石炭業界の衰退始まる
終戦となった昭和20年より國力の回復は石炭からという掛声と共に、海外引揚者を吸収し、これに答えて来た炭砿も世界の状勢の変化により、衰退の兆候が出初めて来たのは昭和37年項からであった。
これは炭価の安い外國炭の輸入と、石炭に代る石油が出始めたからであった。
それでまづ戦後雨後の筍のように出始めた個人経営の小炭砿からで全盛時代は道内だけでも130炭砿と云われた炭砿数が除々に減少し始めた。
しかし、大手炭砿はまだ建在であった。
この項、中小炭砿の油谷炭砿に務めていた管生氏(久子の兄嫁の弟)(※注1)は、油谷炭砿が廃山となる直前、私と札幌で開催した救護隊の会合で一諸になり、油谷の窮状を知り、私が羽幌炭砿に推擧し羽幌に就耺したのは、この時期である。
しかし此の項は、まだ羽幌も順調な経営を続けていたが、炭砿の将来性の見限りをつけて、退耺して行く砿員が出始めていた。
会社では、先の見通しをつけ、55才停年者対策として耐火粘土採堀販売会社、坑内使用の鉄柱の修理会社、炭砿用地の販売、札幌ハイヤー会社の設立等の第2会社を設け、此処へ、耺員の50才間近になった者の配置転換を行うようになった。
※注:写真出典「鈴木商店記念館 羽幌本坑の航空写真(昭和43年夏)」
※注1:「管生」氏は正しくは「菅生」氏です。
札幌本社勤務となる
隆文が北大入学をした、その年の1月私は札幌本社、社長室勤務となった。
年令も丁度丁度50才で、会社では配置転換の50才老年組であった。
辞令の日付けは1月3日で私は正月を家で過し、2日に札幌着、3日の御用始めから出社した。
本社の社長室には、私の外に吉田という人が居り、この人は札幌通産局の担当で、私は札幌保安局の担当と云う耺務であった。
而し、私の住居は定っておらず、当時会社では山の手に10数戸と、眞駒内に10数戸のマンションの外、、北24条に8戸の1戸建て課長住宅を所有していたが、何故か、私には着任その日から大五ビル近くの旅舘の一室があてがわれ毎晩、晩酌付きで約2週間、その旅舘住いであった。
それから間もなく、私が入居したのは会社の耺員が入居しているマンション近くの一戸建借家に入居することになった。
而し当時優子は羽幌高校3年生(※注2)で後卆業まで2ヶ月あったが、これは炭砿クラブの一室を提供してくれたのである。
そして私は山の手の三間ある広い借家に、学生寮を出た隆文と3人暮しとなり、やがて4月には隆文が北大に入学するのと同時に優子は羽幌高校一年生だけ(※注2)で変る。
家族4人暮しが出来るようになり、優子も又札幌の女子高校へ転入することとなる。
こうして、ようやく家族4人の生活が出来るようになったのではあるが、考へて見ると私は住宅の都合ということで單身2週間、旅館住いをしたが、山の手には会社の耺員寮が在り、私1人位、入れなかった筈はなく、又社宅も山の手、眞駒内に20数戸もあり、そこへ入居出来ない筈もなく、わざわざ山の手の1戸建住宅を深し、優子を例2ヶ月間といえどもクラブの一室を與えてくれたのである。
これは私如き一係長に対しては破格に近い待遇といわざるを得ず、これは20数年間万年係長で終わろうかとしている私に対するせめても好意ではなかったのだろうかと考へたものである。
さて私の耺務であるが、全く暇で山から送られて来る保安関係書類を監督部に届ける位と、監督部より山への連絡事項があれば、それを伝達する位で、後は1日机に向って座っているだけであった。
もう1人の通産局担当の吉田と云う人は、社長室在勤5年のベテランで、結構身体を動かして、何処へ行くのか、半日は外出している人であった。
それでも私は8月まで勤務していたところ突然の発令で、私は又再び、保安課へ戻ることになったのである。
※注:写真出典「鈴木商店記念館 ⑱大五ビル」5階建の頃の大五ビル
※注2:優子の高校の年数が合いませんが、原文ママで掲載しています。
山元本社保安課へ転勤となる
そして私の代りは現在保安課長を務めている和気と云う人であった。
この人は、私が羽幌炭砿へ入社した当時、三毛別の本坑開発で課長を務めていた年令は52才の人で、会社では50才以上の者は、第二会社へ出向になる筈であったが、この人は羽幌本坑開発の功労もあったからなのか、残留していたのであったが、遂いに老年者向きの社長室勤務となってしまった。
さて再び元の耺場である保安課へ戻ると、和気課長の代りに本多と云う、私が羽幌へ就耺した当時、京大卆で新入社して来た人であった。
年令もまだ40才位で、一時は私の部下であったこともある。
そうした関係上、保安課へ戻った私は、札幌保安監督局との連絡係のような仕事と、もう一つは、会社では数年前より始めていた耺、砿員研修所の講師であった。
この研修所というのは、普通高校出の者と、中学卆の者で何れも会社從業員を父、兄に持ち、今後炭砿就耺を希望する者で両方併せて25名程であった。
此の研修所へ私は講師として週3回講議に行くことになった。
そして札幌の方は北24条の課長住宅6戸の内1戸が空いたので家族は、そこへ転居し、私は築炭の耺員寮の一室に入居し、旅費の関係月2回、土曜毎帰宅をすることになった。
その内隆文は函館の学生寮に入居したので、家族数は又再び元に戻ったようなものである。
やがて、その年も終り、翌年の春、本社の總務課長より、北24条の社宅を空けて、家族を山へ戻すか、又は札幌に借家を借りるか、どちらかに決めて慾しいと連絡があった。
それで私は月2回札幌への帰宅の面倒を考へ、山の社宅へ入ることを希望し、雪が消えると共に久子と2人山の社宅へ転居し、優子を(三ヶ月だけ)専問学校の寮へ入れることにしたのである。
こうして再び山での生活が始った、その項、稲村氏は停年となり、虎杖浜へ転居した。
この項、私は改めて両鉱業所見渡して見ると、50才以上の元所長、課長、耺員は總て、第二会社へ変り、残っているのは私1人であった。
※注:写真出典「鈴木商店記念館 山元本社と築別砿業所(昭和35年頃)」
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