結婚 ~北海道・幌内編3~

21. フクヲの結婚
岩見沢市街
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私の結婚話し

ところが、どういう風の吹き廻しか、それから10日程過ぎた日曜日の午后、今度は私の家に一度も来たことのない、古田婦人が訊ねて来たのである。
丁度、その日は母も私も在宅していたが、婦人の話は、ツナさん同様、私のお嫁さんの話であった。
それで私はツナさんと同じく断ったのであるが、婦人は仲々腰を上げず、話をし始めたその内容は、婦人の叔母が市来知で農業をやっているが、その叔母が身体の調子が悪く、岩見沢の市立病院へ入院したので見舞いに行った際、6人部屋の中に入院している1人の娘さんに非常に心が引かれ叔母にそれとなく尋ねると、まだ独身の娘さんであることが、判ったので、次に2、3日置いて2回目に又病院を訊ねて叔母の外、同室の患者にも尋ねると、叔母と同様の答えであったので、この人を是非野中さんのお嫁さんにと思い、その件で私宅を訊ねて来たのであると云うことであった。

それで私と母は婦人の厚意に対し、謝礼と共に、それでは一応考へてみるからと云って、その日は婦人に帰ってもらったのである。

婦人が帰った後、母は私に対し、あれだけ熱心にすゝめてくれる厚意に対してでも一応見合いだけでしてはどうかと云ふ母の言葉で私は翌日又訊ねて来てくれた婦人に、その旨を伝へたのであった。

その後婦人は自分の家庭のことも打ち忘れたかのように、岩見沢の病院と、私の家とを馳せ廻り、それから数日後の日曜日に岩見沢の病院で見合いということに決ったのであった。

それで、その当日、私は單身、婦人と共に市立病院へ行ったのであるが、日曜日ということもあって、病院の一室を借りて見合いを行ったのであった。

席上には私と古田婦人の外、私の花嫁候補の女性※注1と、花嫁の姉という50才位の女性の4人であった。

私は見合の席というのは今回が始めてで、相手の女性の顔も余り良く見ることが出来ず、約30分間位の時間に古田婦人と女性の姉の会話に相槌を打つ位のもので終ってしまったのであった。

その時の私の感じては相手の娘さんをチラと見ただけで、婦人が、熱心になるだけのことはある人だという事位で見合いを終ってしまったのであった。

こうして一応見合いも終り、その後婦人は又数回病院へ足を運び、先方の意向をも確めて相方合意の上無事見合いも終ったのであった。

それから数日置いて愈々正式に結納を行うことになり、又日曜日を利用し、此処から婦人と私及母の3人が朝日炭砿に居住する武塙家を訪ねたのである。

朝日炭鉱

武塙家は久子※注1の兄である武塙吉正氏が、この朝日炭砿の経理事務耺員として務めて職員住宅に住んでおり、家族は兄夫婦の外(婦人は管生さんの姉)男の子2人、女の子1人の外に武塙家の母、それに久子、久子の妹である千恵ちゃんの8人が同居していた。

又病院で行った見合いに出席した久子の姉(日野  )※注2は同じ朝日炭砿の住宅に息子2人娘1人の4人で住み、息子2人は朝日炭砿の砿員として測量係を務めていた。

これで正式に結納も終り、武塙家一族と会って後は5月10日と決めた結婚式を待つのみとなった。

以上が私と久子との結婚をするまでの経過であるが、私は此処で改めて古田婦人の事を考へて見るに、婦人とは前述のように朝鮮阿吾地で同じ社宅に住み、朝鮮より婦人一家が幌内へ引揚げる際罹津まで同行し、帰國の世話を一寸しただけのことで後は親しく話をしたこともない人であった。
それが今回私の結婚について献身的に家庭の事を投打ってまで県命に奔走してくれたその眞意が解されない程で、全く私は婦人に対して頭の下る思いであった。

尚又、私達の結納が終った後、擧式までは数日間余裕があり、久子より連絡で小樽に住む叔母に一度会ってもらいたいと云うことで、始めて2人がデートの形ちで岩見沢駅で落ち合い小樽まで行って来たのであった。

