幌内炭砿 ~北海道・幌内編2~

幌内炭山市街(昭和15年頃) 20. 再々就職・幌内砿業所
幌内炭山市街(昭和15年頃)
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幌内砿業所砿員倉庫係に採用される

本洲旅行から帰った私は何時までも遊んでいる訳にゆかず、さりとて昔のいきさつ上から、又元の幌内砿業所耺員に採用してくれる筈もないので、義父が仂いている幌内の吉本組の土木作業人夫でもやろうと決心し、義父から吉本組の社長に話をしてもらったところ、社長は私の経歴の大体を義父より聞いていたものとみえて、組の人夫は何時でもOKだが、その前に戦前幌内砿業所の耺員として在籍したのであれば、又元の耺に復帰した方が良いのではなかろうかと思うので、社長は私から砿業所の副所長に頼んでみてやろうということになり、結局私は履歴書を書いて、それを持参し、吉本組社長と2人で武林副所長と砿業所事務所の副所室で面会したのであった。

私はこの武林副所とは一面識もない人であった。
それは私が渡満した後に夕張砿業所より、幌内砿業所に転勤になって来た人であったからである。

副所長は私に対して非常に好意的で、私の履歴書を見た上で、早速、私が渡満前勤務していた養老坑の戸井坑長へ電話をしてくれたが、戸井坑長は、私が養老坑に勤務していた当時のまゝまだ養老坑の坑長耺に就いており、私の無断退社の上渡満したことを充分承知していので即座に断わられてしまった。

その当時渡満熱にあぶられて幌内砿業所からは坑内技術耺員約15名、同じく砿員20名位の人数がこの幌内砿業所から去ったのであった。

これだけの耺砿員に抜けられた幌内砿業所では、大変な打撃であったらしく、そのためそれ等の人々の復帰を全く許可せず、誰1人として幌内砿業所には採用されなかったのであった。

私はそれを知っていたので当然私の復帰は適う筈もないことを知っていた。

ところが、武林副所長のいわくには耺員として無理なら砿員としてはどうかと私に問うので私は砿員としてでも採用は無理だろうと考へていた矢先なだけに、即座に砿員で結構ですと答えると、副所長は、それでは耺種に対する希望はと、云われて一瞬戸惑った。
それは私は炭砿では坑内経験より無く他の耺に就いたこともなかったので、それで突差に物品取扱う倉庫係ならばと云うと、副所長は即座に倉庫係の係長を電話で呼び出し、その場で私は坑外砿員の倉庫係に決定したのであった。
但し坑外夫という耺種上、日給1円20銭※注1である。
(当時は坑内最高で2円50銭坑外最高が1円50銭位であった)

扨て私の就いた仕事は倉庫物品拂い出しであった。
幌内砿業所は規模も大きいだけに倉庫で扱うその物は大は坑内で使用する坑木、レール、機械類、電気製品等、その他事務用品、等、その種類は100数10種に及び小は沿筆、半紙の果てまであり、私は先づその品名、それ等物品の置場所まで、それらを覚えるのに一苦労をしたものである。
又私は身分は砿員であり乍ら、私の下には20才未満の男の子6人女の子5人居り、これらも者は伝票と引替えに物品を払出す仕事をしている者である。

幌内炭鉱倉庫

私がこの倉庫係に就いたのは満洲より10月初旬に引揚げ帰郷してから約1ヶ月の昭和21年11月で年令30才の時である。

 

※注:写真出典「三笠鉄道村 幌内歴史写真館」幌内炭山市街(昭和15年頃)

※注1:1946年(昭和21年)の1円20銭は、現在の価値に換算すると50円くらい(※注2)なので、ちょっと安すぎるような気がします。

※注2:やるぞう 消費者物価計算機 1902-2017

 

古田氏コロ島より帰郷する

私は倉庫払出しの管理にも、どうやら少々慣れてやがけ12月ともなり、雪が積り出した12月中旬古田氏がコロ島より帰って来たのであった。
知らせを受けた私は日曜日を利用し古田氏を訊ねたのであった。

古田氏の家族は朝鮮を出て以来婦人の弟で布引坑の坑内員として仂いていた婦人の実弟夫婦(3人家族)の元に同居し、婦人は市来知(イチキシリ)の農家の出面作業に通い、総勢8人が、この実弟夫婦家族と共に6帖2間の砿員長屋に居住していたのであった。

月形炭鉱

私はこの日始めて朝鮮で別れた切りの古田氏婦人及子供達と面会したのである。
古田氏は別段変りなく、私とコロ島で別れて以来約2ヶ月振りであったが、元気な様子に私は安心して、その日は夕刻まで、話込んで帰った。
それから間もなく古田氏も幌内砿へ復帰を求めたが、それも叶わず、知人の世話で、月形炭砿の坑内員となり、毎週月形より土曜、日曜を利用し帰宅していたが、間もなく、幌内市街地に借家を借りて移り住んだのであった。

それから間もなく私が、ようやく仕事にも慣れた4月初旬、突然ハルピン難民収容所で別れ切りになっていた水林ツナさんが私の家を訊ねて来たのであった。
ツナさんの話に依れば、収容所で夫清衛門さんと娘八重さんの2人を失い、当時4才と2才の孫2人を連れて、婿である重一さんの実家に引揚げて来たが、気性の激しいツナさんとと重一さんの親達とは常に意見が合わず、そのためツナさんは孫2人を連れて秋田の重一さん宅を引揚げ自分の古巢のような幌内へ帰り、昔の伝手を求めて炭砿病院の掃除婦に採用してもらい現在砿員住宅に孫と共に生活をしているとのことであった。

そのツナさんが私を訪ねて来た用件というのは、現在ツナさんが務めている炭砿病院の看護婦さんで、気性の良い美人の看護婦さんが居るので、その人を私のお嫁さんにどうかということで来てみたと云うことであった。

私にとってツナさんは私が若い項から選炭工場で世話になり、又満洲ジヤライノール在住当時も隨分と世話になったった人で、今度は又お嫁さんの世話まで心配してくれるツナさんの厚意は非常に有難かった。

しかし考へてみるに私はまだ薄給の身で、まだそこまでは考へておらず、余り突然の話に一應その日はツナさんに引取ってもらったのであった。
丁度母も不在であり、母が帰宅してから、その話をすると母は娘さんは申し分のない人だが、娘さんの母親という人は狹い幌内でも非常に見識の高い口喧しい人で知られている人なので、余り賛成は出来ないと云うことで、私は母の意を尊重し、翌日又訊ねて来たツナさんに対し丁重に断ったのである。

 

※注:写真出典「北の細道 月形炭鉱

 

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