吉林人造石油(4) ~満州編2-4~

13. 吉林人造石油準社員時代
スポンサーリンク

漢陽鎭に1時宿泊する

第2回目の出張から帰ってから私は又元通り炭調をを続けていたが、私の受持区域の炭調は一応終り、次に区域を変えて、大口前より10km程離れた漢陽鎭※注1という部落近くの炭調を行うことになった。
それで私達が炭調に出かける都度トラックによる送り迎えは出来ないので部落のすぐ近くに元鮮人が住んでいた空家を一軒借りて、そこへ私達5人が住むことになり、調査人員は、從前通り私の外に小林、柏倉、岡部の3雇員に新に林という私と同格の準社員が加わり5名が常駐することになり、班長の小林社員は他へ耺務替えとなり、班長の代理は安本副所となり、安本氏は週1回報告を受けに来るだけとなった。

借家は下図のような間取りで炊事は28才位の満人のボーイを1人雇い、この人は通勤であった。

漢陽鎮借家

借家

時は8月の暑さも去って、そろそろ秋風を感ずる9月の中旬であった。
私達5人は、この家から毎日炭調に出掛け、5人だけののんびりとした生活と仕事を続けていた。

次に漢陽鎭※注1についてふれると、この漢陽鎭という処は満洲でも珍らしい瓶を製造する所※注2であった。
それはこの附近の土質が瓶の原料として最適であったからで、人口僅か2、000人足らずの満人が全員瓶の製造に從事している部落で、満洲でも一寸名の知られた処である。
私がまだ小さかった項、幼年クラブという本があり、これにこの漢陽鎭という所で子供達が遊んでいる内に1人の子供が誤って水の入った瓶に落ち、溺れかかった時に気の利いた1人の少年が石を投げつけて瓶を割り、この子供を救ったというのが載っており、私もその本を見た記憶がある。
それがこの漢陽鎭である。

この漢陽鎭で製造された瓶(カメ)は全満各地に送られ各家庭で使用されているのであるが、それだけにこの部落には金満家が多く、白頭山中の撫松同様匪賊のねらいどころであるが、日本軍は駐屯していない。
それで匪賊襲撃の防御手段として部落内に満洲警察官の派出所を置く外、部落の青年が自警団を組識して毎夜部落内の巡回を行っている。
その外にこの部落は約2町四方に渡って、破損した瓶で高さ約3m程の防御塀を築き塀の四角には望楼を立て東西南北の4ヶ所に門を設けて厚い扉で夜間の出入りを制限していた。

漢陽鎮の夕日

缸窰鎮の夕日

又この部落は夕方太陽が平野の外に沈む項の眺めは荘観なものであった。
それは夕陽が、この部落の週囲を囲んでいる塀の瓶に反射し、キラキラと光るのであった。
それが数キロ先からでも、この瓶の反射光が見られるのである。

私達の借家はこの部落の南門のすぐ側にあり、部落の人達とはすぐ顔馴染みとなり、出入り自由であった。

9月中旬この地方にもすっかり秋の気配が感じられるようになった或る日、私達5人は入浴と夕食を済せた後、外に持ち出した長椅子に腰を降し、団扇等を使い夕涼みをしながら幌内の話等をしていた。丁度その夜は満月で夜空に◆々※注3として輝やく月を見ている内に岡部雇員が突然「部落の呑屋で月見の宴をやろうじゃないか」と提言した。満月に見とれていた後の4人は早速賛成し、部落の中にある、朝鮮ピー屋(呑屋)※注4へ繰込んだ。

この呑屋は朝鮮人経営で女の子が5人程居り、早速この家の広間で我々の酒宴が始まった。
酒は朝鮮のマッカリと稱する日本のドブロクと全く同じようなもので、段々酔いが廻って来るに隨い座はすっかり賑いを呈し、その内に岡部氏は小林氏と共に唐八拳※注5をやり出した。
この唐八拳というのは2人が向き合って正座をし、両手を使って、庄屋、狐、鉄砲を眞似るのであるが、庄屋は両膝に両手を置き、狐は両手を両耳の所に持って行き、鉄砲は、鉄砲を構えた格好をし、その合間に「ハッハッ、ソレ、ドンドン」と掛声が入る誠に賑やかなものであった。

