羽幌炭砿(築別炭砿)(1) ~北海道・羽幌編1-1~

22. 転職・羽幌炭砿
築別炭鉱
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古田氏羽幌炭砿に就耺する

古田氏とは隆文が誕生してから会うこともなく、疎遠になってなっており、季節も何時しか10月ともなっていた。

ところが思いがけなく住所は羽幌町築別炭砿で古田氏より来信があったのであった。
その内容は現在羽幌炭砿に就耺し坑内係員として務めているが、一度此方へ来てみないかと云うことであった。

それで私は10月の秋も深まった項、この築別を訊ねてみたのであった。
道北への旅行は私は初めてのことで、鉄道地図を見乍ら滝川を経由し、深川、留萌、築別の3駅で乘替え夕方近く、築別より築別炭砿行に乘ったのであるが、まづ驚いたのは、この線は羽幌炭砿専用線だとのことで、主として石炭の輸送が主であるだけに、乘客用の客車は2輌だけで、その2輌共、マッチ箱のような小型で窓の両側に長い腰掛けがあり、更に車内の照明用に天井に坑内で使用するキヤップランプが3個吊してあるだけの、その項でも余り見ることない至って粗末な客車であった。
これには、さすがの私も、これはとんでもない処に来てしまったと驚いたものである。
築別炭砿までの巨離は24kmとのことで午后4時項、到着した。
乘客は約10数人で、駅に当着時刻を電報で知らせて置いたので婦人が出迎えに出ていてくれたのであった。

私は婦人と一応挨拶を交わした後、改めて、駅週辺の景色を見ると、駅裏側は山で、駅前に10数軒の店があり、更に川の両側に炭砿の、施設と住宅があり後は山ばかりの本当の山中の中に閉じ込められたような処であった。

羽幌炭鉱

暮れかかった、この山中のうらさびしい炭砿の駅から婦人に案内をされ駅前の橋を渡って末広町という古田氏の家に着いた。
此処は駅から10分足らずの処であったが、古田氏は会社の坑内耺員であったが、耺員住宅に空きがない為、この住宅は一時の仮り住いで、砿員住宅であった。

炭砿の砿員住宅は何処の炭砿も同様のもので、6帖2間で共同トイレと共同浴場で、此方に古田氏一家6人が入居していた。

その晩は夕食後、床に入るまで古田氏のこの羽幌炭砿就職についてもいきさを聞いてみると、

古田氏は前述のように渡満するまでは幌内砿業所、布引坑の砿員で、坑内作業に從事していたのであったが、私同様、幌内砿を無断退耺をし渡満した組である。
その項私や古田氏と同様に渡満した中に古田氏と同様、布引坑で坑内夫の耺に就いていた友人で村井と云う人が居たのであったが、此の人は私達とは別個の撫順炭砿(満洲)に就耺したのであった。
それが終戦で撫順炭砿を引揚げ帰國の際、同じ撫順炭砿で採炭部長として務めていた京都大学出身の朝比奈敬蔵と云う人と共になったが、この人は年令は50才近い人で單身であったと云う。

それで途中、日本着まで村井婦人が、この朝比奈氏の身の廻りの世話をし、北海道着後、札幌で別れた切りになっていたところ、その後朝比奈氏は羽幌炭砿の重役となり、築別の山元本社採炭部長となった相である。

そして落着きを取り戻した朝比奈氏は引揚途中、身辺の世話をしてくれた村井氏を思い出し、引揚後の村井氏深してみると、美流渡の個人炭砿の砿員として仂いている村井氏の住所を知り、早速この羽幌炭砿(株)築別砿業所の坑内耺員として採用してくれたとのことである。

その村井氏が又、布引坑で友人であり同僚であった古田氏を思い出し、朝比奈部長に古田氏の採用をお願いした結果、古田氏も又村井氏同様、築別砿業所、坑内耺員として採用になったと云うことであった。

その古田氏が今度は幌内砿業所で砿員で務めている私の事を思い出し、村井氏を通じて朝比奈部長に願出て私も坑内耺員に採用してもらうことが決定したので、それで今回私の築別来訪となった訳である。

 

※注:写真出典「鈴木商店記念館 (A)築別炭鉱

 

私の羽幌炭砿(株)採用決定

築別炭鉱駅

古田氏宅に一泊した翌日、私は昨夜、此処の山元本社企画課に前述の吉林人造石油(株)当時、大口前砿業所で共に炭尸調査を行っていた坂木三郎氏が、居ると聞いたので、まづ最初に坂木氏を企画課に訪ねたのであった。
坂木氏はどういう伝手があって、この羽幌炭砿に入所したかは聞き洩らしたが、現在は山元本社企画課長として地質調査と開発企画の耺に就いていた。

