満州での商売(1) ~満州編5-1~

16. 満州での戦争経験
粟餅売りと粉屋の看板
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餅売り商売を始める

それで1日元居住していた白梅小学校の校宅を尋ねて見た。
今では小学校の教室は使用されておらず学校側にある5戸の校宅に夫々各地からの避難民が入居していたが、その内の校長宅の中の6帖2間は避難民の人達が入居して、4帖間一室だけが空いていたので、そこへ入居することにした。

次は商品の餅であるが、これは校長宅に入居している人に聞いて街の中央にある満人の餅屋があるのを知っていたので、訪ねて行ってみると、そこは元日本人が経営していた菓子屋で、そこの使用人であった満人が、後を引き継いで餅の製造をやっていた。
そこで明後日より餡の入った餅1ヶを8円※注1で卸してもらうことに話をつけ、これで全部用件を終えて収容所へ戻り、翌日、収容所を出て校宅に入居した。

その前に書き忘れたが、私が収容所で受付けをやっていた時の事であるが、この収容所で、入所していた水林清右門さんと娘の八重さんが病死をしたのであった。
この収容所も先の白梅小学校同様、集団入居しているため発疹チブスが流行し、入所人員が多いだけに、時としては1日、4、5人の死亡者が出ることもあった。
それが老令であった清右門さんにも移り死亡し、それから1日後に娘八重さんも、このチブスで死亡してしまったのであった。
清右門さんの場合は60才を越えた老令でもあり、仕方のないことではあったが、八重さんの場合は、まだ40才にも満たない若さで、しかもそれが後に5才と3才の幼児を残しての死であっただけに全く私には他人の不幸とは考へられな程シヨックを受けた。
考へてみれば、避難前の7月に夫である重一さんを失い、次は、この不自由な生活の中で続いて2人共亡くなるとは考へもしなかったことである。
水林さん一家6人は、幌内では一家団楽の生活を送っていたのに、この場合は不幸を求めるためにこの異郷の地の満洲までやって来たようなものである。
そして後には60才を過ぎたツナさんと幼児2人だけとなってしまったのである。
伊藤さん一家においても、しかりである。
全く人間の運命程、計り知れないものであることを、しみじみと感じされたのである。

さて校宅に入居した私共2人は、その日街へ出て避難民が街頭の道路端で不要品を売り出している所で、毛布を各2枚と電気コンロ、鍋、茶碗等の炊事、食事道具類を最小限度に買い準え次は餅を入れる箱や、これを運ぶものを校長宅の物置を探すと、幸いなことには、丁度適当な物を発見した。

餅売り運搬機材

物置の中には餅を並べて入れる底の浅い木箱と、軽便な箱を積んで引っぱる木製の橇、丁度注文通りの物で、何んのため校長宅にこのような物があったのか不審であったが、そんなことはどうで良い話であった。

これで総て準ったので、その晩は、古田氏の炊事で夕食を済せ、明日に備えて早々と寝に就いた。
炊事は古田氏が何処で覚えたのか実に手早く器用にやってのけるので、以後炊事は全部古田氏になった。
又寝るのは4帖の小さな部屋なので電気コンロを付け放しにしておくと丁度良い暖さであった。
その外に買った毛布1枚を敷き1枚は覆ると、これも又丁度布団代りになるので、後は、綿入の綿服とズボンをぬいで下着だけで充分な暖さで朝までぐっすりと睡眠が出来たのであった。

私はこうして自分達だけの生活を避難約5ヶ月振りに出来た事と白米の飯と、好物の献立で食事をし、ズボンまで、ぬいで寒さを感ぜず伸び伸びと眠れたことに感謝をせずにをられなかった。
これも一重にソ連軍の労役で得た支給金のお蔭でもあった。
翌朝私達2人は冬の明け切らない6時項目醒めて洗顔を済せた後2人で橇を引いて満人の餅屋へ行き、搗きたての餡入り餅100ヶを仕入れ1旦部屋に戻り、白米の飯に味噌汁、漬物の簡單な朝食を済せ、餅を入れた箱を寝具に使用した毛布でくるんで、2人で橇を引いて家を出たのは8時項であった。