それを見ていた朝鮮ピーは日本の鼓包(コヅツミ)を数倍大きくした朝鮮式太鼓を持ち出して来て、その拳に合わせて打ち出したので、その騒々しさと賑やかさは家の外部まで響く有様であった。
ところが丁度その時、部落の自警団の青年達が、このピー屋の前を通りかかり余りの賑やさに何事だろうと室内を覗き込んだのであった。
それ見た岡部氏は酒の酔いも手伝って、その自警団員を室内に引づり込み「人の部屋を覗くとは何事だ」と、いきなりその青年の顔を数回殴ったので、さあ大変、同行の自警団員の全員と外に飛出した岡部氏との揉合となり、それに岡部氏に加勢した我々4人、その騒ぎに応援に駈つけた自警団数10人とが、ピー屋の外庭で折りからの輝やく月光を浴び乍大乱闘となってしまったのである。

戦うこと約1時間、しかし衆寡(シューカ)適せず、2m余りの警戒用の棒を持った自警団に我々は叩き伏せられてしまったのである。
全く多勢に無勢とはこのことであった。
その結果我々は部落の警察派出所へ連行され、調書をとられ酔いも醒めた我々は、その晩留置所入りとなってしまったのである。

翌日今度は警察が荷馬車2台を仕立てて、1台には昨夜の参考人として鮮ピー3人とそれに岡部氏が同乘し、もう1台には我々4人が乘り、他に護衛の警察官3名が馬で着き添い、この漢陽鎭から約40K程離れた管轄署の有るウラガイ※注6と云う所へ連行された。

満州の馬車

満州の馬車

折りからの晴天の秋日和りの中を馬車に揺られ岡部氏等は同乘の鮮ピイーをキャッキャッ笑わせ乍ら満洲拡野を行くのは、女連れでピクニックにでも行く気分であった。
しかし私はそうした気分にはなれなかった。
それは仕事を放棄し、警察問題にまで発展させてしまった、その責任である。
そう考へるとピクニック気分どころか全く優うつに、ならざるを得なかった。

やがて夕刻ようやく目的地ウラガイに到着した。
このウラガイは吉林から牡丹江行きの列車が通る丁度岩見沢のような地点で、ここに漢陽鎭の管轄署がある所で、到着した我々は、この本署の署長の前へ引き据えられ、署長は漢陽からの報告書を読んだだけで、その日は取り調べも何もなしで留置所入りとなった。
ところが、どうした訳か、私1人だけが留置所に入れられず近くの満人旅館に宿泊させたのである。
私はどうしてこのような処置になったのか以外であった。
それで考へてみると、昨夜の乱闘騒ぎには、私の責任上、両方の引き止め役に必死になって双方の間に入って静止役を務めたことが、自警団の眼にとまり、それが報告書に記載されていたものと思われる。

その翌日これで開放されかと思っていた私共に署長は吉林の本部へ連行せよと命令を受けたと云い、鮮ピー3人は、その場で釈放され、我々5人だけが今度は列車で吉林へ連行されることになった。
ところが監視連行役の警官は3名なので、我々に対して手錠をかけると云い出した。
それで私は作業服に手錠をかけられた姿では日本人の乘客も多い列車に乘せられるのは、この上もない恥辱であり、平身低当し、それだけは許してもらった。

満州の警察

満洲国治安部庁舎

そして其の日の夕刻、やっと吉林市の警察本部に到着し、取り調べなしで直ちに5人共留置場入りとなってしまった。
私は生れて初めて正式の留置場へ入ったが、僅か4帖半程の広さに5人では足を伸ばすことも出来ず、その晩は南京虫に攻められ乍ら壁に背をもたせ一睡もせずに夜を明かしてしまった。

