札幌での生活 ~札幌編2~

24. 札幌での生活
北郷の我が家
スポンサーリンク

白石北郷在住約25年間の思い出

昭和45年7月54才で白石北郷に住み平成7年、澄川へ移住するまでの約25年間に亘る生活には、いろいろ思い出の残った処であった。

私が住商野幌営業所の嘱託に採用された当時は前記のように8万の給料※注1であったが、60才から支給される厚生年金は収入のある者は60才になっても全額支給されず、支給額の30%である為、その項会社務めをするようになった優子から毎月3万補助してもらい、これ等を併せて、ようやく、生活が成り立っていたようなものであった。

その内、昭和48年3月、隆文の結婚が決ったが、相手側に渡す結納金すら稔出できず、式費用その他私達の旅費まで總て隆文に負担させる始末で、全く親として何一つ出来ずに総て隆文委せになってしまったのである。

次は優子の結婚で、51年10月、これも費用として隆文が30万※注2送金してくれ久子は泣いて喜んだものである。

私はその内に昇給もあり月給3万※注3となった項、住友では千才に営業所を設け、その所長に私ということになったが、土地の買収が進ちくせず、遂いにその夢も御破算となってしまったのであった。

こうした経過をたどり、やがて私は59才となり嘱託停年まで後1年となった項、義兄の武塙が、札幌住宅協会の嘱託として務めており、私に住宅協会へ誘ってくれたので、私は早速住友を退耺した。
それが昭和51年12月で丁度60才となった年である。

義兄武塙は、朝日炭砿に務めていたが、珍らしく小炭砿としては異例の昭和64年項まで続いていたのであった。
それは、大手会社である旭ガラスが朝日炭砿を買収し、細々乍ら出炭を続けていたが、それも叶わず、遂に閉山となり、義兄は、札幌白石北郷11丁目、へ移住したが耺がなく退耺金で喰いつなぎをして、奥さんがバイトをやって生活をしていた時期があった。

その項、私が、野幌営業所の石油給油係のバイトに義兄を2年間、所長に頼み込んだのであった。
その後義兄は同じ朝日炭砿に居た知人の世話で札幌住宅協会に入社したのであった。

尚これは余談ではあるが、私が住商嘱託をして約7年間務めた訳けであったが、私の退耺時には住友としては嘱託に対する金一封を貰ったが、嘱託に対する退耺時にはこうした例が初めてであったと云う。
而し中味は3万円※注4であった。

 

※注1・3:当初の月給が8万円で昇給して3万円というのはおかしいので、13万円なのかもしれません。

※注2:1976年(昭和51年)の30万円は、現在の価値に換算すると51万円くらいです。(※注5

※注4:1976年(昭和51年)の3万円は、現在の価値に換算すると5万1千円くらいです。(※注5

※注5:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

札幌住宅協会嘱託となる

52年1月より私は札幌住宅供給公社の第2会社である、札幌住宅協会嘱託となった。
この協会は供給公社が札幌市内の各所に設けた数10ヶ所の団地を管理するもので、耺員は殆んとが公社からの天下り耺員で、その下に警察関係の停年退耺や私のように各耺業退耺者で構成されており、私は北、南の公社の団地の見廻りと、この団地に入居する者、又は退去する人達の指示、空家となった住宅の管理等を各耺種別の業者を使用して行うのが耺務で、各団地毎に私達のように管理者が使用する事務室が設けてあり、協会本部と連絡が出来る電話設備もあり、団地の中で入、退去者が出ない限りは、毎日事務室にひっくり返っておられる、比較的楽な耺務であった。

給料は住友商事当時より少々高く12万円※注6の外、交通費の支給があるだけであった。
しかし厚生年金の半額支給があったので、2人だけの生活費としては充分間に合ったものである。

こうして住宅協会には約10年間務めたが、その間に隆文の処へは5回旅費全部隆文負担で旅行が出来たものであった。
当時の飛行機運賃は1人片道3万※注7を越えるもので、これが久子と2人分で隆文には相当な支出であったに違いない。
お蔭で私達2人にとっては、良い思い出を残すことが出来た。

 

※注6:1977年(昭和52年)の12万円は、現在の価値に換算すると19万円くらいです。(※注8

※注7:同じく3万円は、現在の4万7千円くらいです。(※注8

※注8:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

住宅協会70才停年で退耺をする

やがて私の協会の職も70才停年で退耺となった。
嘱託には停年退耺金の制度がなく、只10年勤続により表彰状と、記念品を貰っただけである。

 

隆文味の素札幌支店へ転勤となる

私が停年となった昭和61年春、隆文が札幌支店転勤となり、◆※注9住出来たのであった。
そして3年間支店勤務の上、本社へ戻ったが、その項は孫達は学校の関係で、札幌へ残り、本人のみ單身赴任をしたのであったが、しかし私達2人にとっては家族が残っただけでも心強い極みであった。

私達2人にとっては隆文が僅か3年であるが、この間は永年、私達の手元を離れていた者が、例え同居は出来なくとも、同居同様の生活が出来たようなものである。

扨て70才を迎えた私は、今度は何処へも就耺できず、年金全額支給となり本当の老人生活となり、年金々額17万円※注10で、別段生活には不自はなかった。
この年金も現在では23万※注11となり、その当時でも生活費にはぜいたくをしない限りは支障もなく私は自分の小使銭稼ぎに月5、6回銭函居住の義兄の処へ手伝いに行き、後は経たな趣味の油絵を書いたりで過して来た。

 

※注9:◆判読不能(定住のような意味の言葉だと思います。)

