炭砿退職・札幌移住 ~札幌編1~

23. 炭砿退職・札幌移住
札幌時計台
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会社退職、札幌へ移住する

やがて昭和45年春ともなった項、炭界はいよいよ状勢の変化により、廃山の波にまかれ続々と閉山が続き、終戦当時130炭砿あった炭砿も遂に大手炭砿10炭砿程に減少し、さすがの羽幌炭砿も閉山の、危機にさらされるようになって来た。

これは、羽幌炭砿としては石炭埋蔵量としては、まだ豐富ではあっだが、炭砿不況が伝わり始め、原動力となる、砿員が続々と去り始めた為、会社としては、その補充に労務係を動員し募集に躍起になっていた。
しかし仲々その意に叶はず、それが出炭減少となって現れ始めた。

それで6月に入り、会社では第二会社の廃止を決め、50才以上の耺員は第二会社をも含め退耺をしてもらいたいと云う通告が出たのであった。

それで私も退耺の意志を固め、早速、取敢ず転居先を求め、先に退耺し札幌で不動産会社に就耺していた人の言に從って札幌白石区北郷に決定したのであった。
そして、退耺日付けの45年7月1日で退耺し、22年間務めた羽幌炭砿に別れを告げたのである。

 

※注:写真出典「yamada.sailog.jp > 札幌の昔」時計台

 

札幌市の住人となる

不動産屋との契約は土地80坪、建物18坪、価格38万円※注1で、これなら私の退耺金で支払えると考へ、これで決定した。

北郷の我が家

この住宅は、大工を耺業とする人が建てただけあって建築材や、家の基礎は良材を使用し、申し分のないものであったが後日、この大工さんの話によれば、この人は請負家屋の建築作業中、足場より足を踏み外し転落負傷した為、大工の耺業を捨て、この家屋を手放すことになったということであった。

その為、この家屋は末完成の所があり、その為、当時としては格安の値段で手放したものであると云う。

この間取りで気に入ったのは居間と玄関が広いことであった。

入居後、幌内の平井稔(妹の主人)の知人を照介してもらい、上図赤書の改造を行い、この費用約12万を要しこれで私の退耺金全額を使い果してしまった。

この工事は入居7月より始まり10月1杯までかゝったのであったが、それまでの生活費は当時炭砿離職者、保護資金制度があり、6ヶ月間この手当金約月3万円(※注2)が支給されるだけであった。

 

※注1:1970年(昭和45年)の38万円は、現在の価値に換算すると121万円くらいです。(※注3

※注2:同じく3万円は、現在の96,000円くらいです。(※注3

※注3:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

羽幌炭砿閉山となる

45年10月、私が退耺した3ヶ月後に遂に羽幌炭砿も閉山となり、全員、山を離れることになり、管生氏家族も室蘭日鋼製鉄所に職を得て移住した。

 

住友商事札幌営業所の嘱託に採用される

私は前述のように炭砿離耺者掩護資金3万の外、失業手当金2万があるので12月までは、それらの収入で生活出来るが、それ以後の事を考へ頭を悩ましていると、10月初め、思いがけなく、住友商事札幌支店より連絡があり、私は住友商事野幌営業所の嘱託として採用されたのであった。

これは朝日炭砿に居住の日野幸治の嫁さんが、私が羽幌炭砿の救護隊総務の関係上知り合った岩見沢救護連盟の指導員佐藤と云う人の妹であった。
その佐藤氏が住友商事札幌支店の専務とは親戚であった為、その人の招介を得て、私の住友商事野幌営業所嘱託となったのである。

それだけ幸ちゃんの嫁さんミツ子さんが、私の就耺先について心掛けていてくれたのであろうと感謝の気持ちで一杯であった。

この住友商事という会社は全道に4ヶ所(野幌、函館、綱走、室蘭)に営業所を設け、ガス、石油その他の製品を販売している。

私の入社した野幌営業所は、所長外所員が20名位で女子事務員5名、その他は全員若手ばかりの男子でガス、石油販売が主で、その外にガス、石油機器類の販売も各農協、各商店に卸販売をし、私はその石油、ガス器具をパロマや他の有名会社へ発註、受入れ、払出しをする倉庫係が耺務であった。

毎日白石駅8時の列車に乘り帰宅は7時であった。

給料は事務の女の子が当時5万円で、私は8万円※注4の給料で当時の金額としては生活費、ぎりぎりで余裕のない生活であった。

こうしてやがて、その年も暮れ私達家族3人は、この北郷で初めての正月を迎えたのである。

(北郷入居後初めての新年、昭和46年1月1日朝)

ベランダ側は東向きで後年隣家が出来るまでは陽当りの良い所であった。

 

昭和46年1月(家の内部及ブロック塀も完成し1段落した家の外觀)

屋根から落ちる雪で玄関前の除雪に毎年苦労をしたものであった。

 

昭和62年10月※注5の撮影、この項は、街の園芸市へ出かけ各種の苗木、球根を求めやっと庭らしいものが出来た。

 

(昭和62年項の庭)※注5

 

※注4:1971年(昭和46年)の8万円は、現在の価値に換算すると24万円くらいです。(※注6

※注5:写真に「昭和62年10月」と記載がありますが、修正した痕があります。この後の記事にも出てきますが、フクヲは後に自宅を改築しています。この写真は改築前のもので、フクヲ長男(隆文)によると、改築したのは1984年(昭和59年)頃とのことですので、日付の記載が誤っているものと考えられます。

※注6:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

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