羽幌炭砿22年間中の思い出 ~北海道・羽幌編2~

26. 羽幌炭砿の思い出
羽幌砿業所
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上級保安技術耺員試験に合格する

昭和30年項に至って政府は重要耺種に携さわる者に対し國家試験合格者でなければならないと云う規則を設けたのであった。

それで炭砿も例外なく、その中に含まれ、炭砿從業員中、直接労仂に携わる者以外、即ち炭砿の場合は事務耺以外の、耺員は全員この國家試験合格者でなければ、その耺に就くことが出来なくなったのである。

しかし直ちに全員、この試験に合格出来るとは限らず、それで政府は5ヶ年間のいうよ期間を設け、現在既にその耺にある者は、このいうよ期間中に資格をとることとしたのであった。

しかし炭砿の場合は、上級保安と普通保安の2種類があり、普通保安の場合は直接作業の監督をする者で炭砿の場合は係長以下ということになり、上級保安は、課長以上、即ち課長、部長、所長ということになる訳である。

それで私も第1回目の普通保安試験(札幌において実施)に合格したので後は野となれ山となれであった。

これに理由があり、羽幌炭砿の場合は、大学及専門学校卆でなければ、課長以上の耺につくことが出来ないと云う社内々規のようなものがあるとみえて、事実大卆、専門卆以外でその耺に就いている者がいないので私の如き者が、苦労をしてまで、上級保安試験を受ける必要がなく、全く他人如のように考へていた。

又現在、課長、部長耺に就いている者は、どうするかと云う問題になるが、この人達も一応札幌で上級保安試験を実施したが合格率20%と云う低率の有様であった。

而しその為、事業を停止させる訳にはゆかず、結局、この人達は札幌において1日特別講習を行い、特別許可という制度を設けて、そのまま現耺を続行させる制度をとったのであった。

羽幌炭砿では炭界好況の波に乘り、北大、京大、室蘭、秋田の大学及専問学校卆が大量に入社し、これらの人々が上級保安試験合格を目指して毎年受験したが、その合格率は40%程度のものであった。

国家試験制度が実施されて以後の状況は以上のような実態であった。

普通保安技術耺員の場合は、5ヶ年という猶予期間があるので問題はないが、上級保安技術耺員の場合は、耺場の管理耺に就いている、課長級以上の場合は、この猶予期間という制度がないので、どうしても一度の試験で資格をとらねばならないが、しかし現場は前述の通りの有様である為、通産局は止むなく、特別許可制度を設けて、現在既に課長耺以上に就いている者に対して、その制度を適用したのであった。

普通保安技術耺員試験の場合は、現在既にその耺に就いている者は、5年間の猶予期間があるので、呑気に構えて12科目を1科目か2科目づつとって5年間で全科目をとろうとしている者が大多数であった。

しかし、現在、大卆、専門学校卆で入社している者にとっては将来必ずこの上級保安に合格してをらなければならないので受験をする者が多く、その中に将来は北大に帰って教授を目指している磯部俊郎氏※注1も、この上級試験にいどんだのであった。

しかし磯部氏は、受験の結果、第1回目には不合格となり第2回目で合格したのであった。

これを見た私は、よし磯部氏が2回目で合格するのであれば、私は何回で合格するか、やってみようと考へ、早速磯部氏が合格した翌年の試験に挑戦したのであった。

上級保安試験の科目は7科目で、
機械、電気、火薬、ガス、地圧、土木、建築

以上の専門科目であった。

以上を札幌で行われる年1回の試験であるが、まづ私の予想通り第1回目は、機械、電気、火薬、ガス、地圧の5科目に合格したが残り土木、建築の2科目が不合格の結果に終ったのであった。

それで翌年再び残り2科目に挑戦、建築1科目だけの合格で終り、翌年残りの1科を、ようよう手中に納めで、3年がかりで上級保安試験に合格した次第である。

しかし前述のように、この試験合格は、私にとって何んの意味もなく、隨って社内では誰れ1人喜んでくれる人もなく、私1人だけの自己満足で終り、発表の日は、私1人で家で祝杯をあげて終ったのであった。

 

※注:写真出典「鈴木商店記念館 羽幌砿業所(昭和35年頃)

※注1:磯部敏郎氏については以下の記事を参照してください。

 

 

國家試験補佐官に任命される

ところが翌年、札幌通産局より、局長名で、貴殿を「國家試験、試験補佐官に任命する」という辞令を受取ったのである。

これは普通保安試験の猶務期間が後3年後に迫り、今まで呑気に構えていた連中が、あわてて受験に乘り出し、受験人数が急激に増加し、札幌の試験場だけでは、収容出来なくなり、通産局では、試験場を、札幌以外に北海道に5ヶ所設けたのであった。