 

※注:写真出典「広報いわみざわ 2013年3月号

※注1:お見合い相手の女性=久子=後のフクヲの妻です。

※注:写真出典「そらち★ヤマの記憶だより」朝日炭鉱

※注2:原著でもこのように空欄になっていました。

 

私達の擧式

昭和22年5月10日、この日は全道の炭砿が5月10日より13日までの3日間炭山祭りと稱して一済に休日をとることになっていた。
それで私達はこの日を利用したのであるが、まづ式場は経費の関係上幌内の自宅としたが、当時は終戦直後で総ての物資が配給制で、結婚式の場合は村役場より清酒1舛が出るだけで、後は何もなく、総て自己負擔であった。

それで母は秋田出身の腕を振って、原料は闇米を仕入れ式の数週間前よりドブロクの製造をし、味も酒に劣らぬ出来栄えのもの造り上げたのであった。

次は肴であるが、これも配給制で仲々入手困難であったが、これは銭函の姉が引き受けてくれ、数種類の当時入手困難な珍らしい魚を式前日に送ってくれたのであった。
当時魚菜類も配給制であった為、例え海で魚を獲っても、それを自由に鉄道便で送ることは出来ず、駅長の内容証明が必要な時代であった。
それで姉は永年銭函に住み、姉の主人である寺沢は駅長とも顔馴染みを利用し、これらを密送してくれたのであった。

又妹のハナは弥生炭砿の飲食店の主人の好意で、その当時一般人の我々には入手出来なかった洋かんの折り詰め15個も寄贈してくれたのであった。

扨て擧式当日の5月10日は晴天で幌内では桜が満開の好日和であった。

ところがその日の正午近く、何処で聞いたのか、水林ツナさんが、孫娘2人に和服着物の正装をさせ、お祝いに来てくれたのであった。
孫2人は6才と3才になっておりハルピンの収容所以来の面会であった。
私はツナさんの持って来た縁談を断った手前何んとも云いようがなかったが、あれから既に50有余年、ツナさんはおそらくこの世の人ではないだろうが、孫娘2人共60才近くになっている筈で現在どうしているだろうかと時々思い出すことがある。

さてそれから午后3時項、古田婦人が来てくれ、私と2人で岩見沢の駅へ朝日より来る花嫁の出迎えに行き、岩見沢駅で久子と久子に着添って来た兄夫婦と会い、次は岩見沢駅近くの寫真舘へ行き婚礼寫真を撮った後、夕暮れ近くに幌内へ一行5名が着いたのであった。

式は午后5時からで、場所は我が家の8帖間であった。
出席者は当然仲人である古田氏夫妻であるべきであったが、婦人は私共は仲人等は柄(ガラ)にもないと云ってどうしても承知をしてくれないので、仕方なく母の姉の長男夫婦を頼んだのであった。

それで出席者は仲人の納谷夫婦と、私の学校友達である中西、次に倉庫の上席者である、塚田、家の両隣の田中夫婦と山田夫婦総勢、12名だけの式と被露宴になったのである。

その外倉庫の私の職場から女の子3人が手伝いに来てくれていた。
出席者はこれだけで、銭函の夫婦及千代、ハナの4人は当日泊ることになるが家が狹い為、出席せず、義父と義姉、征ちゃんキミ4人は家の両隣に泊めてもらった。
それで朝日から来た武塙夫婦は式終了後家へ泊ってもらったのであった。

我が家

而しあれだけ世話になった古田夫妻に遂に出席してもらえなかったのは全く残念なことで、古田氏は酒は一滴もたしなまず、2人共、私達は田舎者と稱して何故か、このような宴席には、絶対という程出たがらな人であった。

 

私達の新婚旅行

登別第一滝本館

翌11日、我が家で一泊した久子の兄夫婦と共に幌内駅を9時項出て、兄夫婦とは岩見沢駅で別れ我々2人は目的地登別温泉へと向った。
この項は長巨離旅行の列車乘車券仲々入手困難であると共、温泉旅館の宿泊制限等もあり、私達には自由にならなかったが、これは總て倉庫係長が手を廻して入手又予約をしてくれたのであった。

