吉林人造石油(2) ~満州編2-2~

吉林駅 13. 吉林人造石油準社員時代
吉林駅
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吉林人石大口前砿業所勤務となる

その日の夕方は事務所の近くにある耺員寮へ落着き私達3人の歓迎会を開催してくれ、入寮耺員全員の招介があった。
砿業所耺員だけの(雇員以上)総数は私達3名を含めて26名で、その内訳は幌内18名、残り8名は眞谷地であった。
そして幌内18名の中には砿員であった人が9名いたが、この18名の人達の中で知っている人は1名も居らなかった。
但し私がこの人石へ入社するために会えたのは、副所長の安本、中鉢、渡辺、江尻の4人だけである。
副所長の安本氏とは、私が東京に中鉢氏を訪ねていった際、中鉢氏と同じく家族引纏めのため東京に帶在中に中鉢氏の紹介で安本氏と会っているからである。

吉林人造石油職員寮

吉林人造石油職員寮

耺員寮は全員が寮宿泊で、家族を内地より連れて来た者は、家族を吉林市内にある人石社宅に入居させ、本人は毎週土旺日毎に帰宅をするようになっていた。

寮はこれも事務所同様木造假建築で、寝る場合は中央に頭を向けて壁側一列並びに寝るのであった。
食堂には40才過ぎの管理人夫婦が住み炊事をも受持っていた。

私達3名が到着したその日の夕刻、私達3名のため歓迎会を開いてくれた。
寮の畳敷きの上に細長いテーブルを並べ全員向き合って、豚肉のスキヤキパーテーで、日本酒とシヤンチユー(高粱酒)で盛大に宴が盛り上り、全員各自が隠し藝をやることになり、まづ最初私達3人が唄わされた。
当時私は酒は余り呑めなかったが唄は幌内選炭場当時、若い娘さん達に習っていたので当時の流行歌で無事終了した。
次は上座から順次に各自、姓名を名のって唄になるのであったが、途中立ち上がって名のったのが、古田氏で、私は古田氏とは同じ幌内に住み乍ら一度も顔を合せたことがなかった人である。

その古田氏が順番で立ち上ると、まづ自分姓名を名乘ってから、少々赤い顔をし、頭の上にタオルをたたんで乘せ、片手を前に出し、もう一方の片手を前へ出し、丁度田舎の村で見られるような地藏さんのような形ちをして、「村の外れのオジヂウサンにゼゼ(銭)上げて・・・・・・・」歌の文句は忘れたが、そうした歌を眞自面な顔で唄ったのには全員、その恪好と歌の文句に腹を抱へて大爆笑したのであった。
これが私が古田氏を知った始まりであった。
しかしその後仕事の分担とか住所の違い等で同じ会社でおり乍ら数年間顔を合せたことがなかったのであった。
これが私が古田氏と顔を合わせた初対面であった。

私が、この寮生活を始めた約1週間後に、私が幌内に就耺した際、養成所の私と同じ第1回卆業生で幌内砿の布引坑に配置された越前という同級生が、新婚の奥さんを伴って、この大口前へ来たのであった。

それには吉林人石入社が決定したからであったが、この大口前へ到着した僅か数日後に幌内砿業より、無断退耺した理由と、もし退耺するのであれば養成所生徒として支給した支給金全額500円を返済せよという通知が来たのであった。
当時の500円は相当な金額※注1で当低一介の月給取りが一時に返済出来る金額ではなく、越前君は涙を呑んで又新婚の奥さんと共に幌内へ戻ったのであった。

しかしここで不思儀なのは私に対する幌内砿業所の措置である。
私と越前君との条件は全く同じであるにも拘らず、私に対しては幌内砿業所からは何んの督促状も来ず、又幌内の母の元へもそれらしいものは来ておらないのであった。
これは私だけの想像であるが、私が養成所を出て最初に就いた耺場が養老坑で、ここで私は坑内技術耺員として相当な成績を揚げた、その功労を認めてくれた為の、その結果でなかろうかと自負をしているのである。

篠原所長は一応人員も揃ったので、耺務の分担を行い、基本は炭尸調査にあるので、1班の人員を5名とし5班の編成をした。
それには班長を社員とし、その下に準社員1名、雇員3名とした。
そして地図上で調査範囲の区画を決め、それに從って、いよいよ本格的な作業開始に入ったのである。
それと調査に伴う堀さく表土の剥離という作業は満洲鹿島組がこれを請負った。