それは、稚内、羽幌、釧路、美唄、夕張、茅沼の5ヶ所で、受験日は小学校が夏休みに入り校舎が空くのを利用し、そこを会場とし、試験官は、通産局より各2名、各試験場へ出張して来るのであるが、その試験官だけでは不足なため、この5ヶ所の試験場に補佐官、各1名を配置し、その補充に当てようとし、通産局では、全道炭砿より5名の補佐官を任命したのであった。

それで、北海道全炭砿員の中より5名を選出し、その中に私も入っていたのであった。
どうして私如き者が選出されたのか不明であるが、この5名の者は、おそらく、上級保安技術耺員合格者であることは間違いないが、私はこれで、会社の課長耺にはなれないが、これだけで満足したのである。

普通保安技術耺員試験は、私が任命された、その年から3回毎年8月に実施されて昭和30年に現地での試験は廃止され31年より又札幌で行われるようになったが、私はそのため3年間補佐官務め、羽幌炭砿でも、この3年間中に全員試験に合格して業務に支障のない事業が継続されるようになった。

そして、この補佐官制度の終了した年の暮れに、通産局長名の感謝状が私の手元に届き、國家試験一段落した感じであった。

 

炭砿救護隊員の資格を得る

三井三池三川坑炭塵大爆発

昭和25年、炭砿災害救護隊法が制定され、坑内に於ける、災害発生の際は、救護隊員でなければ入坑出来ない規定が定められ、その隊員の養生が岩見沢市に救護隊員練習所が設けられた。

それで私も会社から選抜されて、その練習所で3日間の訓練を受け試験の結果、正式に全國炭砿救護隊員の資格を得たのである。

これは坑内災害とは、石炭の場合、一酸化炭素、及メタンガスの発生は必ず発生する有毒ガスである。
その為坑内の石炭採堀には、局部扇風機外主要扇風機を設置し、24時間、1時的にも、この扇風機を停止することなしに、ガスが停帶しないよう運転を続けなければならないのである。

それが何等からの故障又は災害発生のため停止した場合は、酸素呼吸器を装着せずに素面では入坑出来ないのでこれに備えて救護隊員を養生訓練をしてなくてはならないのある。

ところが石炭の採堀が深部に入るに從って、これらの事故が発生することが多くなるのである。

そのため、消防隊員のように訓練された救護隊員の必要が生じて来る訳である。

それで羽幌炭砿に於いても炭砿規則の条令に基づいて、正式な順練を受けた隊員50名が隊員となり、会社でも築別隊、羽幌隊と合流して羽幌炭砿、合同救護隊を設け、合同救護隊長に山元本社、保安課長、築別隊長には築別砿砿務課長、羽幌隊長には羽幌砿々務課長が任命され、これを統合結成し羽幌炭砿共同救護隊と名付けられたのである。

そして共同救護隊長の下に總務という名稱でこれは、両隊の連絡や、共同救護隊長不在の場合に両隊長との連絡を司るのが任務で、その役が私であった。

服装は白色の防毒服を付け、酸素呼吸器のボンベを背負い、防毒マスクを着用するのが災害時の服装で、平常訓練の場合は、ボンベと呼吸器を外した服装である。

こうして共同救護隊が結成されてから、この救護隊が実際に活仂したのは、3回あった。
それだけにこの救護隊は有効に活仂をし、災害を最小限度に止めることが出来たのである。

私は總務の立場から毎年会社として行われる秋季大会の開催や、3年毎に岩見沢から招待する練習所々長の接待、又札幌の大通公園で行われ不定期、北海道炭砿連盟の合同演習や、毎年開催される岩見沢訓練所の隊長懇親会の代理参加等で結構忙しかったものである。

又、この救護隊員の資格は北海道の炭砿ばかりではなく、全國共通であることと、り災者に対する救命措置法も念められており、一般罹災者に対しても救命の措置が出来るのである。

そうした関係から私は日本赤字社、札幌支社の講師とも知り合い、講師を招いて会社從業員に対し数回講習会を開催した。

 

※注:写真出典「写真に見る炭鉱災害の記録 三井三池三川坑炭塵大爆発

 

平成15年10月

羽幌町に羽幌炭砿記念舘が数年前に設立されKちゃん※注2夫婦・その記念舘へ行って来たのである。

羽幌鑛業所記念アルバム内にあるフクヲの写真

 

※注2:Kとはフクヲの孫=マメコの妹です。(※注3

※注3:これまで登場人物をほぼ実名で記載してきましたが、事情により妹についてはイニシャルとさせていただきます。

(見出しおよび以下の写真はKの夫=KEN五島氏による撮影です。)

羽幌鑛業所記念アルバム -職員名簿-

※注:白抜き部分は画像編集したものです。

 

羽幌炭砿記念舘に残る私の坑内帽

※注:女性はフクヲの孫=マメコの妹Kです。事情によりモザイクをかけています。以下同じ

 

 

 

※注:これで「回顧録」全4巻は終了となります。

 

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