吉林人造石油(3) ~満州編2-3~

鉄鉱石鉱山 13. 吉林人造石油準社員時代
鉄鉱石鉱山
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鉄鉱石調査に出張

やがて春爛漫(ランマン)の5月も終り、6月中旬となった或る日、私は所長より、鉄鉱石の調査に出張するよう云われた。
私は命令であるから一応受諾したが、一寸面喰ったのである。
私は養成所では地質学の時間に鉱物サンプルに依って一応の講議を受けてはいるものの、石炭程に委しくない、畠違いの私に鉱石調査を命じた所長の眞意が判らなかったが、それが間もなく氷解した。
その翌日吉林人石本社の調査部から中島という調査次長が助手の20才前の者2名を引きつれ私の所へ調査の打合せに来たからであった。
中島という人は小柄な坊主頭にドジョウのような朝鮮髭をつけた人で、これは後から聞いた話であるが中島氏は北海道北見の出身で、労力は旧制中学だけであったが独学で勉強高専卆の資格があり調査次長となるだけあって人石では地質学の大家であるということであった。
助手2名の内1名は中島氏と同じ北見出身で永らく中島氏が助手と使用しており、もう1名は朝鮮人で、何れも口数の少ない温和な青年であった。

翌日吉林駅で一行3名と出合い、行先は朝満國境の図們から西に向った撫松という所であった。

白頭山地図

白頭山

やがてその日の夕方駅名は失念したが名も知らぬ小駅に着いて迎へに来ていたトラックで目的地撫松に着いた。

この地は朝満國境地帶から北へ伸びソ連領内まで走る長白山脈の中にあり、朝鮮ではこの長白山脈を白頭山と云い、日本では白頭山節※注1という唄まである。
「白頭御山(ミヤマ)に……雪降る項わ……」と父が酒席等でよく唄っていたことを思い出す。
又この白頭山と云う処は金日成の抗日據点としても知られた所で、金正日はここの生れだとも云われている。
私が行った撫松という処は、この白頭山の山中にあり、地形は切り立った火山岩が峨々とそびえ立つ山肌とうつそうたる森林に覆われたところであった。
この山中の川幅約4m程の清冽な水の流れに沿って街が形成されており、家屋は立派な中國式の建物ばかりであった。

その中に日本人経営の大きな料亭もある処であった。
何故交通不便な、この山峽にこのような街があるのだろうかと不審に思えたが、それはこの火山岩地帶に中満地方としては珍らしく鉄及び銅の鉱脈があり、それを産出しているということであった。

そのため山の持ち主である中國人の金満家が多く、それだけに、この街は匪賊のねらい所となり、この地は当時満洲切っての陽(ヤン)頭目が切り立った断崖の中腹に洞窟を設け、そこを據点として住みついているので、これを討代するため日本軍が駐屯している程のところであった。

とにかくこの街は金の魅力に取り付かれた日、満、朝の三國人が入り乱れて住んでいる所であった。

それともう一つは陽頭目であるが、この頭目※注2は、当時日本の子供達の絵本にも漫画的物語りとして掲載された程の射撃の名手で、その一つには銅銭(満洲通貨)を2、3枚空中に投げ上げて、それを全部打ち落すほどの手腕で、それだけに満洲國内で誰れ1人知らぬ者はないという。
私もこの撫松へ来る前にその話を聞いたことがあったが、まさかこの撫松に居るとは知らなかった。

さて私達の目的はこの地に鉱石採堀權を持つ黄(オウ)大人(タイジン)の依頼で、採堀面積の測定と鉱石品位の測定であった。
撫松に到着した私達はその夜黄大人の接待でこの街隨一の日本料亭で渡満来初めて見る日本髪の藝者数名に囲れ大いに馳走になり、私はその晩はその料亭に遂にダウンしてしまった程であった。

そして翌日から鉱石のサンプル採取と地形測量を3日間続け我々の任務を果たし無事大口前へ帰着したが、鉱石の品位測定や、埋蔵量の測定は全部中島氏一任で、私は單に中島氏に附追して行き、個人としては仲々行って見ることの出来ない此の異郷の地で帶在中の3日間私は初めて口にする豪華な支那料理を満喫して来たが、以後4年に亘る満洲生活中、再びこのような一流の料理を口にすることは出来なかった程である。

 

※注:写真出典「大紀元:中国、11月の北朝鮮からの鉄鉱石・石炭・鉛輸入はゼロ=税関当局大紀元時報」北朝鮮の鉄鉱石高山

※注1:「白頭山節」は実在しますが、歌詞がちょっと違います(^^;

※注2:頭目というのは戦時中満州周辺で活動していた馬賊の首領のことを指すと思われますが、私が調べた範囲では「陽」という名の頭目は発見できませんでした。

 

第2回目の出張をする

トヨタKCY型4輪駆動トラック

トヨタKCY型4輪駆動トラック

やがて厚さがまだ続いて北海道ではお盆休に入る8月初めに今度は所長より二度目の出張を命ぜられた。
行く先は吉林市より約120km程北へ向った延県(エイケン)※注3と云う所の地形と面積の測量であった。
測量は鉱物調査と違い私の本耺でもあるので今度は凝念もいだかず又吉林本社より中島氏一行が打合せに大口前へ来て帰へって行った。

その翌日私は吉林人石本社へ行き中島氏一行の3名と共に目的地延県に向けて出発した。
ところが今回の乘物はトラックであった。
吉林市内にある県公署(日本の警察本部)より2台のトラックが本社まで迎えに来たが、トラック2台中1台には、武装した満人警察官5名が便乘し、他の1台に私達4名が乘車して出発をした。

