羽幌炭砿(築別炭砿)(2) ~北海道・羽幌編1-2~

22. 転職・羽幌炭砿
築別炭鉱
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三毛別の歴史

三毛別地図

三毛別と云う所は、大正の中項、富山県より移住した人々が戸数12、3戸で夏は米、野菜作りをし、冬は農林署の木材伐材作業に從事している人々であった。

商店は1軒もなく、物資の購入は総て羽幌の街まで行かねばならず、入植当時は鉄道の便もなく、約30km近く徒歩又は馬車であったという。

羽幌炭砿が出来る昭和の初期までは全く孤立した山中暮しであったと云う。
それから間もなく舊帝室林野局築別営林署が曙に設けられ、ようやく人間社会の仲間入りしたと云う感じのところであったと云う。
週囲總てうつそうとした森林に囲まれているだけに、入植当時は熊の被害も多く、その惨事は今でも残る作家吉村昭による著書※注1の中で、この三毛別の熊の被害による家全滅した事件※注2等がある。

それだけに私がこの三毛別に来た項は、まだ大木が多く残されおり、これは余談ではあるが、私が坑口開設の為、その附近の樹木が邪魔になるので、羽幌営林署まで出かけ伐材許可を受けた中に雁皮(ガンビ)の大木が含まれており、それを当時伐材した工藤と云う大工が記念にと碁盤を作ってくれたものが、今でも我が家に残っているのである。※注3

 

※注:上の地図に「昭和34年の三毛別」とありますが、「昭和24年」の間違いであるものと思われます。

※注:写真出典「鈴木商店記念館 築別炭砿の中心部を望む風景(当時)

※注1:羆嵐(1977年)

※注2:三毛別羆事件

※注3:この碁盤(と碁石)はしばらくマメコ家にありましたが、現在はフクヲ長女(マメコ母)の家にあります。(碁石入れは管理人により再塗装済)

 

私の酒の由来

私は、この砿務所へ寝泊りするようになってから、すっかり酒の味を覺え込んでしまったのである。

それは私達事務耺の島田という50年配の人を除いて毎日の仕事は、地崎組が昼夜二交対で行っている作業と外に附属作業として行っている、坑外の土木建築作業の監督だけで、朝7時作業開始、午后4時終了であった。

それで私達5人は午后4時には砿務所へ引揚げ、夕食6時が終れば、後は10時項の就寝まで碁盤一つの外はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌等もない、静まりかへった山中の一室で5人が無駄話しをしてゴロゴロしているより外なかったのであった。

それで課長である和気氏が或る日の夕食時に、近くの農家で造っているドブロクを呑み出したのであった。
この和気氏は本当の酒好きな人で、良く今まで我慢をしていたと思わた程の人であった。

その和気氏が1人で呑むのも気が引けたのか、我々にも、すすめるので、1口呑んで見ると、このドブロクの味たるや、甘味があり、非常に呑み易く、又アルコール分も適度で、外の我々4人はすっかり、この味に魅せられ、翌日から皆一同金を出し合って、島田爺さんに昼の中に附近の農家廻りをさせドブロクを買集めて、毎晩我々5人が就寝時までオドを揚げる※注4ように習慣づいてしまったのであった。

私はその時以来、酒の味を覺え以後、今日まで夕食時の酒を切らされなくなってしまったのである。

 

※注4:「オドを揚げる」とありますが、これは「おどをあげる」=「おだをあげる」のことで、「調子に乗って勝手なことを言う」とか「無駄話に気炎を上げる」というような意味のようです。

 

家族幌内より築別炭砿へ移住する

築別炭鉱

以上のような生活を繰返している内にやがて12月も暮れようとして来た項、正月休日が4日間出ることになったので、私は築別砿の庶務係に連絡をし、家族を連れて来ることにした。
而し庶務係では目下、耺員住宅の空きがないので暫くの間、家族数も少ないので何処か間借りをしては、どうかと云ってくれたが、私には心当りがなく、古田婦人に相談をして見ると、空住宅が出るまで、私の処に同居しては、と云う事になった。
幸い私は週1回帰宅するだけで世話になるのは久子と隆文の2人なので、結局婦人の云う通りにすることにした。

それで私は30日に庶務へ給料や引越旅費の受取りに行き、1ヶ月分の給料と赴任旅費を受け取り、31日の夕刻朝日の義姉宅へ帰ったのであった。

それから義姉には1ヶ月分の親子の食費を支払い、その晩は昭和23年の年越しを義姉の家で迎えさせてもらったのである。
義姉の処では息子2人の安給料の処へ、久子と隆文の2人を置いてもらったので、この12月1ヶ月間の生活費は大変な苦労であったに違いなく、私は義姉には全く迷惑をかけたものであった。
又私は会社から支給された給料と赴任旅費は、仮拂いであるため予想以上に金額も少なく、義姉に対しては、充分な謝礼も出来なかった。

