羽幌炭砿(築別炭砿)(5) ~北海道・羽幌編1-5~

22. 転職・羽幌炭砿
5階建の頃の大五ビル
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羽幌炭砿の隆盛時代となる

昭和30年には、築別、羽幌両鉱業所共、順調な出炭を続けるようになり、この名も知られなかった羽幌炭砿が大手の北炭、三井、三菱、住友、太平洋の5炭砿と肩を並べるまでに発展したのである。

それで羽幌炭砿では、その利益金で
1.札幌に大五ビル(5階建)を建設※注1
2.舊月形炭砿と本洲三松炭砿買収、
3.舊ソ聯、現在のロシヤへ水力採炭法の見学に5名の課長級を出張させる。
4.高松宮夫妻を招待、坑内見学
5.スキー、野球、バレーの3部を設け各部共全國優勝大会出場まで発展する、
6.築別鉱業所、末広町にジャンプ台を新設し、全道ジャンプ大会を開催、
7.テレビに「煙の少ない羽幌炭」というコマーシャルを流す。
8.札幌大手塗装会社と契約、耺人の長期帶在で会社施設及住宅の屋根の全塗装を実施、

以上の実施を行う程隆昌を極めたのであった。

又、我々にも、その余波が及び、各課の予算を大幅に許可してくれたので、私は、幌内、美唄、太平洋、等の大手炭砿の出張見学をした外、保安啓蒙宣伝用として高級カメラ、16ミリ撮影器、映寫機、各坑巡回用としてジープ(アメリカ製)等購入予算を出し、これ等を全部入手することが出来たものである。

磯部敏郎氏

そして、この項、保安課長に磯部と云う人※注2が着任した。
この人は羽幌炭砿に入社前、北大工学部助教授で、それが「坑内に於ける地圧について」※注3と云う博士論文を纏めるため、実地経験の必要上、町田社長と話合いの上、3ヶ年の期限付きで入社した人であった。

そして、まづ最初は築別砿業本坑の坑内整備係長の職に就き、2年間実地経験を経た後、残りの1年間を論文作成のため、保安課長として転耺して来て人であった。

その項、札幌鉱山保安監督局では、道内約130炭砿を対像に「炭砿保安」という4頁タプロイド版の新聞を発行し配布していたのであった。

この新聞の内容は道内炭砿の保安状況や、発生した大きな災害、例えば坑内自発火、ガス爆発の内容、それに対する対策法、又炭砿技術会に於ける、講演内容の発表、炭砿関係者の隨筆、感想等の募集等であった。

その監督局より、保安課長宛に「我が社に於ける保安状況について」と云う表題で、執筆依頼の文書が来たのであった。

ところが磯部課長は博士論文の製作中で、それに応ずる余裕が無く、私に代筆するように云われ、私は資料を準え、現在の保安成績と、開坑当時以来からの比較、我が社從業員に対する啓蒙宣伝、等を原稿用紙30枚に取り纏めて課長に提出したところ、磯部氏は、それを一読し、私の原稿の一字、一文の訂正もなしで、よしと云って、それを監督部宛に送附したのであった。

それから間もなく、監督部より新聞の編集員が、来山したのであった。
その目的は提出した内容の眞疑と、その他に「各地炭砿巡り」と云う隨筆執筆のためであった。
それで来山連絡を受けた保安課では、私が駅まで出迎え3日間各坑の案内をして廻った。

やがて、その翌月初め炭砿新聞が各炭砿に配布され、当然、私の纏めた「我が社の保安状況について」の記事と、編集員が書いた「各地炭砿巡り」の記事掲載されていた。

そして「各地炭砿巡り」記事の最初に、「私は初めての道北端に近い羽幌炭砿を訪ねたが、駅には保安係長の野中さんが、温顔に笑(エミ)をたたえ出迎えに出ていてくれ、それから3日間に亘って三坑の坑内外を案内して戴いた。と記載されていた。

それから間もなく、朝日炭砿に務めている日野幸治(義姉の次男)から野中さんの記事を見たと云う手紙が来たのであった。

 