この坂木氏は夕張工業学校出身で、私のことは大口前砿業所当時、班は異っていたが、同じ炭尸調査を行っていたので、良く知っているので挨拶を交し後、私の入社手続、その他總てを処理をしてくれ、その晩は会社クラブに宿泊をすることまで手配をしてくれたのであった。
又入社保証人に坂木氏がなり、結局私は羽幌炭砿、社員、企画課勤務と決り入社年月日は昭和23年11月1日付と決定したのであった。

こうして私は午前中坂木氏の元で入社手続等を済せた後、昨夜古田氏に聞いた江尻氏のことであった。
この人は小学当時の同級生で彼は羽幌炭砿開発当時に砿員として採用され、以後年功により現在配給所の主任をしているというので、配給所に江尻氏を訊ねて、クラブより取寄せた昼食辨当を馳走になり、夕方まで話込んで、夜、坂木氏の接待でクラブに泊った。

翌朝は築別駅発の9時項の列車で夕方家着で帰宅した。
この築別行は例によって私の着用して行く、衣類がなく、久子が朝日から久子の兄の背広服を借りて来て、それで間に合せたものである。

扨て私は築別より帰った翌日、倉庫係長の元に退職願を提出したとこ、その翌日許可が出て、その晩思いがけなくも会社クラブで副所長と係長の出席で送別会を開いてくれたことであった。
普通砿員の退職にこの様なことは一度もなかっただけに私は以外感じで、この晩だけは結構な料理と清酒で、余りアルコールに弱かった私は、すっかり酩酊してしまったのであった。

さてその翌日から家の整理に取りかゝり、僅かばかりの家具類は母の元に預け、久子と隆文は久子の希望により日野の義姉の元に置いてもらい11月1日、築別目指して出発したのであった。

これは前回築別に行った際、当分社宅の空きがないので單身赴任をしてくれと云われていたのである。

 

※注:写真出典「鈴木商店記念館 築別炭砿駅構内(昭35年頃)

 

羽幌炭砿(株)企画課勤務として着任する

その日は幌内発7時の早朝で築別当着は午后1時項で、早速企画に出頭し、辞令と共に社員バッチも給付された。

羽幌炭鉱社員章

このバッチは北海道炭砿汽船株式会社(北炭及満洲鉄道株式会社(満炭)の物と良く似ていた。

そして私の宿舎は朝日台に在耺員寮の1室で3人同居であった。

翌2日午前7時出勤で企画課へ初出勤をすると、坂木課長は羽幌炭砿の全図を拡げ、私に三毛別炭尸調査をやってくれとの事であった。

それで私は午后から坂木氏と共に三毛別の現地に向った。
この三毛別という処は築別炭砿駅の一つ手前の曙と云う駅より約10km程あり、交通の便は全く無く、總て徒歩であった。

この三毛別は農家が7、8軒あるだけで週囲山に圍まれた盆地のような処で、この盆地の山裕に顔を出している露頭炭を試堀して、炭尸の埋蔵量を調査するのが私の職務であった。

その為に築別砿より毎日通うのでは能率上の問題もあるので、現地にバラック式の宿舎を建てたのであったが、それが私の着任を待ち構えたように丁度完成したばかりであった。

それで作業員4名と、炊事夫1名と共にこのバラックに入居した。
そして4名の作業員は築別炭砿の砿員住宅に住む家族持ちの40才以上の者で、炊事夫は25才の独身であった為、土曜日は炊事夫1人を残し、私と作業員4名は築別炭砿へ帰り、私は耺員寮の自分の部屋に泊り、月曜日の朝7時までに三毛別に戻るという生活に入ったのであった。

これと同時に会社では石炭の埋蔵量の大体を把握(ハアク)したので企画課ボーリング調査係を設け、上羽幌二坑の炭尸調査と、三毛別の調査及、両ヶ所に本建築の砿務所の建設に取掛ったのであった。

此の山中にも12月の初旬ともなり雪が積り出したが、私の仕事である炭尸試堀調査の方も大体一段落したのであった。

それと同時に砿務事務所が完成し、人員も和気と云う京都大学採鉱科出身者を砿務課長として私外4名の北大及秋田専門学校出の若い耺員が配置されたのであった。
作業も地崎組を使用し本坑道の堀進が昼夜二交対で始まり、いよいよ本格的な作業開始となったのである。

新築事務所

砿務所は約30坪の大きさで、事務室の外に我々5人の二段式ベットの一室、60才位の炊事婦1人の計6人で、この内和気課長と私の2人は土曜毎に築別へ帰り、炊事婦と他の3人は独身で泊り込みであった。

この砿務所が完成すると同時にバラック式宿舎も取りこわしとなり作業員3名は築別本坑へ戻り、炊事婦の婆さんは新築砿務所へ移った。

そして間もなく砿務事務を取り扱う50年配の砿員1名と、その外、この砿務所と築別の山元本社への連絡係として小学出の16才の少年を入れ7名の人員となったのであった。

 

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