この校宅から新香坊の収容所までは片道約12Kで積雪は20cm位のもので橇を引くには丁度良く、収容所到着は10時項であったが、既に満人の売子達は収容所入口前の道路両側に売物を並べていた。
私達はその中の満人シヨハイ(少年)※注2が私達と同じ餅を出しているその隣りに店を出した。
しかし収容所の所持金の有る人達は主として腹の足しになるものを買うので私達の隣りのシヨウハイの餅も適当に売れているのであるが、どういう訳か私達の餅は一向に売れないのである。
それを見た隣りのシヨウハイが私達に向って「お前達は只黙って立っているばかりでは売れないぞ・・・」と云うのであった。
それで私達2人は成る程と思い、「サアーサアー甘い餡入りの搗きたての餅は如何ですか・・・」と叫び出すと、案にたがわずボツボツと売れ始めたのであった。
こうして夕刻薄暗くなるまで叫び通しで何んとか、ようやく100ヶの餅を売り裁くことが出来た。
その日は1日立ち通しで12Kの道をフラフラになって校宅の4、5帖半へ帰り着いたのは暗くなった8時項であった。
その日の売上金100円※注3でヤレヤレ商売も難しいものであることを知った。

翌日から第1日目の教訓を生かし県命に叫んだせいか、完売終了は午后2時項で、これで先づ先づ成功と胸を撫で下ろした。

以後第3日目、第4日目と馴れるに遵って順調となり、大体1時項までには終るようになったが、問題は毎日橇を引いて通う往復の24Kの道程には考へさせられた。
それで改めて道程を見直してみると、これは正式の道路を行くからで、現在は雪のある所で障害物さへなければ平地のことでもあり、どこを通っても良いことに気付いてみると、それは現在使用されておらない飛行場を横断することであった。
私達の居る校宅の裏手が飛行場で、それを横断すれば相当な近巨離であることに気付いた。
それでその翌日飛行場を横断してみると巨離は今まで半分の往復11Kであった。
それで以後は時間にも予裕が出来て身体的に非常に楽となり、「頭と〇〇〇(管理人注:原文ママ:修正跡あり)は生きている内に使え」と云う言葉通りであった。

こうして餅売り商売も順調になったので、月2回は休業して、その日は理髪と支那風呂へ行くことにした。

そのうちにやがて3月の声を聞くようになり、3月も末になった項、収容所に入所していた人々の懐中具合も悪くなり、餅の売行きも怪やしくなりだして来た。
それと雪も消えだし、橇も使えなくなり、その橇に代る物もなく、ここで又考へを替えなければならなくなり出した。

 

※注:画像出典「泰弘さんの【追憶の記】です・・・」(満州風俗)粟餅売りと粉屋の看板

※注1:1945年(昭和20年)の8円は、現在の価値に換算すると1,250円くらい(※注4)なので、ちょっと高すぎるような気がします。翌年1946年(昭和21年)になると、換算で320円くらいになります。それでも餅1個の値段としては高いと思います。

※注2:ショウハイとは中国語の「小孩儿」(xiaohaier)で、「子供」という意味です。

※注3:1945年(昭和20年)の100円は、現在の価値に換算すると15,000円くらいです。(※注4

※注4:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

満人菓子屋へ住込みとなる

それで考へたのは、食、住の心配を必要としない住み込みに入ることにし、住み込み先を餅を仕入れに通った満人の菓子屋とすることにし、餅屋のジヤングイ(主人)※注5に話をしてみると、案外心易く承知をしてくれたのであった。
それで早速話が決り翌日から毛布2枚だけを持って後の物は全部校宅に居住している人に譲って餅屋へ転居したのである。

この餅屋の主人は前述のように戦前日本人の菓子屋に耺人として務めていたが終戦と同時にこの人ともう1人の25才位の耺人2人が共同出資で、店を譲り受け餅の製造を始めたということで、主人は小柄、小太りの愛けうのある顔で、家族があるので、近くの自分の家から通っており、もう1人は独身の温和な青年で、この人は、店へ泊り込んでをり、他に北満國境より日ソ開戦と同時にこのハルピン避難して来たという、30才位の日本人夫婦と生後間もない赤ん坊の3人も住込んで、餅の製造を手伝っていた。
結局ジヤングイは通いで赤ん坊を入れて6人は、この店に泊まり込みで、炊事は奥さんの仕事であった。

菓子屋

この店の床は全部土間で広い仕事場と炊事室、物入れの外に8帖程の部屋が2間あり、1室には日本人夫婦、他の1室に満人青年と私達2人が2段ベットのある部屋であった。
私と古田氏の2人は、この店のジヤングイの考へで煎餅焼きをやることになった。
元々この店では以前煎餅も製造していたとみえて道具類一式が揃っていたので、入店翌日から2人はジヤングイの指導で煎餅焼きを始めた。

 

※注5:「ジャングイ」とは中国語の「掌柜」(zhanggui)で、「店主」という意味です。

 