こうして私達は登別で一泊の新婚旅行を楽しんで12日の夕刻幌内へ帰ったのであるが、帰ってみると母は私の結婚の為に最初から最后まで總て女手一つでやってくれた、その疲労で床に就いていた。

これで私の生活の基礎は一応準ったのであるが、こうなるまで経過は私が満洲より着きた切りすずめの裸一貫で引揚げて来たその翌日から、まづ私の衣類の心配から始まらなければならなかった。
幸い兄が召集不在のため、ある程度は兄のものを使用したが、しかし何分兄は身長が私とは比較にならず、その為、私の下着類から、上着類まで總て母が走り廻って闇物資でなければ入手出来なかったこれ等の物を揃えてくれたのであった。
私が引揚げ後、大荒沢行の旅費、又今回の結婚の経費、總て母が苦面をしたもので、その金の出所は、当時戦後の不況の中で並大低のものではなかっただろう想像するのである。
今考へることは、私の満洲行から引揚後の、この結婚式まで母には如何に親といえども、並大低の苦労をかけたことに対し私は残気に堪えぬ思いである。

 

※注:写真出典「ShopCard.me 第一滝本館

 

私の再出発の生活が始まる

母や耺場の人々のお蔭で、ようやく私の再出発の生活が始った。
住居は前図のように玄関続きの4、5帖を私達2人が使用し、食費は改めて、私の少ない給料全額を母に差出した。

そして私達の使用する小使銭は、時々行く映画舘又二人で朝日へ行く汽車賃位で、これは久子が持って来た貯金帖より引き出してそれらに当てたのであった。

私達は結婚後朝日へは土曜、日曜を利用し、4、5回行ったが、行出は久子の姉の日野家で、此処では、姉の息子3人娘1人の5人家族で上の息子はまだ18才、で炭砿の測量係として務めており、次男は16才でこれも測量係として務めて夜は岩見沢の定時制高校へ通学しており、次の女の子14才と3男は小学生であった。
こうした家庭であるため、生活は決して楽なものではなく、その為姉は炭砿子弟の女の子数人を集めて、家で裁縫を教え家計を補っていた。
こうした家庭であり乍ら月に数回泊りがけで遊びに行く私達2人に対しては非常に好意的で、觀迎してくれたものであった。

 

会社住宅に入居する

結婚後こうして生活している内に、幌内砿業所では石炭増産による從業員募集で砿員数も増加し、住宅不足となって来た為、砿員住宅の建築を始めたのであった。

社宅

それで私は早速会社労務係に入居申込みをすると幸いにも入居許可を得たのであった。

建物は古材を利用した変則的なものであった。

場所は家より約1km程の三笠寄りに5戸続き10棟と共同浴場のある三坑道という地名の所であった。

こうして私達は約2ヶ月母の家に同居した後の8月初めこの社宅に入居したのである。

扨てこうして住宅は決ったものの2人共着のみ着たままで、何一つとしてなく、結局鍋、釜、食器と布団2組だけは母が融通してくれ、それでやっと入居した。

次に間もなく、私は小学当時仲の良かった友達の1人が会社の大工として仂いていたので、それに簡單なつもりで食器を入れておく茶單司を造ってくれんかと云った所、出来上って家へ運んでくれた物は市場で売っているような立派なもので、これには驚いて結局無料でそれを手に入れたのであった。

次は、古田氏と婦人共、私達の結婚式後一度揃って挨拶に行った切りになっていたが、私達が三坑道へ移転したことを知ったとみえて、古田氏が月形より週1回帰宅する、その暇を見て、私達に丸形の食卓テーブルを造って運んで来てくれたのには恐縮の外はなかった。

古田氏は、この幌内砿業所の坑内員となる前は大工作業が本耺だった相で、私はこれを聞いて成程と思った程素人放れのした物であった。

又この三坑道と云う所は私の耺場とは約3kmの巨離があり、次に食料品、副食物を購入する会社の物資配給所までは1.5kmあり、久子はこれらの物資購入には、この距離を通わなければならなかった。