翌日は午前9時頃から取り調べが行われ、私が最后であったが、調査官は日本人の副本部長で、既に私の調書は読んでいたものとみえて、調書には眼もくれずに世間話のように、現在日本内地から我れも我れもと、この満洲へ押しかけて来ているが、その日本人は満洲の内情も判らず只々金取り主義で来る者が大部分で、満洲國法律等には眼もくれず、それを犯す者が多く我々もそれで手を焼いているが、君もこのような満洲より國に帰って日本の為に献身したらどうか、と云うような話しをして私の調べは終った。

その後この本部で昼食が出て別室で休憩をしている処へ既に連絡があったものと見えて安本副所が姿を現した。
そして夕刻近く大口前より迎えのトラックが来たのでようやく3日目にして帰寮出来た。
その晩安本副所長は本部の署長、副所長を吉林市内の日本人料亭へ招待するため吉林に残り、我々5名だけ大口前へ帰へると共に篠原所長の元に参上してお詫の言葉を述べると、所長は哄笑すると共に「君達は良い経験をしたなー」とそれだけ終った。
私はその時「豪放磊落」という言葉は、このような人のためにあるのだなと、改めて尊敬の念を抱いたものである。

 

※注:写真出典「満州写真館 交通その1」馬車

※注:写真出典「Wikipedia 満州国の警察」満洲国治安部庁舎

※注1:「漢陽鎮」という地名は、実は「缸窰鎮」のことではないかと管理人は考えました。以下の章で私が考察したことを記しますので参考にしてください。

※注2:こちらの報告書に缸窰鎮は窯業が盛んであるという内容が記載されているので、フクヲの言う漢陽鎮はやはり缸窰鎮を指すということで間違いないと思います。

缸窰鎭窯業調査報告~吉林工業指導所~

※注3:◆=原文は耳へんに光となっていましたが、このような漢字はありません(^^;)

※注4:ピーとは中国語での売春婦の蔑称で、ピー屋とは慰安所(売春宿)のことを指すのが一般的のようですが、フクヲにはこの呼称を使用するに当たり、当時の時代背景から差別の意識はなかったものと考え、原文のまま記載しています。

※注5:唐八拳(とうはちけん)は、正しくは籐八拳というようです。

※注6:上述のようにフクヲの言う漢陽鎮は缸窰鎮であると考えますが、ここからウラガイ(烏老街)までは約25kmです。

※参考画像:本文とは関係ありませんが、文中写真の建物は現存します。(改修後?)
(写真出典:ふるいたてものずかん 吉林省・長春都市散歩 旧満州国軍政部(軍部)庁舎

 

漢陽鎮という地名についての考察(by 管理人)

中国における「鎮」というのは、日本語では「町」の事を指します。
なので漢陽鎮は漢陽町という意味になります。

漢陽という町(鎮)は中国にたくさんあるようですが、武漢市の漢陽(鎮)が一番メジャーなようです。

しかし、武漢市はフクヲが拠点にしていた吉林市から2,179kmも離れており、大口前(おそらく煤窰)から10kmという記述と合いません。

武漢市以外の漢陽鎮は、ググったところ中国四川省広元市剣閣県と陝西省安康市漢陰県にもあるようですが、吉林市からの距離が前者は2,630km、後者は2,396kmも離れているので、やはり違います。
(地図省略)

 

そこで、こちらの記事の考察に使用した地図を一部改変してもう一度掲載します。

炭鉱マン 大陸に雄飛す
1970.01.01
炭鉱マン 大陸に雄飛す
https://nonakafukuo.com/archives/50439126.html#meiyao
旧題「卒寿フクヲの人生回顧録」…元炭鉱マンのフクヲ(享年93)が炭鉱や満州で過ごした若き日を振り返る

 

煤窰のすぐ南側に缸窰鎮という町があります。

煤窰から約4km位の距離です。
(フクヲの記載する10kmとだいぶ違いますが…。)

缸窰鎮を日本語読みすると「こうようちん」ですが、中国語読みでは「Kang-yao-chen」(カンヤオチェン)となり、「かんようちん」(漢陽鎮)に似た発音になります。

フクヲの言う漢陽鎮は距離的に考えて、おそらくこの缸窰鎮を指すのではないかと考えます。

 

リンク

缸窰鎭窯業調査報告~吉林工業指導所~

コメント

タイトルとURLをコピーしました