※注10:1986年(昭和61年)の17万円は、現在の価値に換算すると20万円くらいです。(※注12

※注11:この回顧録の当該部分を書いたのは2003年(平成15年)ですが、貨幣価値は現在とあまり変わりありません。(※注12

※注12:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

我が家の改造

入居後、第1回目の改造をした我が家も既に20年間を経て私が、協会退耺後、幾分予金も出来た項、又次の補修が、必要となり、外壁の塗装、裏口の改造、玄関の改造、浴槽の取替、ベランダの補修屋根の塗装等を行ったのであった。

これで、どうやら補修工事は終ったのであったが、次は屋根の積雪であった。

改造前

入居した当時は私も若かったので冬の良い運動にと、除雪は何んの苦もなく行っていたが、70才近くになって来た私には、これが苦痛に感じて来たのであった。
家の構造上、屋根の積雪半分は玄関側に落ち、その雪は前が道路になっている為、捨場がなく、仕方なく、玄関両側に積み上げるより方法がなく、それも高さが増して来ると、私の力では、スコップで、跳ね揚げる力もなくなって来るのであった。

それで、この屋根から落下する雪の対策としては屋根の改造より方法がないと考へた。
それで、改造見積りをしてもらったところ、120万※注13ということであった。
それでも致し方がないので予金の全額を引出し改造に踏み切ったのであった。

当時の120万は、私達の家庭では、これで無一文になると思えば相当な格悟が必要であったが、しかし腕をこまぬいていても、他に方法がなく、仕方なしに改造を決心したのであった。
これは隆文が札幌支店へ転勤となって来る前年の60年の秋である。※注14

改造後

やがて上図のように屋根の改造は完成し、玄関前に落ちる雪が無くなり、除雪から解放された。
その代り裏口の雪は家の高さに近い程となったが、これは、一切関係がなかった。

こうして完成がしてみると、屋根裏に12帖の部屋が出る位の広さがあり、これを、このまま放置しておくのは勿体ないと考へた。
これだけの広さがあれば、今後隆文家族や、優子家族が来ても充分寝泊りが出来るので、これを部屋に改造したいと慾が出た。
それで、又この分の見積りをしてもらうと、階段、押入れ、等をつけて80万※注15ということであった。
しかしもう無一文になった私にはどうすることも出来ず、この家を隆文の名儀に書き替えれば、このまま、隆文に残せるのではなかろうと考へ、その旨を書き添え80万の借用を申し込んだところ承知した旨の連絡があり、私は改造に踏み切ったのである。
しかし私は後で考へて見ると、如何に隆文であろうとも独断で80万の大金を支出、出来る筈もなく、これには相当、無理をしたのではなかろうかと思ったのである。

お蔭で改造も完成し、隆文一家が、札幌転勤の際、家族が、この部屋を使用出来たのが何よりの幸いであった。

しかし隆文への名儀書替えは、書き替後、税金(土地家屋税の負担は隆文の処へ行くことになるので、暫くの間、そのままにして置くことにした。

それから10年近く経た平成5年、今度は、住居外廻りの壁が剥離し始め、この修理の見積りをしてもらったところ、全面モルタル塗り替え、塗装を要するため、100万※注16という金額であった。
それで私は、最早この家も手放す時期が来たことを悟った。
それと同時に屋根上の煙筒が一方的な雪の重圧で折れてしまい、その補修に12万※注17を要してしまった。

 

※注13:1984年(昭和59年)の120万円は、現在の価値に換算すると144万円くらいです。(※注18

※注14:隆文の話によると、家を改築したのは1984年(昭和59年)頃だったということです。

※注15:1984年(昭和59年)の80万円は、現在の価値に換算すると96万円くらいです。(※注18

※注16・17:1993年(平成5年)の貨幣価値は現在とあまり変わりありません。(※注18

※注18:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

北郷の土地及住宅を賣却する

それで売却の話を久子の友人である黒河氏婦人にしたところ、黒河氏の実弟が、定鉄不動産の関係測量を独自で行っていた関係上、定鉄不動産より直ちに見積りに来た結果、1、800万※注19で売却が決り、決定したのであった。

その結果、不動産及その他に対する手数料、種々の支出を差引きした残額が1、400万※注20となった。

隆文へ約束の名儀書替えは、果たせなかったが、これに代る現在の残金を出来る限り、手をつけず残してやるのが私の現在の念願である。

 

※注19・20:1993年(平成5年)の貨幣価値は現在とあまり変わりありません。(※注21

※注21:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

澄川マンションへ移住する

白石北郷へは昭和45年7月に羽幌より移住し、平成7年9月までの足掛け約26年間居住したが、私達の念願であった自己家屋に住み、又私の趣味であった庭造りをも出来たことが幸いであった。

今度は平成7年9月澄川のマンション※注22住いとなったが、私の年令も丁度80才ともなり、老後の生活には丁度、幸いであるとも云えよう。

澄川の自宅マンション

収入は私の年金月額23万、マンションの家賃7万で2人だけの生活には、不自由のない生活である。

又、このマンションへ入居したのが、私が80才で、隆文、優子の2人から定山渓に一泊で、祝ってもらった良い年でもあった。※注23

 

※注22:この回顧録の当該記事は平成15年に執筆されたものです。フクヲ夫妻は平成17年7月に札幌市南区川沿に移住しました。このマンションはその後取り壊され、現在は存在しません。)

※注23:平成7年に北郷の自宅・土地を売却して澄川のマンションに引っ越す際、フクヲが若い頃から撮り溜めておいた膨大な数の写真を、終活の一環として全て廃棄してしまったそうです。その中には満州時代の写真も数多く含まれていたと思われますが、歴史的にも貴重な資料が失われてしまい、大変残念です。
私(管理人)がマメコと知り合ったのは平成14年なので、後の祭りでした(;_:)

 

リンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました