稲村氏羽幌砿業所耺員となる
やがて昭和26年ともなり、羽幌砿業所本坑も坑内進展と共に坑内技術耺員数も不足となった項、私は茶志内炭砿より来た砿員から、ふとした機会に稲村氏が茶志内炭砿の坑内請負作業で木内組という組の坑内係員をやっていることを耳にし、早速手紙を出した処、稲村氏は、私を訊ねて三毛別に来て早速その日の内羽幌炭砿(株)耺員に採用され羽幌砿業所、本坑坑内整備係員に決定し、家族は住宅の都合上、小樽の稲村氏の実家に置き稲村氏は單身赴任で耺員寮に入居したのであった。
※注:写真出典「日本の過疎地 羽幌炭砿今昔」羽幌礦全景
久子新幌内炭砿病院へ入院する 45年5月.
この新築住宅へ入院し1年程経過した項、久子が身体の不調を訴へ、その項幌内の兄は木村歯科を止めて新幌内炭砿病院の歯科へ務めていた。
久子はこの築別炭砿病院では、頼りがないというので、兄の顔で新幌内炭砿病院へ入院し婦人科の手術を受け約2週間入院した。
この入院中の手術、入院料も兄の顔で全部無料にして貰へたのが、その当時会社の私達の給料が分割払いであっただけに非常に有難いものであった。
尚又、隆文と優子は入院中幌内の母が預ってくれ、その間は私の方は自炊を続け、新幌内の病院には一度も行かずに終ったのである。
この久子の新幌内炭砿病院への入、退院は一切、私の力を借りず最初から最后まで、子供2人を連れでやって退けたのである。
それだけ当時は久子も若く、やる気充分であったのであった。
※注:タイトルに「45年5月.」とありますが、この出来事は記事の内容から類推すると昭和26年(1951年)のものと思われ、なぜ「45年」なのか不明です(^^;
※注:写真出典「鈴木商店記念館 羽幌炭砿鉄道病院」
※参考画像:2009年(平成21年)の羽幌炭砿鉄道病院(築別炭砿)
(写真出典:KEN五島の写真家ブログ KenGoshima Photography)
※注:KEN五島氏はフクヲの孫(マメコの妹)の夫です。
兄の来訪
久子が退院したその年の10月兄が突然初めて、この三毛別の我が家を訪ねて来たのであった。
それが丁度日曜日で私は、その日築炭で救護隊の共同演習があり、朝から築炭へ行き、演習が終った後、この演習の指導に来てくれた岩見沢救護連盟の吉川という指導員接待のた救護隊長と私の2人が、羽幌の町へ出て接待をし、その日私は羽幌町の旅舘に一泊し、月曜日の昼近く帰宅したところ、兄は仕事の都合上、その日の朝に新幌内へ帰った後であった。
こうして突然訊ねて来た兄とも会えずに終ってしまったのである。
川渕の一戸建住宅へ転居
最初の社宅に入居して2年が経過し隆文は4才、優子が2才に成った春、会社では、すっかり計画の通りの、耺、砿員の住宅が完成した外、学校、病院、配給所、クラブ、等の建築が終了し私は今度、川渕の一戸建係長住宅に入居出来るようになった。
この住宅は6帖、8帖の二間であったが、家の前の道路を狹んだ所に小じんまりとした共同浴場があり、家の横を通る道路のすぐ側は川であり、又裏は畠が出来る程の空地であった。
この地域に課長、係長、及上級耺員の住宅が纏っている所であった。
羽幌砿業の推移
昭和26年項を境に三毛別に有る本坑は急激に発展をし、私は左図(※注:上図地図)①から③までの順で広い社宅に変り、此処で隆文が小学校(三毛別小学校)に入学した。
又会社の会舘も完成し優子は、此処で羽幌町より週1回来るバレー教師についてバレー(※注1)を習うようになった。
※注1:バレーボールではなく舞踊の「バレエ」のことです。
羽幌二坑に転勤となる