煎餅(センベイ)焼きを始める

センベイ焼の手始めは、まづメリケン粉をとかし、それに甘味料として水飴を入れ水を加えて適度の硬さに練り上げる。
次に下図のような石材で造った長方形の火鉢に炭を入れ、眞赤になるまで炭火をおこし、これで準備完了である。

煎餅焼き

その次には練り上げたメリケン粉を次から次へと12丁の型に分量を加減し乍ら入れて、火鉢の上に並べ適当な時間をかけて、焼き上げて型から取り出し、それに又原料を入れて火鉢に乘せる、これを繰返すのであるが、仲々熟練を要するものであった。

最初の1日はジヤングイの指導で怪やしげな手付きで練習をし、第2日目には2人共、何んとかセンベイらしき物が出来上がり、3日目には完全な物が出来るようになった。
これを見たジヤングイは2日練習しただけで、これだけの物が出来るようになったのは、立派なものだと賞められるようになったのである。
それで3日目から兼ねてジヤングイが知らせてあったものとみえて、4人の日本人難民の人がセンベイの仕入れに来るようになった。

 

熊谷、江利山さんと知り合う

センベイを仕入れに来る人は男1人女3人であったが、男の60才過ぎの人は、都合で商売を止めた為、常時仕入れに来るのは、熊谷さん、江利山さん、小山さんの3人が固定客となり、私達2人で1日焼くセンベイを全部仕入れて行くようになった。
この3人の女性については後で追い追い判って来たが、熊谷さんと云う人は年令23才位、小太りの赤ら顔、独身で盛岡市出身、高小卆の人で、江利山さんは28才位長身、美人、女学校卆、青森出身、主人は現地召集となり、子供2人はこのハルピンで病死し、目下單身、もう1人の小山さんは身長は普通並、色白の小太りをした、仙台出身、女学校卆の美人で、子供はなく主人は現地召集となり、江別山さん※注6と2人ハルピン市内の知人の家に同居していた。

熊谷さんの姉の主人と云う人は満洲興業銀行ハルピン支店に務めており現地召集となり、目下、姉は子供2人(5才女、3才男)同銀行社宅に住んでいた。

さてセンベイ焼の方は2人共、僅か2日間ですっかり、マスターして、1日割当の15斤(1斤は100匁)を朝8時から夕方5時項までに消化出来るようになった。
仕入れに来る熊谷、江別山、小山の3人は、私達が焼いたセンベイを満人の店へ卸して来るだけで、時間に予裕があるので午前10時項、店へ来て私達がセンベイを焼いている側に3人共座り込んで、私達が焼いたセンベイの耳かきをやり乍ら昼項まで話し込んで行くのが日課になっていた。

センベイの耳かきというのは型から少々はみ出した分を、かいて形を揃えるのであるが、これをブリキ製の一斗缶に約300枚程詰め込んで、それを大きな風呂敷で包み背負って、満人が街の大通りに移動出来る2坪位の小さな店を出し、そこで菓子類の外にセンベイ等を日本人難民相手に売っている店が、終戦後こうした小店が街の各所に出始め、彼女達はこれらの店と特約しており、その店へセンベイを納入して来れば良いだけで、最も女性や老人向きの商売であった。
又これだけの仕事で女1人位の生活が出来たようである。

私と古田氏のセンベイ焼きの仕事は3月から5月項まで続けられ、センベ焼はすっかり板についた。
私達の休日は月1回あり、その日は満人風呂へ行ったり、散髪をしたりし、又江利山さん、小山さんの2人は時々2人が危介になっている家に私達2人を招待して手造りの馳走をしてくれたりするようになった。
時は5月の若葉の季節となり、街の街路樹が葉を繁らせる、北満の最も良い時期となって来た。
その項から日本人の内地引揚げの噂が出始め、人の話では南満方面は既に引揚げが始まっているということであった。

又どうした訳けか、それと同時にセンベイの需要が盛んとなり出して、熊谷さん外2人の仕入れ数も増加し出した為、ジヤングイは私達2人にセンベイの原料を15斤から20斤に増やし、更に又それに加えて更に25斤焼けと云い出して来た。

私がジヤングイからセンベイ焼きの耺人の最大量は20斤が限度だということを聞いていただけに、それを上廻る25斤では、それは出来かねるとジヤングイに抗議したところ、ジヤングイは、それ以上何も云わなかったが、以後ジヤングイと私達2人の間は何んとなく気まづい感情となった。

 

※注6:原著には「江利山」と「江別山」の二つの姓が書かれていますが、見出しにもあるように「江利山」が正しいものと思われます。

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