目的地延県までは畠と水田ばかり続く景色の中を走り続けたトラックは午后2時項致着し、警察官は我々をとある農家に案内し、休憩もせず、吉林へ引返して行った。

我々一行が宿泊することとなった農家は、満洲各地で見られる典型的建物で、その農家の家族は40才位の夫婦と5才位の男の子の3人家族であった。

満人農家

満人農家

満人農家の家屋は何処へ行っても同じ形式の建物でこの家も、壁は泥の中に藁屑を入れて煉った土を煉瓦状の大きさにして天日で乾燥させたものを積み上げ、屋根は野生のアシの茎(クキ)をたばねた物を使用している。

室内は玄関を入ると土間で大きな水瓶と簡單な調理台がある外、壁に棚を吊って食器類を乘せてあり、その外、一方の壁側に農機具類が乱雑に置いてあるだけであった。
炊事はオンドルの上に大きな鉄鍋が乘っていて、煮炊きは、屋根に使うアシの茎を乾燥させそれを使用していた。

オンドル

又直径1m程もあろうと思われる鍋は常時オンドルの上に据えつけられてあり、その鍋1ヶで総ての煮炊きをやるようになっている。
次に入り口土間を除いた部屋はこれも中央だけが土間で、その両側は一段高くなって、そこが寝室兼居間であった。
そしてその床下がオンドルの煙道になっているので、炊事の際の熱が通るので、冬の夜でも薄い敷布団1枚で寝ることが出来るようになっている。

満州の農家

満州の粟畑

私達4人は、この部屋の片側に頭を壁側にして、薄い敷布団の上に着たままの状態で身休の上には持参の毛布をかけゴロ寝であった。
もう一方は、この家の家族3人が寝て、部屋中央の土間と1段高くなった寝場所は布カーテンが吊ってあった。
又この部屋には装飾品は何一つなく、僅かに部屋正面の突当りに、如来像を絵書いた掛軸が1枚垂れ下げられ、その前に燈明用の油壷(アブラツボ)が1ヶ置かれているだけで、後は衣類でも収納しているのか、黒塗りの大きな箱が4ヶ程あり、これがこの家の全財産であるらしい。

満州の農家

満州の高粱畑

次は毎日の食事であるが、主食は粘り気のないボロボロの高粱米に塩辛い菜っ葉を浮かせた味噌汁に、これも塩味の利いた川魚だけであった。時には大豆を石臼でロバに引かせて粉にしたものを薄く煎餅状にして、それを鍋で焼き、それでネギかニラをクルクルと巻いたものに味噌を付けて喰べるだけで3日間の帶在中肉料理が出たのは一度だけであった。

満州の農家

満州の農家

満洲農家では、味噌、正油は全部自家製である。
まづ大豆に発酵菌と塩、水を大きな4斗樽程もある瓶(カメ)に入れ戸外に置くのである。
そうして或る程度日数がたつと瓶の中の大豆は発酵して、ドロドロした味噌になるのである。
瓶の底のものは味噌として、その上に溜ったものは正油として使用するのであるが、これは只塩辛い味噌であり、正油であり、その味たるや、当低日本の味噌、正油とは比較にならないものである。
しかも塩は岩塩で砂糖は一切使用しない。
これが満人農家の一般食で、如何に当時の農民は日本人農民と同様、粗食に耐えていたかである。

ところが、第2日目の夕食の際に中島氏が連れて来た日本人の助手が、自分の荷物の中から白い粉の入った小瓶を取り出して、それをお菜に振りかけて食べるようにすゝめるので、助手の云う通り、それをかけて食べてみると、味噌汁、漬物、その他のお菜の味が一段と違うのであった。
不審に思い聞いてみると、これが「味の素」であった。※注4

味の素

味の素

当時は現在のように味の素は一般化されておらず、私もこの時が初めてであった。
それで思い返してみると、満洲各地の農家や、その他の土塀に味の素と白い文字で大書されていたことを思い出した。
この味の素の外に大正目薬の広告も出ていたものである。
私共はこの日以来毎食毎に助手から味の素を貰い何んとか、3日間の食事に耐えることが出来た。

次に私達の仕事であるが、この畠ばかりの広野を3日間平面測量を続けたのである。
これは満洲國政府よりの依頼で人石が引受けたものであることを中島氏から聞いたが、何故彼様な所の農地の測量を満洲政府が必要としたのかは中島氏も知らぬと云うことであった。

やがて3日間の実測を終えた4日目の朝又県公署のトラックが迎えに来て私達は大口前へ帰った。

今回の出張は撫松出張とは全く相反して、誇張して云うなれば極楽と地獄の相違があったものだと私は思い出す毎に苦笑を禁じ得ないのであった。

 

※注:写真出典「トヨタ自動車75年史」KYC型4輪駆動トラック

※注3:延県という地名は私が調べた限り見つかりませんでした。なお、吉林市の北東にハルビン市延寿県という地名がありますが、吉林市から約300km離れているので、フクヲの記載と異なります。

※注:画像出典「コトバンク オンドル

※注:写真出典「満州写真館 農業その3」粟畑

※注:写真出典「満州写真館 農業その3」高粱畑

※注:写真出典「満州写真館 農業と農家」鶏のえさやり

※注4:後に生まれるフクヲの長男は成人後、味の素株式会社に勤めることになります。偶然か必然か、面白いつながりですね(^^)

※注:写真出典「器やブログ – 静岡市清水区の骨董屋 器や」商品情報 戦前の味の素ビン

 

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