満州鹿島組

満州鹿島組

私の班は班長に小林という40才位の小太りした夕張工業出の布引坑の係員をしていた社員がなり、その下に準社員の私と雇員で小林(班長小林の兄)、柏倉、岡部の4人構成であった。
尚3人の雇員は何れも40才位で、3人とも布引坑で先山をしていた人達ばかりであった。

又この5班の中の第3班に坂木三郎という人がいた。
坂木氏は第3班の班長で、北炭眞谷地砿より来た夕張工業出で、同じ北炭でも眞谷地なので私は全然見知らぬ人であった。
又同じ調査の仕事をしていても班が異っていたため、話しをすることもなく、又この人は最後に名遙砿業所よりスマトラ行になった為、私とは同じ人石に居り乍ら遂に一言も言葉を交すこともなく別れた人である。
それが縁とは不思議なもので、私が昭和23年に古田氏のすすめによって羽幌炭砿に就耺する際は私のことを良く知っていて、保證人になってくれた人でもある。
以後坂木氏との交際は続き現在でも同じ札幌で交際が続いている。

この坂木氏は温厚な人柄で羽幌炭砿では当社企画課長であったが、それから月形鉱業所(羽幌炭砿が全盛の項買収した炭砿)の所長となり、月形炭砿閉山後は羽幌炭砿耐火粘土株式会社(羽幌の第二会社)の課長となり、最后は私と同年に羽幌閉山により退耺となり札幌に居住し今でも年賀状の交換をしている。

私の班長の小林と云う人は豪放磊落といをうか、物事にこせつかないタイプで仕事は一切私委せにして、事務所で1日中新聞を読んでお茶呑みをしながら漫談ばかり語っているような人であった。

私仕方なしに自分の考へ通り、雇員3名を引卆して丘陵地帶の炭尸調査に歩いた。
この広い丘陵の各所に僅か乍ら黒色の石炭が土中から顔を覗かせて散在していた。
まづそれを捜し出すと同行の3人に、携帶の道具を使って或る程度、土砂を取り払い、石炭を露出させた後、私はクリノメーターで方緯、走向、傾斜を計り記帳をし、それを数ヶ処測定して歩くのである。

そしてその結果を日誌に記載して小林社員へ提出するというのが私達の耺務であった。
又測定の結果多少でも有望性があると認めれば、その箇所を大々的に土砂の除去をするのが満洲鹿島組の仕事であった。

私達はこうして毎日春の陽光を浴び、杏(アンズ)の花盛りと、タンポポやスミレの咲く草原と小鳥の声を聞き乍ら野山を歩き廻る毎日は日本内地では当低想像のつかなかったことで、私はその都度思い出すのは幌内で毎日暗黒の坑内で勤務を続けなければならなかった事であった。
その項の北満地方は毎日が晴天続きで降雨に会った記憶はない。
そして更に思うことは、これで高額の月収を得る身の上をつくづくと感謝をしたものである。

私が調査の勤務に就いてから間もなく初めての日曜日が来た。
土旺日の午后からは半ドンのようなもので、家族の有る者は吉林の社宅へ、又独身者で吉林へ出て一泊する人達は、トラックで出てしまい寮には2、3人残るだけとなるのであった。

私は何時も残寮組で、日旺毎に寮の近くに在る満人農家の人々と知り合いになったので、その家行ってロバを借りては、近くの山野を乘り廻したものである。
満人農家には必ずロバが1、2頭飼育されているが、これは農家にとっては農耕具と共に絶対必要とされるもので、それは農作物、や交通の手段と共に、穀物(コクモツ)類を粉にするため家の前に大きな石臼を据えて、それを廻すためロバに臼と直結した長い棒をつけ、その一端をロバの背に結び、ゴロゴロと終日この臼を廻しているのであった。
この臼から得るのは主食とする高粱の粉であり、又調味料として使用するための味噌、正油の原料とな大豆の粉であった。
又、このロバの泣き声は独特なもので、夜が白々と明ける項には必ず、このロバが声を出すのであった。
その声が又独特なものでゲイッゲイッと出す声は、唄の文句にもある通り、「ローバの声に起されて窓をあければ朝のつゆ」と、その項流行した満洲小唄※注2の一節の通りであった。

 

※注:写真出典「植鉄の旅~失われた時を探して」吉林駅

※注1:1941年(昭和16年)の500円は、現在の価値に換算すると48万円くらいです。(※注3

※注:写真出典「鹿島の軌跡 第27回満州での工事と満州鹿島組」拉賓線森林地帯での土木工事

※注2:私が調べた限りでは「満州小唄」という歌は発見できませんでした。ディック・ミネや森繁久彌らが歌った「満州里小唄」ならありますが、歌詞が全然違います(^^;

※注3:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

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