次は私の職場であるが、私は物品払出しの仕事にも慣れた秋の9月より、今度は坑内で使用する機械類の購入事務作業となり、作業服より事務服に替り、事務所に場所替となった。
而し身分はやはり砿員のままで、今度は会社では三笠に幌内砿業所本部を置き、砿業所長、外部長、課長職の人々は皆、この本部に移り、此処で指揮をとることになり、倉庫は、この本部にある、資材課の指揮下に入ることになった。
それで私は時々、この三笠本部の資材課にも業務打合せに行くようになり、やがて、この資材課の係長連と共に夕張炭砿の在る夕張製作所、及栗山に在る栗山鉱山機械製作所に一泊で業務打合せに出張があるようになって来たのであった。

しかし出張は良いが、困ったことに着用して行く衣類が無いのであった。
一応服装として背広服にネクタイであるが、当低これ等を揃える余裕もなく又總て配給制であるため買い準えることも出来なかった。

それで母は兄の背広服、ネクタイを出して来たが、ネクタイは良いとして問題は服であった。
何分にも私と兄は身長の相違で兄の服は大き過ぎるのであった。
それで母は苦肉の策として、その兄の服の上着の袖とズボンを縫い縮めてくれたが、尚それでもやはりピシヤリとは合う筈がなく、仕方なしに私は外に方法もなく誰れが見ても他人の借り着のような格好で、夕張及栗山へ出張をしたものである。

しかし夕張製作所行って見ると、宿泊は何れも、そこの会社クラブに宿泊するのであるが、夕張炭砿のクラブは宮様が来山した場合でもそのクラブに泊る位であり、その豪華さは私の目をうばう位で、又宿泊した夜の接待のけようえん※注3も素晴しいものであった。
この物資不足の配給制の今日何処から入手するのか、私は引揚後、このような馳走になったのは初めてであった。

又栗山では夕張程ではなかったが、宿泊も普通の一般クラブで戦前のような一般料理であったが、それでも我々一般家庭では食べることのない料理の接待であったが、しかし此処では帰りに、その当時我々では入手出来ない栗山名物の栗山洋かん一箱頂戴し、帰宅後は早速母の処にも持参し喜ばれたものである。

又この三坑道の住宅に移住してから、朝日より、久子の姉や、妹の千恵ちゃん等が再三来て泊って行くようになった。
只一度も来れなかったの久子の母と、妹の典ちゃんだけで、私がこの住宅に居住している項典ちゃんは小学校の教師であった佐竹正雄氏と結婚したのであった。
結婚式場は岩見沢で私と久子の2人も招待を受けて出席したが、私達のように自宅ではなく、旅舘の一室を借り切って、料理も或る程度の物が出たが、当時としては、この程度のことより出来なかったのものである。

 

※注3:原著でも下線が引かれていますが、何を意味するのかは不明です(^^;

 

隆文の誕生

この三坑道の住宅に住み、私は相変らず倉庫事務砿員として生活している内に昭和22年も終り23年4月に隆文が誕生したのであった。

その項はまだ物資配給統制が続いており、僅かに布地の配給があっただけで後は幌内の母や朝日の義姉より貰った布で久子が手縫いの幼児服を造って着せたものである。

長男隆文

幸い赤ん坊も順調発育し久子の母乳で生後2ヶ月位に入った項から私は、家より100m位離れた処にこの住宅の共同浴場があり、私は毎日丹前一枚の懐に隆文を裸にしてすっぽり入れて入浴に連れて行ったものである。

又私は夕張、栗山の出張の時は岩見沢市街を深し歩いて、布製の犬の縫いぐるみ人形を見つけて来たり等したが、当時としてはこれ位が唯一の赤ん坊の玩具であった。

それと健康にも恵れ、病気をすることもなく、又滅多に泣かない子で、私は、この当時の隆文の泣き声を聞いた記憶がない程である。

 

リンク

広報いわみざわ 2013年3月号

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