翌1日は幌内へ戻り、母に預けてあった家具類を駅まで運び築別までの輸送の手配等をして1日が終り、2日、家族3人で出発、その日の夕刻築別の古田氏宅へ到着した。

古田氏宅も前述のように耺員住宅の空きがなく、末広町という砿員住宅に居住していたが、此処も炭砿砿員住宅の間取りや広さは、いづくも同じで、水道、トイレは共同で、間取も6帖2間だけの狹いもので、ここに古田氏家族6人と私の家族2人が入居するのであるから、婦人には全く申訳けのない次第であった。

古田氏宅

やがて私達の引越しも終り正月明けとなり、私は又再び三毛別の砿務泊りとなり、土曜日の夕方古田家に危介になっている家族の元に帰り、月曜日の朝三毛別へ戻るという生活を続けていた。

こうした生活が約1ヶ月程続いている内に古田家の隣りが空いたので、私達3人は、そこへ移り、やっと家族3人の生活が出来るようになった。
そして労務係の許可を得て両家の玄関上り口の仕切りになっているベニヤ板2枚を取り外し、両家が自由に行き来が出来る、いわゆる二戸一軒式の家にしたのであった。

これで私は安心をして家をあけることが出来るようになった。

その項隆文は古田家の人々にもすっかり慣れ切って、朝起きると自由に仕切りのない玄関板の間を通って古田家へ行き、我が家同然にしていたものである。

こうして家族も、この築炭の生活になじんで来たのであったが、どうしたことか、隆文がこの築炭へ来てから、気候、風土が会わのか、常に風邪や、発熱にかゝり、炭砿病院へ通うようになり、醫者の白衣姿におびえ、泣き出すという、すっかり虚弱体質になってしまった。

又、理髪店へ毎月2度は散髪に連れて行くのであったが、その散髪屋のおやじの着ている白衣を見ても泣き出す有様で久子もこれには手をやいて、この理髪店に頼み込み中古のバリカン、ハサミ、等をゆずり受け、隆文の頭髪は一切久子がやるようになったのである。

 

※注:写真出典「鈴木商店記念館 築別炭砿の中心部を望む風景(当時)

 

シベリヤより兄帰還する

話は前後するが、兄健治が本年1月初旬、シベリヤより召集後6年振りに帰還したのであった。

私は丁度築炭に移住したばかりで、兄の帰還の知らせを受けたが、会いに行くこともならずに居たのであったが、兄は家で約1ヶ月程休養した後、又召集前に務めていた幌内市街地の木村歯科院に務め、各地の出張治療に院長と共に出歩くようになり、その給與の中より1、000円※注5を私の元に送金してくれたのであった。

当時の1、000円は現在の1万円位に相当するもので※注6、又会社より支払われる私達の給料が月二度の分割拂いであっただけに、この兄の送金は非常に有難かったものである。

 

※注5:1949年(昭和24年)の1,000円は、現在の価値に換算すると7,700円くらいです。(※注7

※注6:この前年の1948年(昭和23年)だと、1,000円は現在の1万円くらいになります。(※注7

※注7:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

リンク

コメント

  1. yamaguchi より:

    はじめまして。
    なべさんの部屋のなべさんからご紹介いただきご訪問させていただきました。
    私も45年程前に亡くなりました父の日記を今年2月より公開中です。
    農家の子として生まれた父の毎日の農作業の記録など、自然と共に生きる農村ののどかな風景が感じられると思います。
    軍隊日誌など終戦直後まで公開予定です。
    少年時代の日記は日常の記録など短いものですが年を重ねるごとに1~2ページにわたる記録もありどんなサプライズがあるのか私自身も楽しみにしております。
    私の父も大正八年生まれ、おじい様とは同世代、ブログを通していろいろお話を伺えればと思います。

    本日より毎日ご訪問させていただきたいと思います。もちろん全てのランキングの応援も忘れずにさせていただきます。

    おじい様にもよろしくお伝えくださいませ。

  2. マメコ より:

    ★yamaguchiさん

    コメントありがとうございました。
    お父様の日記拝見しました。
    フクヲのブログは当時を振り返った回顧録という形で、半世紀以上も前のことをよくもまあこんなに事細かに覚えているものだと感心するのですが、お父様のは当時の事を書き留めた日記ですから、臨場感があって、昭和初期の農家の状景がありありと浮かんできますね。
    農家出身のダンナは唐箕の写真を見て「なつかすぃ~」と言っていました。
    次の更新を楽しみにしています。

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