せた後、数時間放置しておいて取り出し、それを再びこね合わせ、今度はブリキ製の型

に入れて再度冷蔵庫型の大きなボックに入れて数10分後に取り出すと原料は型通りに膨れ上がっているそれ今度は煉瓦造りのカマドに入れて熱すると

左図注:当ブログでは上図)のような形ちで焼き上がるのであった。
当時のパンはこうして製造したもので現在はおそらくこれ以上に進歩した方法であろうと思われる。

これを数10ヶ造り、箱詰めにして作業は終了するのであるが、作業は夕方から始まり大体夜中の12時項に終了し、この箱詰めにしたパンを翌朝6時項、私と古田氏の2人でリヤカーに積んで朝市に運び、それを朝市で売り切って家へ戻るのが9時項になり、朝食を終えた後は夕方6時近くまで私達の自由時間であるが、その間に2日乃至3日置きにリヤカーで主人と共に原料の仕入れに行く位のものであった。
朝市で売る食パンの外に耺人の案でクリームパンを製造して売ってみると、これが又意に反して案外好評で売行は思いがけなく好調で主人もホクホク顔であった。

その当時クリーム等は無かった時代で、このクリーム製造の発案者も斉藤耺人で、これは麥粉に蜂蜜、水飴、香料を入れて、ねり合わせたものをパンの中に包み込んで焼き上げるのであったが、これが現在のクリームパンの元祖※注1かも知れない。
こうして私達のパン製造が5月から6月と続いていた或る日、突然パンが、どのような原因からか、膨らまなくなったのである。
膨らまないパンは、全くパンとしては通用しない。
それであわてた主人と斉藤耺人は原料の麥粉を調べたり、温度の調整をやったりしてみたが、どうしてもその原因が判らず、ホトホト困却してしまったのであった。
斉藤耺人は責任上家族の元へも帰へらず、泊りがけで原因窮命に必至になったが、依然として変りなく、仕方なしに私達2人は、その膨れないパンを朝市で半額の値段で売ってみたが、朝市では売れる筈もなく、それを又そのままリヤカーに積んで戻り、朝食を済せた後に2人でそのパンを積んで街頭に立って売ってみた。

街頭では半額の値段で、味は普通のパンとは少しも変りなく、食に困窮している避難民の人は、私達2人の説明に足を止めて買う人もあって、日暮れまで立ち通しで必死に叫ぶお蔭で、どうやら売り儘してはみたものの、利益は上らず、私達の努力も空しく、遂いにパン製造に見切りをつけることになった
それで斉藤氏はこの店を去ることにしたが、丁度その時、斉藤氏の知人の満人が、このパンブームに目をつけ、パン製造をやることにして斉藤氏に相談を持ちかけていたのを幸いに斉藤氏は新にパン製造の工場場所を深して歩いていた。
その間私達2人と婆さん藝者は仕事もなく主人の家で徒食をしていた。

 

※注1クリームパンの元祖は新宿中村屋で明治37年の発売だそうです。

 

パン屋を止め熊谷さん宅に居住する

ところが、その時どうしたことからか、私達がセンベイ焼きをやっていた当時仕入れに来ていた熊谷ハナ子さんが、ひよつこり私達の様子を見に初めてこのパン屋を訪れたのであった。
それで私は、この状況を説明すると、ハナ子さんは、それでは一度、私の処へ来て姉に相談をしてみないかという話になり、私は早速ハナ子さんに同行し、拓銀社宅に住むハナ子さんの姉を訪ねた。
この満洲拓殖銀行※注2ハルピン支店の社宅に住むハナ子さんの姉は年令35才位で女丈夫といったタイプの身長のある体格に赤ら顔で、気性もハキハキとした人であった。
子供は國子という女の子(5才)唐十という3才の男の子の2人で、私は今でも時々、この奥さんが「國子・・・唐十・・・」と子供のいたづらを叱る大きな声を思い出すことがある。
この家の主人なる人は現地召集を受けて不在で、結局女と子供の4人暮しであった。

私はハナ子さんの紹介で、この姉なる人に私達の現況を話をすると、「仕事の方には心当りがないが、私達は女子供だけで男手がないので内地引揚げの際は荷物を持って盛岡まで同行してくれるのであれば、今後引揚げまで、この家に宿泊して、食費は一切不要である」という好条件の話しであった。
それで私は即座に、これを了承し明日からということでパン屋へ戻った。
その日の夕方、斉藤氏から連絡があり、パン工場をする家屋が決ったので、内部改造をするまで2日間程待ってくれということで、私達2人は翌日主人と話合ってこのパン屋を止めてハナ子さん宅へ移住し、婆さん藝者は斉藤氏の金主である満人の家に2、3日世話になることに決定した。

私達2人が世話になった拓銀社宅は、平屋建1戸は支店長宅で、後は2階建5戸続きか6棟あり、住人は家族を含め約100名程であったが、今回の終戦で、北東満地方の各支店の家族全員が、ハルピンへ避難をして来たので、その人達を含めて社宅の人員は一擧に数倍に膨れ上り、各家族共各部屋に同居の形となり、私達も8帖間に熊谷さん家族4人と私達2人の計6人が同居することになった。

 

※注2:「満州拓殖銀行」を検索しましたが、見つかりませんでした。「満州」の名の付く銀行で実在したのは「満州中央銀行」、「満州興業銀行」の二つです。「拓殖」の名の付く会社は「満州拓殖公社」、「東洋拓殖株式会社」がありましたが、銀行ではありません。「北海道拓殖銀行」(拓銀)のハルピン支店があったかどうかはわかりませんでした。

満州中央銀行

 

第2回目のパン製造販売をする

やがて借用した倉庫の内部改造も終り、又パン造りを始めた。
今度はパンも普通に出来上り、私と古田氏が朝市でそれを売りさばき順調な船出となった。
パン工場の中はパン焼きカマドや調理台を置いても尚、場所には余裕があるので、大工に木製のベットを2台造ってもらい、私と古田氏が1日交替で工場へ泊り込む外、婆さん藝者も満人金主の家を出てこの工場に泊り、自炊をすることにし、結局工場には夜は、私か古田氏の何れかと、婆さん藝者の2人が泊り込むことにした。
(熊谷さん宅では8帖に6人が寝なければならないので、それで私と古田氏が交替で工場に泊ることにしたのである。)
第二回目のパン製造と販売の方も順調に進み、やがて6月に入った或る日、突然に又第2回目のパンが膨れなくなった。
それであわてた斉藤耺人が、いろいろ改善を計ってみたが、どうしても原因がつかめず、金主と相談の結果、結局工場を閉塞することになった。

それで私達2人は無耺浪人生活となり、熊谷さん宅で毎日なすべき事もなく無聊の日を過さざるを得なくなり、斉藤耺人は他の満人菓子屋へ転耺したが、行先きのない婆さんは満人金主が引揚げ開始まで面倒をみてくれることになった。
その項の中國は蒋介石の引きゆる國民党軍は中國の一部と満洲を支配し、一方毛沢東の共産党軍は中國の一部のみを手にしていたが、毛沢東の望みは中國全土と、満洲をも統一しようと野望に燃えて、まず満洲に在る蒋介石軍を駆逐するべく進攻し始め、遂にハルピン近くの松花江近くまで到達し、松花江を狹んで國民軍と共産軍が対持するに至ったのである。

 

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