※注:写真出典「鈴木商店記念館 ⑱大五ビル」5階建の頃の大五ビル

※注1:この大五ビルは現存します。(写真出典:「鈴木商店記念館 ⑱大五ビル」)

※注2:「磯部と云う人」とは、北海道大学工学部名誉教授、工学博士、故磯部俊郎氏です。

※注3:故磯部名誉教授の学位論文は正しくは「緩傾斜長壁式採炭切羽に於ける地圧現象に対する理論的及び実験的研究」(1956年)です。

※注:写真出典「北海道大学大学院工学研究科・工学部 広報

 

磯部氏北大に戻る

それから数ヶ月後に磯部氏の博士論文が審査会を通過し工学博士の学位が授與されると同時に、前任者の木下教授が停年となり、磯部氏は北大工学部、工学博士、教授として北大に復帰したのである。

磯部氏が北大に戻って約3ヶ月後のこと、磯部氏の保安課長の後任に小島氏が着任していたが、その人の元に磯部氏より電話が入り、野中君を一度、私の所へ寄こしてくれないかということで、私は他の用件も兼ねて札幌へ出張した。
そして教授室に居る磯部氏に会い磯部氏は私を工学部の各教室及研究室を案内し昼は学校食堂より取り寄せたカレーライスを馳走になり、夕方近く北大を後にした。

磯部氏とは、その時各別変った話もなく、別れたが、帰山してから私は考へたが、何んの為に、磯部氏が私を北大に呼んだのか、その眞意が判らじまいで終ってしまった。

これは後日談であるが、私は後に社長室勤務となり、本社の総務課に勤務していた泉田孝君(古田弘ちゃんの夫)から聞いた話では、磯部教授が本社を訪れ町田社長と面会し、私を北大で貰いたいと申し出て社長に断わられたということを内密に話をしてくれたことがあったが、而しその話を聞き私のような学歴のない者をどうして磯部が所望したのか、腑(フ)に落ちない思いであった。

 

古田氏の突然死

古田氏は築別本坑の坑内係員を務めていたが、会社が炭界不況を感じ、第二会社を設けるようになった項、55才の停年を迎え、第二会社である耐火粘土の駅積込作業員を務めていた或る日の夕方、夕食を終えた後、クラブ食堂で始まった来客のマージャンを見ている内に突然倒れたので直ちに近くの炭砿病院に運んだのであったが、その既に息を引取っていたという。

それ第一に知らせを受けた私と久子が病院に馳せつけたが、その時古田氏の体温がまだ残っていた。

その当時古田氏婦人はクラブの管理人として仂いており、弘ちゃんは結婚し札幌在住、兄ちゃんは本洲で運送会社の車の運転手、まっちゃんは日本体育大学在学中、末っ子の信ちゃんは本洲の大手クラブのボーイと、夫々家を離れていた。

思えば、私と古田氏の関係は昭和17年以来で、お互いに助け、助けられた中であっただけに誠に残念この上もない次第であった。

尚古田氏の病名は脳こうそくであった。

古田氏の想い出と云えば、余り出しゃばらない、至って人つきあいの良い人で、元大工さんをやっていたと云うだけに器用な人であった。
それがハルピンで難民生活を続け、私と古田氏が、小学校の校長宅の一間に入居していた約半才の間、無器用な私に代って炊事一切を続けてくれたが、毎日の味噌汁や他のお采作り等は、女性並以上であった。

これぞという趣味はなかったが、只マージャンだけは凝って、ジヤライノール当時は耺員寮に住んでいた為、か他の同好の人々に交り休日等には1日中マージャンで過ごし、それが引揚後、羽幌炭砿の住宅に住むようになってからも、暇さへあれば終日マージャンで過すような人であった。

それだけマージャン好きな人が最后はクラブに於いて客人のやっているマージャンを見乍ら倒れたのも何かの因念ではなかろうかと、昔からのマージャン好きの古田氏を見て来ただに私はそう考へるのである。

尚、古田氏が死去した後の形見として、婦人が私に贈ってくれたものは古田氏が最后まで使用していたマージャン牌一式※注4を私は今でも大事に保存している。

 

※注4:この麻雀牌は現在マメコ家にあります。

古田氏の麻雀牌

 

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