羽幌炭砿(築別炭砿)(3) ~北海道・羽幌編1-3~

22. 転職・羽幌炭砿
羽幌炭鉱全景
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築炭より曙に移住する

永かったこの築別の雪に埋れた山中にも5月ともなり春爛漫の季節がやって来た。

会社の方は開発作業も進み、出炭開始の時が近づいた為、三毛別の砿務課も耺、砿員共、増加し、約50名を越える人員となった。
思えば私が、この三毛別に来た項は僅か5、6名だったのである。

会社では耺員12名砿員約80名に対し、住宅を砿員優先にして砿員住宅を建築した為、砿員の人達は入居出来たが、耺員住宅は、まだ未建築で砿務課耺員の中で年輩の者、3人程が往宅の完成を待ち切れず三毛別、曙間の農家の納屋等を改造してもらったり、又空家を借りて住む者が出初め、又会社で三毛別に診療所や簡易物資配給を開くようになった。

それで私も隆文を環境の良い所に住わせたなら良いのではなかろうかと考へ他の人に習って三毛別と曙間の農家を訊ね歩いてみたのであった。

ところが幸いに三毛別、曙の中間の杦沢という農家が私の話に応じで承諾してくれたのであった。

それで私は築炭遮務課へ行きその旨を話したところ、遮務課では直ちに杦沢家と話会い家賃は会社負擔で期間は10月末までと決定してくれた。
尚これは余談ではあるが杦沢家としては当時農家は全部ランプ生活であったが会社施設だけは電気が入っていたので会社の助力により出来得る限り送電線の途中に有る農家に電気を導入してもらたいと思わくがあったようであった。

曙地図

杦沢家では会社と話しがついた、その翌日から大工を入れて私の為に住居の新築に取りかかってくれ僅か1週間で完成したのであった。
杦沢家は私の入居期間が5月から10月までとの話合上新家屋は、私が退去した後は農機具類の置場にする積りであったので、本建築ではなくバラック式の家屋であった。

杉沢家と我が家

場所は杦沢家の入口近くの空地を利用したもので私としては申し分のない環境の地であると思った。
それは何より空気が地区炭の煤煙地帶と違い清浄であり、隣家のない一戸建てであることが何よりで、炭砿住宅より経験のない私には何よりの恵みであると考へたのである。

こうしてバラック式といえども私にとっては新築であり、5月初旬に築炭より古田氏夫妻の手伝いで入居した。

此処へ入居して感じたことは、曙駅まで4km、私の耺場までは5kmの巨離で乘物の便が全く無い總て徒歩でなければならないと云う点だけで、その他は全く気にならす、時は丁度5月、この地方には桜こそ1本も見当らない地であったが、若葉の中に小鳥のさえづりを聞くだけでも極楽の心境であった。

又この家の杦沢家というのは、この部落全員が、そうであると同様富山からの入植者で、家族は杦沢松五郎夫婦(共に60才近い)長男夫婦と小学校3年の男の子、次男20才の6人家族であった。

又家族の男3人共、酒、煙草は一切やらず眞自目一方の人達であった。

この部落の同郷者の話では父親の松五郎さんは、佛の松五郎と云われる程の人で口数の少ない温厚な人で、又他の人々も心の優しい人であり、同郷者の話では、財産は1反風呂敷に1包もある札束を持っている程の金満家であると云うことであった。

此処へ引越をしてから隆文は私の予想通り、環境の相違からか、誰れも相手の居らない、広々とした所で棒切れ1本持って毎日馳け廻り、杦沢家で飼っている猫や野放しにしているニワトリを相手に遊び暮すようになり風邪も引かず、すっかり健康を取り戻したのであった。
これを見て杦沢家の主人松五郎さんは、金で買えるものであれば坊や(隆文)を慾しいものだと、久子に云う程松五郎さんは、すっかり隆文を気に入ってくれ程の優良児に変ったのであった。

又此処での生活は私の子供の項以来初めてのランプ生活になり、その他、主食類は、まだ配給制が続いていたがこれは会社の帰り、配給所に寄り、これを持って来るようになり、その他魚類は海が近い関係上、配給外でも入手出来、又野菜類は杦沢家の母が時々持って来てくれるので全く不自由はなかった。