隆文が小学入学した年の春、私は二坑の保安係長として転勤になった。
此処も本坑同様、耺、砿員住宅が分離され、一応、病院、小学校、映画舘、商店が二軒、会社配給とが完成している処で中央に上羽幌川と云う大きな川があり、山に囲まれた山林地帶であった。
この上羽幌という処は羽幌川の上流に位置し、羽幌の町まで約15km程あり、交通機関はなく、總て徒歩である。
又上羽幌、三毛別間は、これも徒歩で約10kmの巨離である。
この上羽幌に約1年勤務し、次は築別山元本社、保安課に転勤となった。
此処は、羽幌炭砿の始発点だけあって、三毛別、上羽幌とは比較にならない程、規模も大きく、人口も多い処であった。
しかし中央に山奥より流れ来る川を狹んで、その両側は森林地帶の山であることは三坑共同じであった。
保安課転勤のため再び築炭居住となる
私の転勤となった山元本社というのは、築別砿業所、羽幌砿業所の何れにも属さず、両砿業所の坑内保安及監督官庁との接渉を行うのが主務で、この山元本社には保安課の外に地質課、企画課、總務課の3課があった。
私は保安課に転勤になってから、札幌出張が多くなった。
出張先は札幌鉱山保安監督局、が主でその外に、鉱業技術試験所、又保安課で坑内で使用する火薬類の購入をも行っていた関係上、札幌の旭化成、日本化薬、日本窒素等、外に社内公報や、保安啓蒙宣伝のため、各砿業所に保安塔を設けたり、アドバルンを掲揚したりしたので電通との連絡、打合せ等でこれら関係ヶ処へ2ヶ月に1回の割合いで行くようになった。
そうした関係上、監督局役員の札幌での接待、又私が各火薬会社や電通の接待を受ける等で、出張の都度、接待に附き物である酒で、すっかり私の酒量の腕が上ってしまった。
又私の酒量の上った原因の一つには、鉱山保安監督局より毎月1回定期的に坑内保安設備の点検に局員が来山するようになりその都度、私は保安課長と共に会社クラブで、接待しなければならかった。
時には、そ時の状況で、保安課所有のジープを使用して羽幌の町まで出ることもあった。
尚保安課長は余り酒が呑めな人で監督官の接待は殆んと私1人が引受けていたようなものである。
又私は出張用件の軽、重で、軽度の出張の場合は、出張旅費を利用し、家族を伴い、幌内、朝日の実家へも隨分と連れて行ったものである。
私は保安課へ来てから数年経ち、42才となった項、羽幌鉱業所二坑の保安課駐在員として、二坑へ転勤となり、その年の春、ツイカンバン、ヘルニヤと云う腰骨の手術のため札幌医大へ約半月、入院し退院後又再び山元本社の保安課へ戻った。
隆文小学校を卆業し札幌の学生寮へ入寮する
この築炭へ来てやがて隆文が、この地の小学校6年を卆業することになった。
幸い成績も優秀で卆業式には卆業生代表として謝辞を述べることになり、又私も、そのお蔭で卆業生父兄代表で謝辞を述べることになり、隆文は無事小学校を卆え、かねて前から決めていた会社の学生寮へ入寮させ札幌の中学校へ入校した。
やがて私の羽幌炭砿在住生活も昭和30年項になり落着いた項、幌内、朝日の縁籍者が来訪するようになり、幌内の兄は三毛別当時を含め、3回、母は2回、朝日からは義母が数10日の長期帶在した外、日野の義姉、同じく息子達、佐竹先生夫婦、家族、笑ちゃん等も来るようになった。
又私達も私の札幌出張には家族連れで行くことも10数回にも及び、この交通不便な地で暮し乍らお互に行き来が出来た、この項が最も恵れた時代であったと思うのである。
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