又入浴は、杦沢家の土間の浴室の貰い湯であり、飲料水も又杦沢家より運ばねばならなかった。
不便はその位のもので、毎日ランプのホヤ掃除は私の日課であったが少しも苦になることはなかった。

 

※注:写真出典「日本の過疎地 羽幌炭砿今昔」羽幌礦全景

 

優子誕生する

やがて7月1日※注1に優子※注2が誕生した。
幸い私の家から100m程離れた農家の納屋を借りて、私と同僚の西山と云う人が入居しており、その奥さんが正規の助産婦の資格を持った45才位の温和な人柄が居り、最初から最后まで、その婦人のお蔭を蒙ったのであった。

優子の誕生を直ちに幌内へ連絡すると、幌内から母が、その翌日初めてこの曙にお産扱いに来てくれたのであった。
お蔭で私非常に助かり、母は1週間居て幌内へ帰って行った。

これで我が家は4人家族となったが、優子は誕生した当時から泣き声一つあげず、授乳さへしておけばフトンの中から両手を出して、振り回し乍ら1人遊びをしている全く手のかゝらない子であったのが、この避地に住む私達2人にとっては、何より幸いなことであった。

優子の誕生を機に古田婦人が月に1、2度、我が家を訊ねて来ては一泊して行くようになり、やが9月の秋の項となった。
週2、3回の入浴は杦沢家の浴室を利用していたが、8月初旬項より、井戸水が減少し出し、入浴まで及ばなくなったので、杦沢家では、私達のため、風呂桶を川の側へ移動してくれたのであった。

風呂場

浴槽は移動し易い昔の桶式の五衛門風呂であったが、大人2人同時入浴出来る大きで、簡單な洗場まで設けてくれた。
入浴は夕食の終った7時~8時項で、まづ私共家族4人が優先にしてくれ、風呂の周囲は樹木に囲れ、附近に人家は無く、虫の声を聞き、月光を浴び乍らの入浴は当低他では経験の出来ないことであった。

9月中旬、秋風が少々身に沁みるようになった項古田婦人が例によって、我が家訊ねて来て一泊した。
婦人が来た日は丁度入浴日で、夕食を済ました後の8時項、久子と婦人の2人だけ、この川渕の風雅な入浴を楽しんで、終って家へ戻って来た2人の云うことは、2人で入浴中突然側の川にガバ~ガバと大きな水音がし、驚いた2人は浴槽の中から裸で飛出し、川を見るとそれは川を遡(そ)上する鮭であったと云うことであった。

私はそれを聞いて考へ込んだのは築別の海から此処までは約30km以上もある小川であるが、良く鮭が、ここまで遡上して来たものであるということである。
それ程この小川は清浄な流れであった。

 

※注1:1950年(昭和25年)

※注2:優子はマメコの母です。

 

会社の耺員住宅に入居する

やがて10月ともなり、寒気が少に沁みる項、ようやく待望の会社新築耺員住宅が完成した。
場所は三毛別の奥に農地を買収し完成したのは1棟2個続きで、これが10棟で20人の耺員家族が入居したのであった。

間取りは6帖2間の外に流し台所は別でトイレ付きではあったが入浴だけは共同浴場であった。

此処へ来てから、隆文も同じ年令の友達も出来て、毎日その子達と外遊びに予念がなく、優子は、まだ誕生日前の5ヶ月であり、久子が家事をやっている間中、居間の出窓の内側に座らせておくと、1日中でも、座った切りで外を眺め1人遊びをしている全く手のかからない子で、私は幼児の項の優子の泣き声を聞いた記憶がない程である。

この項には会社の開発工事も着々と進み、採炭開始となり会社の機構も準い、

組織図

上図のように決り、いよいよ羽幌砿業所では出炭開始となった。

それで私は入社当社は山元本社企画課であったが、羽幌砿業所の出炭開始により羽幌砿業所本坑保安係長となった。
各抗には砿務課長を長に、その下に採炭係長、整備係長、運搬係長、保安係長、測量係長の5係長制度となった。
そして私は保安係長となった。

 

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